タンシュエ軍事政権時代から7年往来したミヤンマ―。日本人は伊藤忠やYKKの3~5人しかいなかった頃からです。小乗仏教の多民族連邦国家、少数民族の多くの村々も訪れ視察しました。気になるのがロヒンギャ問題の根幹です。多くのメディア報道や国際記事も精査させて頂きましたが多くはミヤンマ―の価値観と歴史的見解の違いを感じます。
ベンガル湾沿いのミヤンマー西部のラカイン州の北西部に住むイスラム系少数民族ロヒンギャで推定100万人以上です。ロヒギャはインド・ベンガル地方を起源とするイスラム教を信仰する人々でミヤンマ―語は話さずベンガル語のチッタゴン方言のロヒギャ語を話す人々です。ミヤンマ―政府は人口調査の対象外で国籍は付与していない。英植民地時代に創設されたアラカン・ロヒギャ救世軍(ARSA)の武装勢力が仏教徒、政府軍(国軍)への襲撃が発端の問題です。国軍はテロリストと認定しロヒンギャ住民の住む地域に入り捜査をし民兵も加わり住民に乱暴や放火も発生し一般住民が国境のナフ河を超えバングラデシュ南端に脱出した帰還難民問題です。
歴史的には1785年ビルマ王国(コンバウン朝)の侵略で滅亡したアラカン王国のモスリム捕虜の子孫です。1826年英ビルマ戦争で敗北しラカインが英国の植民地化し以後ベンガル側から大量のモスリムがこの地に入った。太平洋戦争期(1941~1945)英国勢力を追放しビルマを占領した日本軍が仏教徒を武装化しラカイン奪還を目指す英軍がベンガルのモスリムを武装化し日英の代理戦争でモスリムと仏教徒の「宗教戦争」になった。
1948年の大戦後ビルマは独立した。しかし当時の東パキスタン(バングラデシュ)と国境を接するラカイン州北西部は1950年代の初頭まで中央政府の及ばない地域で食糧不足の東パキスタンからベンガル人が大量に流入し武装反乱するモスリムがロヒンギャとして名乗っていたのです。
国際社会や国連、日本のメディアは難民問題としてミヤンマ―政府を非難していますが歴史的にも正確には大量越境の帰還問題であると筆者は考えています。バングラデシュの難民の人道問題は別でバングラデシュ政府の帰還問題です。英国植民地政策の弊害、カレンなどの少数民族独自軍を創設し70%以上のビルマ族を支配した政策で軍事政権の必然性があった。軍事政権は多くの少数民族独自軍の武装解除、和平交渉で国家統一に貢献したのです。ロヒンギャ問題も武装勢力を排除し仏教価値観のミヤンマ―憲法を遵守する人々のみに帰還と国籍付与すべき問題と考えますが・・。
まあ世相川柳でも(作者不詳)
昼は猿 夜は猪鹿 畑ドロ
妻の手を 久々つなぎ 静電気
孫産まれ 命をつなぎ 生きるかて
写真はミヤンマ―ビルマ族の女性労働者
アウンサン・スー・チーさんは?
と単純に考えがちの一人でした。
勉強になりました。
「休みのない海」から。