目次
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
○ カッパドキア編
・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居
○ イスタンブール編
・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと
○ トルコ編
・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
○ カッパドキア編
旅の始まり
皆さんご機嫌よう。お構いねぐ。初めての方も、前回(ラオス、仏のいとし児の住まう国)前々回(アンコール・ワットとメコン・デルタ紀行)の読者の皆さんもメルハバ(今日は)。
以前の旅も観光旅行で、今回はそれに輪をかけた観光の旅、行き先も辺境シリーズから外れたメジャーなトルコ共和国です。食い足りない面はあるかもしれないね。でも苦手なプレゼンを克服してオリンピック招致に成功した日本が、六回連続して落選した気の毒なトルコちゃんに、余裕を持ってエールを送るのにはちょーどよい。
それにトルコを訪れる観光客は多い順に1位ドイツ、2位ロシア、3位イギリス、4位フランス、5位アメリカで、日本はなーんだ、三十三位。ヨーロッパとアジアの架け橋イスタンブールの旧市街を歩くと、日本人はずいぶん目に入るが、郊外に行くバスターミナルやエディルネの町では一人も見なかった。2位のロシアは、黒海を渡って地続きみたいなものだから、今日はドライブがてらテーブルクロスでも買いに行こうかしらの、がてらかしら族が多いと思われる。ドイツとトルコの仲は、第一次世界大戦の同盟国。自分が自動車部品の仕事をしていた時にドイツの工場に行ったら、トルコ人の労働者が男女共に多いこと。ここはトルコの工場ですか?あとパリでもロンドンでもイスタンブールは近いもんね。東京から札幌に行くようなもんさ。
今回の旅の相棒はMyカミさん。彼女は体は小さいが山登り、マラソン、ジムで鍛えている上に、こちらの弱点は百も承知だから手強い。おマケにここは男女逆転して超方向音痴の自分と違い、一度歩いた道を忘れない。歩くガイドブックか、と突っ込みを入れたくなるほど、「地球の歩き方」を頭に入れていて、適当なスケジュールを許さない。おかげでずいぶん真面目な観光をさせられました。トホホ。
カッパドキア
カッパドキアの中心都市はギョレメで、ギョレメは最近までマッチャンと呼ばれていた。トルコ語って変ですか?水はsuス、お茶はÇaiチャイ、良いがYiイイ、かまいません(気にしていません)がオネムリデーイル。
気をつけなくてはいけないのは母音でiはイだが、Iは「イ」の口をして「ウ」と発音する。従って有名なTOPUKAPI宮殿はトプカプ宮殿です。自分はてっきりトプカピ宮殿だと半世紀も間違っていた。トルコ語の発音は難しくはない。ガイドブックのトルコ語の表示を見せてネレデ(どこ)?と聞けば道を教えてくれる。スーパーで雑貨コーナーに行き、コロンヤ(香水おしぼり)ネレデと言えば、店員のきれいだが無愛想なお姉さんが面倒くさそうに棚を指さす。ちなみに一般のトルコの人は英語が分からない人が多い。日本と同じだね。ただ特に男性は異常なほど親切な人が多くて、駅などで立ち止まって回りを見渡すと、何?道が分からないの?俺に聞いて、聞いて、教えてあげたいったらありゃしない、といった顔をして2-3人が立ち止まって待っています。こんな国も珍しい。
カッパドキアはアナトリア高原の中央部に広がる奇岩地帯。数億年前にエルジエス山(3,916m)が噴火し、火山灰と溶岩が数百mずつ積み重なり、凝灰岩と溶岩層になった。その後気が遠くなるような歳月をかけて風雨による浸食が進み、固い部分だけが残されて不思議な形の岩となりました。
カッパドキアのガイドは超真面目で笑顔の無いビル(三十代、二人の子持ち)と、いつもニコニコ若いのに腹の出てきたドライバー、その名もオスマン。お客は初日は我々二人だけで、次の日は大阪から来たお姉さん(と言うにはギリだが)が加わり三人。この人とはイスタンブールでも一日一緒になった。
見学はギョレメの洞窟教会群から始まった。暑い。そして乾燥している。
さて、ここに着くまでにトルコ航空で成田~イスタンブール、十二時間。ヨーロッパよりは二時間短い。イスタンブールで国内線に乗り換えたら、空港で空き時間が二時間あったので、ファストフードのハンバーガー屋へ行きました。空港では何でも高い。パン一ヶで三百円も四百円もします。ファストフードも高いので、ポテトの小とドリンク(自分で選んで入れる)だけを頼んだが七百円もしました。量は多かったけど日本の三倍じゃん。時間は十九時過ぎで夕陽が赤く燃えて地平線に沈んでゆく。カウンターの兄ちゃんは何だかえらく楽しそう。ポテトを取りに行く時、勢いをつけて床を滑って遊んでいるし、鼻歌なんぞフンフンやっている。それはまあよろしいのだが、あんた要領悪すぎ。ビジネスマンが、自分の前に頼んだハンバーガーセット3-4ケを出すのに優に五分はかかっているが、急ぐ気配は全くない。散々待たされ高いポテトセットを受け取ると、カミさんが「ああ残念。たった今、夕陽が沈んじゃった。地平線にそのまま落ちていったんだよ。」
カッパドキアにあるカイセリ空港に着いたのは二十三時頃、今回の旅を通じてトルコの空港での手続きはどこも大変スムーズでした。空港から洞窟ホテルまで行く車の中で、明日からの予定等を話しあっていると、一ヶ月前に予約を取り消したバルーン(熱気球)が予定されているので慌ててキャンセル。「何でキャンセルしたの?」と聞かれたから、「値が高い。日程がきつい。事故があった。」と答える。日本からの連絡が行っていないはずがない。全く困ったちゃんである。ところがそれで一件落着とはいかなかった。翌早朝、ホテルの部屋がノックされバルーンの兄ちゃんが迎えにきた。ええかげんにせんかい。ただみんな、キャンセルされてもちっとも怒ったりいらいらしたりはしていない。イムシャアッラー→神の御心の欲するままに。
カッパドキアのことを初めて知ったのはいつだろう?高校生くらいかな。ローマで異端とされたキリスト教徒が逃れてきて、イメージとして核戦争後の世界で、迷路のような地下シェルターを作り蟻のように暮らしている。
このイメージは、一部は当たっているが大半は間違っていた。世界遺産カッパドキアは、自然が造り上げた標高千mを越す高原地域で、住んでいたのはキリスト教徒、修道僧だけではなく、紀元前二千年ヒッタイトの時代から通商路の要地として栄え、四世紀前後からキリスト教の修道士が凝灰岩に洞窟を掘って住み始めた。
彼らは洞窟内の天井や壁に見事なフレスコ画を残した。キリストの昇天、受胎告知、聖ジョージによる蛇退治等々、ギョレメ谷には三十以上の岩窟教会が、主に十二-十三世紀にかけて作られた。岩をくり貫いて作られた長テーブルのある食堂・礼拝堂の入り口付近には必ず2-6ケの墓穴が掘ってあり、そこを通らないと中へは入れない。その内のいくつかにはデモンストレーションとして人骨が横たわっている。赤ちゃん用の小さな墓穴もある。いかに乾燥地帯とは言え、これほど死と隣り合わせの生活を送っていたとは。
フレスコ画は光の差し込む部分ほど風化が進み、目の部分を削った破壊、落書きの跡もあるが、質量ともに素晴らしい。中には画学生による稚拙な練習フレスコ画があって、ここで生活をしていた人々の息吹を感じる。カッパドキア随一の広さを持つ教会で十世紀後半に描かれたフレスコ画は、特に青の色に深みがあって美しい。
地下都市
カッパドキアにいくつもある(中心部の地図だけでも六つ)地下都市の一つにもぐった。ここデリンクユの地下都市は地下七階、地上から六十m下まで掘られている。中には地下十九階まである地下都市があるそうだ。デリンクユでは四万人が暮らしていたと言うから凄いな。トイレなんかどうしていたんだろう。この地下都市の発祥や歴史は良く分かっていないが、紀元前四百年頃の記録にすでに残っているそうだ。それってイエス・キリちゃんの前じゃん。とにかくハシゴ段を降りる、降りる。登ってまた降りる。人一人で目一杯の狭い通路を抜けると広場に出て、そこは礼拝堂や学校の教室に使われていた。他に台所、倉庫、家畜小屋、岩のベット、井戸、吹き抜けの底なしの通気孔。ところどころに敵の侵入を防ぐため、2m位の輪切りのタクワンを巨大化したような形の石が、ストッパーを外すとゴロンと転がり、反対側に設けた窪みにピタっとはまって道を塞ぐ装置が用意されている。ってちゃんと止めとけよな。今でも直ぐに使えそうじゃん。電気は点いているが、広場をつなぐ通路は暗くて、背をかがめひざを折って歩く。ガイドがいなけりゃどこをどう歩いているのか分からない。前後左右、上下斜め上、下の感覚が激しく攪拌され方向音痴にはこたえる。閉所恐怖があったら死ぬね。アリの生活も楽じゃない。牛なんか子牛の時に中に入れたら、大きくなって狭い通路は通れない。一生太陽は見られないね。いやー地上に出た時はホッとしたが、この後3-4日筋肉痛で足が痛かった。それにしてもどれだけ地上は恐ろしい所だったんだろうか。抜剣した騎馬隊が走り廻っていたんだろうか。
陶器工場と絨毯屋
旅のスケジュールに陶器工場と絨毯屋が入っていた。これがね、両方とも見応えがあったんだ。まずは陶器。偶像崇拝を排除したイスラム教なので、図案は植物を抽象化し鮮やかな原色を巧みに組み合わせた、いわば色彩のカクテルとでも言おうか。ここで作られた大皿は美しい。顔料には水晶の粉を混ぜているそうだ。中にはホタル石を砕いて混ぜたものもあり、それは暗くすると発光してちょい不気味。
一方絨毯。絨毯って不思議な漢字だよね。陶器工場にも絨毯屋にも、日本語が異常にうまいお兄さんがいて、ジョークを混ぜて熱心に見物させてくれたが、飯茶碗二個しか買わないしょーもない客でした。絨毯なんぞ買う訳がない。百年保つ貴重で高価な絨毯。日本に帰って敷く場所がないっしょ。
広い部屋の低いソファに座って、惜しげもなく次々に広げられる絨毯を見比べていると、高価な物ほど美しい。目の保養ってこのことか。目に美人は良いが、絨毯だってなかなかだ。シルクの絨毯は日の当たる角度によって、色が次々に変わってゆく。その絨毯をぐるっと一周すると何通りにも楽しめる。本当にきれいだ。値がはるのもうなずける。普通の絨毯は、農村の娘さんがお母さんに教わって、お嫁に行く前に一枚は仕上げたといいます。
絨毯、キルト、陶器、ガラス工芸、こういった伝統のある手工業が根付いている国はいいね。歴史と文化の重みを感じる。後は建築。夢のように美しいモスクだが、それはイスタンブールに行ってのお楽しみ。
洞窟住居
最後に洞窟住居を紹介しよう。現在カッパドキアは世界遺産となり、新しく洞窟を掘ったり住んだりする事は禁止されています。けれども何世代にも渡ってそこに住んできた人達は別だ。そんな家を一軒を訪ねました。皆さんの中で、風穴とか何とか洞とかに入ったことのある人がいたら分かるでしょう。洞窟の中は年間を通して温度がほぼ十四度Cに保たれていて、夏は涼しく冬は暖かい、とか案内に出ていたりするよね。そう、洞窟は意外に快適なんだ。ここカッパドキアは千mを越える高地にあり、冬はマイナス十六度、数年前には最低気温マイナス二十二度を記録しています。降水量は少ないが積雪地帯で、この洞窟住居の冬の写真が雑誌に載っているのを見せてもらったが、雪に覆われた家の中から蒸気が白い煙となってもうもうと出ていていかにも寒そうでした。
部屋は洞窟内にいくつもあって、地下ケーブルで電気も来ている。床には暖かい絨毯が敷かれ壁にキルトが掛かっている。棚なんか掘ればいくらでも出来るのだから冬仕事にはもってこいだ。住まいが傷むこともこりゃ百年ないね。汚れたらちょっと掘っちゃえばよい。何年/何百年前から住んでいるのか聞き忘れたが、何世代にも渡って拡張してきたんだろうね。チャイをごちそうになり、一部屋でお土産を売っていたので、カミさんが布製のバックを二つ買ったが、一つ千円位でイスタンブールよりずっと安かった。ここに住むおばあさん(といっても息子が二十歳ほどだから、ひょっとすると我々より若いのかもしれない)がニコニコしてずっと付いてきたが、残念話しは通じない。何より良かったのがバルコニーで、高さ二十mほど、絶壁の下から三分の一くらいの所が堀り込まれ丸木の手すりが付いている。そこに長イスが置かれ、陽が差し込んでいる。眼下の入り口の花壇とごく小さな果樹園が箱庭のように見え、廻りは見渡す限りの奇岩群、ここを吹き抜ける風の心地よさったらたまらない。一日このバルコニーの長イスに横になって昼寝をしたり、好きな本を読んだり出来たらもう何もいらねー。
カッパドキア観光は範囲が広大で変化に富んでいます。百mの断崖絶壁に挟まれたウフララ渓谷を下まで階段で降りて冷たい清流に沿って二キロほど歩くハイキングは、景色がきれいで途中にある洞窟教会の壁画は素晴らしかった。けれども観光客の多い割には地元の住民が少ない。主要な観光スポットは決まっているから、ガイドとドライバーは、他のガイドや土産物の人達と毎日のように顔を合わせています。僕らが休憩したり、土産を見ている時にはガイドのビルはいつも知り合いと男どうしでハグし、ほおを寄せて挨拶をして出されたチャイを飲む。一体一日で何杯飲むんだ。何でこんな屋台みたいな店なのに直ぐに熱々のチャイが出てくるんだ。
トルコのチャイはミルクを入れない。ちょっと煮出し過ぎじゃない、といった濃い紅茶をたいてい高さ8㎝ほどのグラスに入れ、小さな受け皿に載せて提供されます。まあこれなら小さいから何杯飲んでもお腹がガバガバになることはない。チャイは香りが良いが、うちのカミさんはちょっときついと言って旅の途中からアイラン(トルコ風ヨーグルトドリンク、さっぱりして程良い酸味)に切り代えました。自分も水牛のミルクが入って甘い、印度のチャイの方が好きだな。
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
○ カッパドキア編
・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居
○ イスタンブール編
・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと
○ トルコ編
・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
○ カッパドキア編
旅の始まり
皆さんご機嫌よう。お構いねぐ。初めての方も、前回(ラオス、仏のいとし児の住まう国)前々回(アンコール・ワットとメコン・デルタ紀行)の読者の皆さんもメルハバ(今日は)。
以前の旅も観光旅行で、今回はそれに輪をかけた観光の旅、行き先も辺境シリーズから外れたメジャーなトルコ共和国です。食い足りない面はあるかもしれないね。でも苦手なプレゼンを克服してオリンピック招致に成功した日本が、六回連続して落選した気の毒なトルコちゃんに、余裕を持ってエールを送るのにはちょーどよい。
それにトルコを訪れる観光客は多い順に1位ドイツ、2位ロシア、3位イギリス、4位フランス、5位アメリカで、日本はなーんだ、三十三位。ヨーロッパとアジアの架け橋イスタンブールの旧市街を歩くと、日本人はずいぶん目に入るが、郊外に行くバスターミナルやエディルネの町では一人も見なかった。2位のロシアは、黒海を渡って地続きみたいなものだから、今日はドライブがてらテーブルクロスでも買いに行こうかしらの、がてらかしら族が多いと思われる。ドイツとトルコの仲は、第一次世界大戦の同盟国。自分が自動車部品の仕事をしていた時にドイツの工場に行ったら、トルコ人の労働者が男女共に多いこと。ここはトルコの工場ですか?あとパリでもロンドンでもイスタンブールは近いもんね。東京から札幌に行くようなもんさ。
今回の旅の相棒はMyカミさん。彼女は体は小さいが山登り、マラソン、ジムで鍛えている上に、こちらの弱点は百も承知だから手強い。おマケにここは男女逆転して超方向音痴の自分と違い、一度歩いた道を忘れない。歩くガイドブックか、と突っ込みを入れたくなるほど、「地球の歩き方」を頭に入れていて、適当なスケジュールを許さない。おかげでずいぶん真面目な観光をさせられました。トホホ。
カッパドキア
カッパドキアの中心都市はギョレメで、ギョレメは最近までマッチャンと呼ばれていた。トルコ語って変ですか?水はsuス、お茶はÇaiチャイ、良いがYiイイ、かまいません(気にしていません)がオネムリデーイル。
気をつけなくてはいけないのは母音でiはイだが、Iは「イ」の口をして「ウ」と発音する。従って有名なTOPUKAPI宮殿はトプカプ宮殿です。自分はてっきりトプカピ宮殿だと半世紀も間違っていた。トルコ語の発音は難しくはない。ガイドブックのトルコ語の表示を見せてネレデ(どこ)?と聞けば道を教えてくれる。スーパーで雑貨コーナーに行き、コロンヤ(香水おしぼり)ネレデと言えば、店員のきれいだが無愛想なお姉さんが面倒くさそうに棚を指さす。ちなみに一般のトルコの人は英語が分からない人が多い。日本と同じだね。ただ特に男性は異常なほど親切な人が多くて、駅などで立ち止まって回りを見渡すと、何?道が分からないの?俺に聞いて、聞いて、教えてあげたいったらありゃしない、といった顔をして2-3人が立ち止まって待っています。こんな国も珍しい。
カッパドキアはアナトリア高原の中央部に広がる奇岩地帯。数億年前にエルジエス山(3,916m)が噴火し、火山灰と溶岩が数百mずつ積み重なり、凝灰岩と溶岩層になった。その後気が遠くなるような歳月をかけて風雨による浸食が進み、固い部分だけが残されて不思議な形の岩となりました。
カッパドキアのガイドは超真面目で笑顔の無いビル(三十代、二人の子持ち)と、いつもニコニコ若いのに腹の出てきたドライバー、その名もオスマン。お客は初日は我々二人だけで、次の日は大阪から来たお姉さん(と言うにはギリだが)が加わり三人。この人とはイスタンブールでも一日一緒になった。
見学はギョレメの洞窟教会群から始まった。暑い。そして乾燥している。
さて、ここに着くまでにトルコ航空で成田~イスタンブール、十二時間。ヨーロッパよりは二時間短い。イスタンブールで国内線に乗り換えたら、空港で空き時間が二時間あったので、ファストフードのハンバーガー屋へ行きました。空港では何でも高い。パン一ヶで三百円も四百円もします。ファストフードも高いので、ポテトの小とドリンク(自分で選んで入れる)だけを頼んだが七百円もしました。量は多かったけど日本の三倍じゃん。時間は十九時過ぎで夕陽が赤く燃えて地平線に沈んでゆく。カウンターの兄ちゃんは何だかえらく楽しそう。ポテトを取りに行く時、勢いをつけて床を滑って遊んでいるし、鼻歌なんぞフンフンやっている。それはまあよろしいのだが、あんた要領悪すぎ。ビジネスマンが、自分の前に頼んだハンバーガーセット3-4ケを出すのに優に五分はかかっているが、急ぐ気配は全くない。散々待たされ高いポテトセットを受け取ると、カミさんが「ああ残念。たった今、夕陽が沈んじゃった。地平線にそのまま落ちていったんだよ。」
カッパドキアにあるカイセリ空港に着いたのは二十三時頃、今回の旅を通じてトルコの空港での手続きはどこも大変スムーズでした。空港から洞窟ホテルまで行く車の中で、明日からの予定等を話しあっていると、一ヶ月前に予約を取り消したバルーン(熱気球)が予定されているので慌ててキャンセル。「何でキャンセルしたの?」と聞かれたから、「値が高い。日程がきつい。事故があった。」と答える。日本からの連絡が行っていないはずがない。全く困ったちゃんである。ところがそれで一件落着とはいかなかった。翌早朝、ホテルの部屋がノックされバルーンの兄ちゃんが迎えにきた。ええかげんにせんかい。ただみんな、キャンセルされてもちっとも怒ったりいらいらしたりはしていない。イムシャアッラー→神の御心の欲するままに。
カッパドキアのことを初めて知ったのはいつだろう?高校生くらいかな。ローマで異端とされたキリスト教徒が逃れてきて、イメージとして核戦争後の世界で、迷路のような地下シェルターを作り蟻のように暮らしている。
このイメージは、一部は当たっているが大半は間違っていた。世界遺産カッパドキアは、自然が造り上げた標高千mを越す高原地域で、住んでいたのはキリスト教徒、修道僧だけではなく、紀元前二千年ヒッタイトの時代から通商路の要地として栄え、四世紀前後からキリスト教の修道士が凝灰岩に洞窟を掘って住み始めた。
彼らは洞窟内の天井や壁に見事なフレスコ画を残した。キリストの昇天、受胎告知、聖ジョージによる蛇退治等々、ギョレメ谷には三十以上の岩窟教会が、主に十二-十三世紀にかけて作られた。岩をくり貫いて作られた長テーブルのある食堂・礼拝堂の入り口付近には必ず2-6ケの墓穴が掘ってあり、そこを通らないと中へは入れない。その内のいくつかにはデモンストレーションとして人骨が横たわっている。赤ちゃん用の小さな墓穴もある。いかに乾燥地帯とは言え、これほど死と隣り合わせの生活を送っていたとは。
フレスコ画は光の差し込む部分ほど風化が進み、目の部分を削った破壊、落書きの跡もあるが、質量ともに素晴らしい。中には画学生による稚拙な練習フレスコ画があって、ここで生活をしていた人々の息吹を感じる。カッパドキア随一の広さを持つ教会で十世紀後半に描かれたフレスコ画は、特に青の色に深みがあって美しい。
地下都市
カッパドキアにいくつもある(中心部の地図だけでも六つ)地下都市の一つにもぐった。ここデリンクユの地下都市は地下七階、地上から六十m下まで掘られている。中には地下十九階まである地下都市があるそうだ。デリンクユでは四万人が暮らしていたと言うから凄いな。トイレなんかどうしていたんだろう。この地下都市の発祥や歴史は良く分かっていないが、紀元前四百年頃の記録にすでに残っているそうだ。それってイエス・キリちゃんの前じゃん。とにかくハシゴ段を降りる、降りる。登ってまた降りる。人一人で目一杯の狭い通路を抜けると広場に出て、そこは礼拝堂や学校の教室に使われていた。他に台所、倉庫、家畜小屋、岩のベット、井戸、吹き抜けの底なしの通気孔。ところどころに敵の侵入を防ぐため、2m位の輪切りのタクワンを巨大化したような形の石が、ストッパーを外すとゴロンと転がり、反対側に設けた窪みにピタっとはまって道を塞ぐ装置が用意されている。ってちゃんと止めとけよな。今でも直ぐに使えそうじゃん。電気は点いているが、広場をつなぐ通路は暗くて、背をかがめひざを折って歩く。ガイドがいなけりゃどこをどう歩いているのか分からない。前後左右、上下斜め上、下の感覚が激しく攪拌され方向音痴にはこたえる。閉所恐怖があったら死ぬね。アリの生活も楽じゃない。牛なんか子牛の時に中に入れたら、大きくなって狭い通路は通れない。一生太陽は見られないね。いやー地上に出た時はホッとしたが、この後3-4日筋肉痛で足が痛かった。それにしてもどれだけ地上は恐ろしい所だったんだろうか。抜剣した騎馬隊が走り廻っていたんだろうか。
陶器工場と絨毯屋
旅のスケジュールに陶器工場と絨毯屋が入っていた。これがね、両方とも見応えがあったんだ。まずは陶器。偶像崇拝を排除したイスラム教なので、図案は植物を抽象化し鮮やかな原色を巧みに組み合わせた、いわば色彩のカクテルとでも言おうか。ここで作られた大皿は美しい。顔料には水晶の粉を混ぜているそうだ。中にはホタル石を砕いて混ぜたものもあり、それは暗くすると発光してちょい不気味。
一方絨毯。絨毯って不思議な漢字だよね。陶器工場にも絨毯屋にも、日本語が異常にうまいお兄さんがいて、ジョークを混ぜて熱心に見物させてくれたが、飯茶碗二個しか買わないしょーもない客でした。絨毯なんぞ買う訳がない。百年保つ貴重で高価な絨毯。日本に帰って敷く場所がないっしょ。
広い部屋の低いソファに座って、惜しげもなく次々に広げられる絨毯を見比べていると、高価な物ほど美しい。目の保養ってこのことか。目に美人は良いが、絨毯だってなかなかだ。シルクの絨毯は日の当たる角度によって、色が次々に変わってゆく。その絨毯をぐるっと一周すると何通りにも楽しめる。本当にきれいだ。値がはるのもうなずける。普通の絨毯は、農村の娘さんがお母さんに教わって、お嫁に行く前に一枚は仕上げたといいます。
絨毯、キルト、陶器、ガラス工芸、こういった伝統のある手工業が根付いている国はいいね。歴史と文化の重みを感じる。後は建築。夢のように美しいモスクだが、それはイスタンブールに行ってのお楽しみ。
洞窟住居
最後に洞窟住居を紹介しよう。現在カッパドキアは世界遺産となり、新しく洞窟を掘ったり住んだりする事は禁止されています。けれども何世代にも渡ってそこに住んできた人達は別だ。そんな家を一軒を訪ねました。皆さんの中で、風穴とか何とか洞とかに入ったことのある人がいたら分かるでしょう。洞窟の中は年間を通して温度がほぼ十四度Cに保たれていて、夏は涼しく冬は暖かい、とか案内に出ていたりするよね。そう、洞窟は意外に快適なんだ。ここカッパドキアは千mを越える高地にあり、冬はマイナス十六度、数年前には最低気温マイナス二十二度を記録しています。降水量は少ないが積雪地帯で、この洞窟住居の冬の写真が雑誌に載っているのを見せてもらったが、雪に覆われた家の中から蒸気が白い煙となってもうもうと出ていていかにも寒そうでした。
部屋は洞窟内にいくつもあって、地下ケーブルで電気も来ている。床には暖かい絨毯が敷かれ壁にキルトが掛かっている。棚なんか掘ればいくらでも出来るのだから冬仕事にはもってこいだ。住まいが傷むこともこりゃ百年ないね。汚れたらちょっと掘っちゃえばよい。何年/何百年前から住んでいるのか聞き忘れたが、何世代にも渡って拡張してきたんだろうね。チャイをごちそうになり、一部屋でお土産を売っていたので、カミさんが布製のバックを二つ買ったが、一つ千円位でイスタンブールよりずっと安かった。ここに住むおばあさん(といっても息子が二十歳ほどだから、ひょっとすると我々より若いのかもしれない)がニコニコしてずっと付いてきたが、残念話しは通じない。何より良かったのがバルコニーで、高さ二十mほど、絶壁の下から三分の一くらいの所が堀り込まれ丸木の手すりが付いている。そこに長イスが置かれ、陽が差し込んでいる。眼下の入り口の花壇とごく小さな果樹園が箱庭のように見え、廻りは見渡す限りの奇岩群、ここを吹き抜ける風の心地よさったらたまらない。一日このバルコニーの長イスに横になって昼寝をしたり、好きな本を読んだり出来たらもう何もいらねー。
カッパドキア観光は範囲が広大で変化に富んでいます。百mの断崖絶壁に挟まれたウフララ渓谷を下まで階段で降りて冷たい清流に沿って二キロほど歩くハイキングは、景色がきれいで途中にある洞窟教会の壁画は素晴らしかった。けれども観光客の多い割には地元の住民が少ない。主要な観光スポットは決まっているから、ガイドとドライバーは、他のガイドや土産物の人達と毎日のように顔を合わせています。僕らが休憩したり、土産を見ている時にはガイドのビルはいつも知り合いと男どうしでハグし、ほおを寄せて挨拶をして出されたチャイを飲む。一体一日で何杯飲むんだ。何でこんな屋台みたいな店なのに直ぐに熱々のチャイが出てくるんだ。
トルコのチャイはミルクを入れない。ちょっと煮出し過ぎじゃない、といった濃い紅茶をたいてい高さ8㎝ほどのグラスに入れ、小さな受け皿に載せて提供されます。まあこれなら小さいから何杯飲んでもお腹がガバガバになることはない。チャイは香りが良いが、うちのカミさんはちょっときついと言って旅の途中からアイラン(トルコ風ヨーグルトドリンク、さっぱりして程良い酸味)に切り代えました。自分も水牛のミルクが入って甘い、印度のチャイの方が好きだな。
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