ラオスの娘
ラオスの娘は、対照的な2パターンに分かれる。
多数派のラオ人の娘は、呆れるほどの恥ずかしがり屋さんだ。視線を向けただけで、どうしましょうとアタフタクネクネ、身も世もなく顔を赤らめ、隠れる所を探す。で隠れちゃう。
隠れ場所から興味深々で異国人を見つめる。視線が合うとさっと隠れる。アノネ、君が身に着けているその巻きスカートは、足こそ出ないがヒップラインはピチピチで、結構色っぽい。恥ずかしいのはそのせいかな。プチポッチャリ、ホッペ福福タイプが多い。しゃべり方もおっとり、動きもゆっくり。
一方モン族に代表される山岳民族の娘は、全く物怖じしない。顔はきりっとした美人が多く、こちらが照れるほど真っ直ぐに視線を合わせ、ハッキリと低音で話す。モン族は勇敢な戦士で精悍な顔立ちのハンサムが多く、ラオス軍は内戦時、政府軍も反政府軍も精鋭部隊は常にモン族だった。モンの中にも様々な部族がいて、仲が悪かったりするのだ。
そんなモン族の戦士も、女(母・妻・姉等々)には全く頭が上がらない。母系社会で、内も外も完璧に女が牛耳っている。モン族は頭がよい。ラオスの大学では、1~3番は少数派のモンかリス・アカといった山岳民族が占めるのが常らしい。
ところがモンの女からすると、男が子供にみえて仕方がないらしい。もういい、あたしに任せな。ラオスの旧都ルアンパバーンの夜市は、様々な山岳民族がそれぞれ伝統的な図柄の布地やバックを持ち寄って、ランプの灯りの下で一坪店舗を開いているが、店主は全員女性だ。中には10代と思える娘さんがいて、実に堂々と外国人と渡り合う。搬入・搬出といった力仕事だけが男の仕事なんだろう。
ルアンパバーンから車で5-6時間、山道を北上し更に細長い乗り合いボートでメコンの支流を1時間ちょっと遡った所にある小さな村。川からでないと行けない(山の中を行けたとしても不発弾が恐い)この村は、川の桟橋から長い階段を登り切った高台にある。台地の上に街がり、寺があって畑が広がる。田畑の向こうは山だ。
娘の名前をとったニンニンハウスには、川に張り出したテラスがある。川面から30mといったところか。川の両岸は切り立った山で、谷底を流れる川は、所々狭くなり流れが速くなる。テラスには蚊やハエはいず、朝夕は上に一枚着ないとちょっと寒い。ここから見る夕陽は、悲しいほどに美しい。陽が刻々と落ちるにつれて、山の緑が順々と闇に覆われる。西の空にはまだオレンジ色が残っていても、桟橋の辺りは暗くてもうよく見えない。そうして星が一つ、また一つと現れる。
ニンニンハウスのバンガローは自家発電だから、電気の流れる時間は限られている。ここのオーナーは、凛々しい美人奥さんで、やさしそうな旦那は厨房で調理をしたり、重い物を運んだりしている。ニンニンは小学校4年生くらいか。中国人のようにも見える小娘で、特に美少女ということもないが、物怖じしない活発な子だ。我々オジさんに朝食のパンやコーヒーを運んできて、拙い英語であれこれと話しかけてくる。面白い娘だなー、気を抜くとやり込められる。
夜になり、ニンニンの友達(元気な女の子二人)が遊びに来た。親父さんに許可を取り、彼女達に花火をあげると、ろくにアリガトも言わずに歓声をあげ、夢中になって3人で遊び始めた。
花火と言えば、南ラオスでは宿の主人に話して、夕方近所の子供達を集めてもらった。ホテルはメコン本流の川中島にある。人口数千人の大きな島だ。橋はないので、イカダに船外機を取り付けたようなフェリーで渡る。島には学校と寺があり、田畑が一面に広がっているから、子供たちは近所の農家から来たんだろう。
チビ共が20人ほど集まった。水を入れたバケツを用意し、川に張り出した大きな木のテラスで花火大会が始まった。100円shopで用意した風船を次々に膨らませて子供に渡す。アメもたっぷりあるよ。
暗くなったメコン川岸は、子供たちの笑い声とシューシューいう花火の音と光で盛り上がってきた。何事かとネコも行儀よく遠巻きに見入る。「動かしちゃダメ、線香花火はじっと待つんだって。」大人は遠くから見つめるだけで、終始仕切っているのは、赤ちゃんを抱いた12歳くらいの少女だ。この娘がチビ共を見て、火を他の子に向けないように、終わった花火は水バケツに入れるようにテキパキと指示する。チビ共は彼女の言いつけを守る。彼女がいる限り、チビ連は安全だ。
一通り見渡して、娘は合間を見て自分も花火に手を出した。花火に照らされた娘の笑顔、その腕に抱かれた赤ちゃんのキャッキャッ笑う声。
あれだね、隣りのトトロで病気のお母さんに代わって妹メイの面倒を見る、しっかり者の五月が、素に戻ってトトロの腹に飛びつくシーン。あれを思い起させる。花火が終わると、チビ軍団は、娘に統率されて去った。
あのラオス旅行から5-6年経った。ニンニンは17-18歳に成長して、お母さんの右腕になっているだろう。やさしいお父さんは、妻と娘からポンポン言われているんじゃないかな。
メコン支流の上流部は、結構冷たい水だった。川岸では女も男もいつも誰かが洗濯をしている。石鹸をふんだんに使って直接川の水で洗っているが、その程度の汚染は、人の営みとして愛おしいくらいだ。何しろメコン本流も支流も川岸には、看板の類いは一切なく人工的なゴミは全く浮いていない。
洗濯の横では、水浴びをしている。陽のある内に浴びないと寒い。女性は服の中に石鹸を突っ込んで器用に洗う。10歳くらいの髪の長い少女が腰まで川に入り、石鹸(シャンプー?)をつけて髪を洗う。夕陽の迫る中で、洗った髪を首を傾けて絞りながら、少女は川から上がる。俺は相棒に言った。「女の子が髪を洗っているね。(何かいいね)」「うん、うらやましいな、チクショー」クリリン頭の相棒は答えた。
最後に、自分のラオス初体験は25歳。タイ・カンボジア国境での井戸掘りが、中途半端な状態で終わってしまった。その後、タイ北部のチェンマイ、その北にあるチェンライ、そこから更に北上してちょっと涼しいような山岳地帯にある、山岳民族の難民キャンプに移動した。そこで自動車整備の学校の設立準備(まずは教材の翻訳)に携わったのだが、カンボジアとはずいぶん勝手が違った。
北の方を眺めると、山また山で、国境がどこなのか分からない。国境の向こうで戦闘が行われている気配はなく、タイの兵隊もほとんど見ない。難民キャンプはどこまでがキャンプか、元からある村なのか、境界線がよく分からない。
山岳民族の女性の民族衣装は、黒を基調に赤や黄の原色を大胆に品よく使って美しい。娘も婆さんも同じ衣装だ。部族ごとに文様が違い、特に被り物が独特なので、一目で何族か分かるそうだ。
彼女たちは、野菜を洗ったり切ったり、刺繍をしたり洗濯したりと忙しい。男たちは狩や農作業が出来ず、暇を持て余している。山羊や水牛の解体では、輪になってテキパキと手際の良さを見せるが、普段はキャンプ内をブラブラして闘鶏で盛り上がる。
タイ・カンボジア国境のクメール人難民村と比べると、何という緊張感の無さ。物資もさほど不足しているようには見えない。古着も援助団体から豊富に入ってくるようで、周辺のタイ人よりも明らかに良いものを着ている。
ガクランを着たおじいさん。ボタンを首まできっちりと留めてパイプをくゆらす。メッチャ似合っている。山岳民族には、詰襟がよく似合う。キャンプの前に屋根付きの、そこそこ大きな市場があった。市場の前、キャンプの脇に掘っ立て小屋のような飯屋があり、そこで若い娘が働いていた。
彼女はポニーテール、色の褪せた巻きスカートにTシャツ、身長は160cmくらい。この娘が飛び切り可愛いらしかった。目がパッチリ、ふっくらホッペに目の覚めるような笑顔。でも恥ずかしがりで、目が合うとニコっとして直ぐにいなくなる。
で、彼女が喋っているのを一度だけ聞いた。ビックリした。すっごい高音なんだ。小鳥が人間の言葉を喋っているような心地よさ。きれいな音が頭の上からパラパラと降ってくるようだ。いいなー、あの娘を嫁にして、ここに住むのも悪くない。膝枕で近所の噂話を、あの天使の声で聞きながら、うんうんと言ってうたた寝をしたら天国だ。
その時の印象から、<ラオスの娘は可愛い>が刷り込まれた。しかし今考えると、あの娘はタイ人だったんだろう。まあラオ人とタイ人は同じシャム族だから、あまり違わないけどね。色が白かったから、山岳民族の血が混ざっていたのかもね。
ラオスの娘は、対照的な2パターンに分かれる。
多数派のラオ人の娘は、呆れるほどの恥ずかしがり屋さんだ。視線を向けただけで、どうしましょうとアタフタクネクネ、身も世もなく顔を赤らめ、隠れる所を探す。で隠れちゃう。
隠れ場所から興味深々で異国人を見つめる。視線が合うとさっと隠れる。アノネ、君が身に着けているその巻きスカートは、足こそ出ないがヒップラインはピチピチで、結構色っぽい。恥ずかしいのはそのせいかな。プチポッチャリ、ホッペ福福タイプが多い。しゃべり方もおっとり、動きもゆっくり。
一方モン族に代表される山岳民族の娘は、全く物怖じしない。顔はきりっとした美人が多く、こちらが照れるほど真っ直ぐに視線を合わせ、ハッキリと低音で話す。モン族は勇敢な戦士で精悍な顔立ちのハンサムが多く、ラオス軍は内戦時、政府軍も反政府軍も精鋭部隊は常にモン族だった。モンの中にも様々な部族がいて、仲が悪かったりするのだ。
そんなモン族の戦士も、女(母・妻・姉等々)には全く頭が上がらない。母系社会で、内も外も完璧に女が牛耳っている。モン族は頭がよい。ラオスの大学では、1~3番は少数派のモンかリス・アカといった山岳民族が占めるのが常らしい。
ところがモンの女からすると、男が子供にみえて仕方がないらしい。もういい、あたしに任せな。ラオスの旧都ルアンパバーンの夜市は、様々な山岳民族がそれぞれ伝統的な図柄の布地やバックを持ち寄って、ランプの灯りの下で一坪店舗を開いているが、店主は全員女性だ。中には10代と思える娘さんがいて、実に堂々と外国人と渡り合う。搬入・搬出といった力仕事だけが男の仕事なんだろう。
ルアンパバーンから車で5-6時間、山道を北上し更に細長い乗り合いボートでメコンの支流を1時間ちょっと遡った所にある小さな村。川からでないと行けない(山の中を行けたとしても不発弾が恐い)この村は、川の桟橋から長い階段を登り切った高台にある。台地の上に街がり、寺があって畑が広がる。田畑の向こうは山だ。
娘の名前をとったニンニンハウスには、川に張り出したテラスがある。川面から30mといったところか。川の両岸は切り立った山で、谷底を流れる川は、所々狭くなり流れが速くなる。テラスには蚊やハエはいず、朝夕は上に一枚着ないとちょっと寒い。ここから見る夕陽は、悲しいほどに美しい。陽が刻々と落ちるにつれて、山の緑が順々と闇に覆われる。西の空にはまだオレンジ色が残っていても、桟橋の辺りは暗くてもうよく見えない。そうして星が一つ、また一つと現れる。
ニンニンハウスのバンガローは自家発電だから、電気の流れる時間は限られている。ここのオーナーは、凛々しい美人奥さんで、やさしそうな旦那は厨房で調理をしたり、重い物を運んだりしている。ニンニンは小学校4年生くらいか。中国人のようにも見える小娘で、特に美少女ということもないが、物怖じしない活発な子だ。我々オジさんに朝食のパンやコーヒーを運んできて、拙い英語であれこれと話しかけてくる。面白い娘だなー、気を抜くとやり込められる。
夜になり、ニンニンの友達(元気な女の子二人)が遊びに来た。親父さんに許可を取り、彼女達に花火をあげると、ろくにアリガトも言わずに歓声をあげ、夢中になって3人で遊び始めた。
花火と言えば、南ラオスでは宿の主人に話して、夕方近所の子供達を集めてもらった。ホテルはメコン本流の川中島にある。人口数千人の大きな島だ。橋はないので、イカダに船外機を取り付けたようなフェリーで渡る。島には学校と寺があり、田畑が一面に広がっているから、子供たちは近所の農家から来たんだろう。
チビ共が20人ほど集まった。水を入れたバケツを用意し、川に張り出した大きな木のテラスで花火大会が始まった。100円shopで用意した風船を次々に膨らませて子供に渡す。アメもたっぷりあるよ。
暗くなったメコン川岸は、子供たちの笑い声とシューシューいう花火の音と光で盛り上がってきた。何事かとネコも行儀よく遠巻きに見入る。「動かしちゃダメ、線香花火はじっと待つんだって。」大人は遠くから見つめるだけで、終始仕切っているのは、赤ちゃんを抱いた12歳くらいの少女だ。この娘がチビ共を見て、火を他の子に向けないように、終わった花火は水バケツに入れるようにテキパキと指示する。チビ共は彼女の言いつけを守る。彼女がいる限り、チビ連は安全だ。
一通り見渡して、娘は合間を見て自分も花火に手を出した。花火に照らされた娘の笑顔、その腕に抱かれた赤ちゃんのキャッキャッ笑う声。
あれだね、隣りのトトロで病気のお母さんに代わって妹メイの面倒を見る、しっかり者の五月が、素に戻ってトトロの腹に飛びつくシーン。あれを思い起させる。花火が終わると、チビ軍団は、娘に統率されて去った。
あのラオス旅行から5-6年経った。ニンニンは17-18歳に成長して、お母さんの右腕になっているだろう。やさしいお父さんは、妻と娘からポンポン言われているんじゃないかな。
メコン支流の上流部は、結構冷たい水だった。川岸では女も男もいつも誰かが洗濯をしている。石鹸をふんだんに使って直接川の水で洗っているが、その程度の汚染は、人の営みとして愛おしいくらいだ。何しろメコン本流も支流も川岸には、看板の類いは一切なく人工的なゴミは全く浮いていない。
洗濯の横では、水浴びをしている。陽のある内に浴びないと寒い。女性は服の中に石鹸を突っ込んで器用に洗う。10歳くらいの髪の長い少女が腰まで川に入り、石鹸(シャンプー?)をつけて髪を洗う。夕陽の迫る中で、洗った髪を首を傾けて絞りながら、少女は川から上がる。俺は相棒に言った。「女の子が髪を洗っているね。(何かいいね)」「うん、うらやましいな、チクショー」クリリン頭の相棒は答えた。
最後に、自分のラオス初体験は25歳。タイ・カンボジア国境での井戸掘りが、中途半端な状態で終わってしまった。その後、タイ北部のチェンマイ、その北にあるチェンライ、そこから更に北上してちょっと涼しいような山岳地帯にある、山岳民族の難民キャンプに移動した。そこで自動車整備の学校の設立準備(まずは教材の翻訳)に携わったのだが、カンボジアとはずいぶん勝手が違った。
北の方を眺めると、山また山で、国境がどこなのか分からない。国境の向こうで戦闘が行われている気配はなく、タイの兵隊もほとんど見ない。難民キャンプはどこまでがキャンプか、元からある村なのか、境界線がよく分からない。
山岳民族の女性の民族衣装は、黒を基調に赤や黄の原色を大胆に品よく使って美しい。娘も婆さんも同じ衣装だ。部族ごとに文様が違い、特に被り物が独特なので、一目で何族か分かるそうだ。
彼女たちは、野菜を洗ったり切ったり、刺繍をしたり洗濯したりと忙しい。男たちは狩や農作業が出来ず、暇を持て余している。山羊や水牛の解体では、輪になってテキパキと手際の良さを見せるが、普段はキャンプ内をブラブラして闘鶏で盛り上がる。
タイ・カンボジア国境のクメール人難民村と比べると、何という緊張感の無さ。物資もさほど不足しているようには見えない。古着も援助団体から豊富に入ってくるようで、周辺のタイ人よりも明らかに良いものを着ている。
ガクランを着たおじいさん。ボタンを首まできっちりと留めてパイプをくゆらす。メッチャ似合っている。山岳民族には、詰襟がよく似合う。キャンプの前に屋根付きの、そこそこ大きな市場があった。市場の前、キャンプの脇に掘っ立て小屋のような飯屋があり、そこで若い娘が働いていた。
彼女はポニーテール、色の褪せた巻きスカートにTシャツ、身長は160cmくらい。この娘が飛び切り可愛いらしかった。目がパッチリ、ふっくらホッペに目の覚めるような笑顔。でも恥ずかしがりで、目が合うとニコっとして直ぐにいなくなる。
で、彼女が喋っているのを一度だけ聞いた。ビックリした。すっごい高音なんだ。小鳥が人間の言葉を喋っているような心地よさ。きれいな音が頭の上からパラパラと降ってくるようだ。いいなー、あの娘を嫁にして、ここに住むのも悪くない。膝枕で近所の噂話を、あの天使の声で聞きながら、うんうんと言ってうたた寝をしたら天国だ。
その時の印象から、<ラオスの娘は可愛い>が刷り込まれた。しかし今考えると、あの娘はタイ人だったんだろう。まあラオ人とタイ人は同じシャム族だから、あまり違わないけどね。色が白かったから、山岳民族の血が混ざっていたのかもね。
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