旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

戦象

2016年05月05日 19時22分16秒 | エッセイ
戦象

 象を家畜化する試みは、4,000年前のインダス川流域で始められ、軍用としては紀元前1,100年ごろからで、その活躍を称えるサンスクリット語の讃歌が複数残っているそうだ。
 中国の軍隊もかつて殷の時代に戦象を使用して、大きな働きをしたと『呂氏春秋』に書かれているが、漢代には気候変動と過度の捕殺によって中原の象は絶滅した。その後は南方に遠征して異民族の象軍に苦戦している。ニセの獅子を作って象を怯えさせて勝利したともいう。張り子の獅子作戦だな。モンゴルの軍団はビルマに侵攻して、パガン朝の象軍と戦い勝利している。ベテランのモンゴル兵も、象には流石に驚いたことだろう。象の動きを封じ込めるべく、密林に誘い込み弱点の鼻に無数の矢を打ち込んだらしい。
 西欧人で初めて象軍と戦ったのは、アレキサンドロス大王だ。最初はペルシャのダレイオス3世と紀元前331年のガウガメラの戦いで対峙した。その後アレキサンドロスがインドに攻め込むと、本格的な象軍と戦うことになる。紀元前326年7月、インダス川の支流で地元の王ボーヴァラ率いる膨大な数の騎兵、3万人の歩兵と射手、120頭の象軍が川に沿ってギリシャ・マケドニア連合軍を迎えうった。兵力が劣勢なのはいつものことだが、象の大軍を見て怯える兵士をアレキサンドロスは激励した。「奴らは敵兵よりも味方の軍隊にとって、危険な存在である。」
 斧と長槍で武装した精鋭部隊を組織し、象の足の裏と鼻を集中して狙い、襲って傷つけては逃げるヒットエンドランを繰り返した。激闘は8時間続き、傷つき痛みにパニックを起こした象は暴走し、周囲の騎兵、歩兵を見境なく踏みつぶし勝敗は決した。
 しかしながら古代の戦場において象軍は恐るべき決戦兵器だった。人よりもまず馬が怯える。象の匂いがたまらなく苦手なのだ。古代の記録によると、「どんなにびっしり並んだ横隊も、どんなに結束の固い大隊も、自分たち目がけて押し寄せてくるこの巨大な一群に茫然自失となった。」酒や薬物を与えられ怒り易くなった数十頭の象が時速30kmで一斉に突撃してくる。象は歩兵を押し倒して踏みつぶし、鼻で捕まえて空中に放り投げる。鼻で首を絞める。牙で刺し殺す。象の攻撃から逃れた兵は、象の背に乗った兵士から弓や槍の攻撃を受ける。象軍には密集した重装歩兵軍団を一撃で蹴散らす勢いがあった。
 ローマ軍もピュロスに侵攻し、20頭の戦象に出くわし動揺して敗北しているが、5年後には研究して勝っている。象の突撃に対しては、様々な対策がなされた。大きな釘をビッシリ植えた板を並べる。6mの長槍をもった戦車兵が象の鼻が届かない遠くから攻撃する。火矢を集中して用いる。弩砲で150m先の象兵目がけて槍を発射する。高所にいて狙い易い象使いに矢を集中して殺す。豚に火をつけて戦場に放つ。戦場に草を積んで火をつける。
 象は大音響に弱かったが、これは訓練によってある程度克服できる。ムガル帝国では戦象に銃兵を乗せ、タイ(シャム)では大砲を乗せた。しかし象はいったん暴走すると味方の被害をもたらすため、急所部分に予め大きな釘を取りつけパニックになり制御が出来なくなると、象使いがそれを槌で叩いて致命傷を与える事もあったという。
 さて現在全アジアでも野生の象は4万頭しかいないが、7世紀クメール王朝最盛期にはカンボジアだけで20万頭のインド象が生息していた。ラオス王国は国名が「百万頭の象」に由来する。アンコール・トムの壁画では、軍象同士が鼻を振り上げ激しく戦っている。
 ビルマでは現在、5,400~8,400頭の象が林業の労働力として使役されている。インド象(アジア象)は全高が3~4m。アフリカ象(サバンナ象)の全高4~5mに較べて一廻り小さい。古代、象の種類は多くて亜種は細かくは12、大きくは3つに分類される。セイロン象はスリランカ固有の亜種だ。他にもメソポタミア象、ペルシャ象、中国象、ジャワ象などのアジア象の亜種が存在したが、12世紀まで生きたジャワ象を除き、紀元前5世紀頃に相次いで絶滅した。アフリカ象はコンゴがベルギー領だった時代に、インドの象使いを雇い調教に成功している。気性が荒くて家畜化出来ないという訳ではないようだ。しかし古代でカルタゴやエジプトが戦象として使用したのは、小型の象で全高2~3mのサヘル象だった。このサヘル象は戦象にするために狩り集められ、ついには絶滅してしまった。現在も中央アフリカの森林地帯に生息するマルミミ象(森林象)が、サヘル象と同種類であると考えられる。
 象は、戦象としてよりはむしろ荷駄象としての活躍の方が重要だった。イギリス軍は19世紀の植民地戦争で大量の象を輸送用に活用し、悪路でも大砲等を運んでいる。第二次世界大戦のビルマ戦線では敵味方の相方、日本、中国、英印軍全てが象を食糧弾薬の運搬に用いた。インドシナ戦争ではフランス軍は象の騎兵部隊を作り、ベトナム戦争ではアメリカ軍はジャングルでの斥候のために活用した。現在のビルマでも反政府勢力のカチン族等が使っている。
 カルタゴの将軍ハンニバルが37頭の戦象を連れてスペインから遥かイタリア、ローマを目指し、川を超えアルプス山脈を越えた。ハンニバルに従うガリア兵は寒さに弱い象たちに毛布をかぶせ、餌を遠くまで探しにいったりしたが、2週間の山越えの最中、象達は次々に凍死し氷や雪に足を滑らせて谷に落ち、イタリアに到着したのは衰弱した3頭に過ぎなかった。それでも象を初めて見るローマ人には大変なインパクトを与えた。
 その後の戦闘で2頭が倒れ、スールスと名付けられた一頭だけが残った。スールスはインド象で、他は全てサヘル象だったようだ。眼病で片目となったハンニバルはスールスに跨って北イタリアの野を進み、南イタリアのカンナエの戦いで5万の傭兵を率い、7万のローマ軍正規兵を包囲殲滅し、根拠地に残っていた1万を捕虜にした。
 その後14年に渡ってローマを相手に一人戦い続けたハンニバルは、自身の根拠地スペインを弟と共に失い、本国カルタゴは政争に明け暮れて当てにならず、少数の兵のみを船に乗せ、大半の兵士を南イタリアの先端部に置き去りにしたまま北アフリカに舞い戻る。ローマ対カルタゴ、互いの存亡を賭けた一戦に臨む。ザマの戦い(紀元前202年10月19日)である。
 相手はハンニバルを尊敬し、ハンニバルの戦術を研究しつくしたローマの若い将軍スキピオだ。精悍なヌミディアの騎兵は大半がローマにつき、騎兵の数ではカルタゴが不利だ。ハンニバルは戦闘の序盤にローマ軍のファランクスを打ち砕くべく80頭の戦象を突撃させる。しかし象軍が密集歩兵軍団にぶち当たる直前、スキピオは各隊の間隔を素早く開ける。象は一直線に進む。急停車は出来ないし、方向転換は苦手だ。80頭の戦象は戦隊をすり抜け、ローマ軍に何らの損傷を与えることなく、戦場の後方へと去った。


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