少年十字軍
ハーメルンの笛吹き男は、子供たちを連れ出してどこに行ったんだろう。13世紀に起こった子供十字軍は、大人の扇動ではなく自発的に起こった集団ヒステリーのような出来ごとだった。歴史を見ると時々、突拍子もない事が起きている。小説家は気の毒だ。余りに現実離れした事は書けない。書いてもリアリティーが無いから本は売れない。
アフリカの戦場ではしばしば村を襲って子供をさらい、AK47を持つ少年兵とする。少年に父親を殺させ、後戻りが出来ないようにすることも多い。日本の特攻隊では最年少は16歳。ナチスの少年兵(14~18歳のヒトラーユーゲント)がうまく機能したとは思わないが、いくつかの戦場に登場している。ベルリン最後の日々で、押し寄せる赤軍兵の楯となって死んでいった少年兵も多かった。
イラン・イラク戦争では、地雷原の突破にイランの革命防衛隊の少年兵が駆り出された。しかし少年少女を実にうまく使ったのは、毛沢東とポル・ポトだ。毛沢東は、自身に無条件で忠誠を誓う紅衛兵を率いて政権を奪還し、死ぬまでの10年間、好き放題の毛帝国に君臨した。死後も取り巻きは駆逐されたが、毛本人は批判されていない。1966~1976年に至る文化大革命、あの狂気の時代を生きた老人、大人、子供たちはそれぞれに辛い思いをし、心の傷を残している。
先生を小突きまわし殴り、親を密告した心の傷は、大人になっても容易には癒えない。ポルポトは、政権を取っていたのは4年弱だが、200万人ともいわれる自国民を殺している。オンカー(党)の手先となり、民衆を殺したクメール・ルージュ兵の多くは少年だった。「泣いてはいけない。笑ってはいけない。それは昔の生活を想い出し、オンカーを裏切ることになる。」
強制収容所では先生や医者、村長や僧侶といった知識人が次々と殺されていった。終いにはメガネをかけている、という理由だけで殺された。銃弾を節約するためにこん棒で殴り殺し、鋭い葉先を持つサゴヤシの葉を首に刺した。収容所を任されている看守は、ほとんどが少年だった。少年は資本主義に毒されていない、という理由から重用され、子供医者などという奇怪なものが生まれた。3ヶ月の速習教育を受けた子供医者は、患者を次々に死なせた。
ある監獄に収容された元英語教師の男性は、少年看守達に毎晩イソップ物語などを思い出して話した。娯楽のない社会で少年たちは、目を輝かして男の話を聞いた。先生は毎日必死に物語を思い出し、また創作した。面白くないと思われたら、他の囚人と同じくゴミのように殺される。少年達は、あの男は面白いから生かしておこうと相談し、先生は収容所がついに解放される日まで生き延びた。
さて話を少年十字軍に戻そう。十字軍は第一回が成功した以外、ことごとく失敗した。第一次十字軍で獲得した聖地エルサレムは既にイスラム側に奪還された。第四回十字軍(1202~1204年)は、イスラム教徒と戦うどころかあろうことかキリスト教(正教)国、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻め落とし、掠奪と殺戮の限りを尽くした。
ローマ教皇はこの恥知らずの十字軍を破門(後に取り消す)し、欧州各地に説教師を派遣して新たな十字軍を募った。しかし諸侯や騎士は、見返りの少ない遠征に乗り気にならない。内政で手一杯な上に、遠征には莫大な資金がかかる。イスラム軍の圧倒的な強さも思い知っていた。ところが為政者ではなく、説教師に煽られた民衆の中から十字軍参加の気運が高まっていった。
そんな鬱屈した空気の最中、ドイツと北フランスで少年が呼びかけ自発的な十字軍が結成された。共に1212年のことだ。ドイツに住む羊飼いの少年ニコラスは、『約束された奇跡』を主張し始めた。
・我々の前に海は避け、聖地までの道が開かれるだろう。
・我々の聖地到着と同時に、戦うことなく異教徒は改心するだろう。
ドイツの少年少女はケルンに集合し、二手に分かれてアルプスを越え7,000人が北イタリアのジェノヴァに到着。ジャノヴァに着いた少年達は港に向かい叫ぶ、海よ、裂けよ!ところが何も起こらない。ここで多くの少年は失望し、熱が冷めて故郷へ引き返した。それでも残った少年達は、奇跡を待ってジェノヴァに滞在した。その信心深さに感銘を受けたジェノヴァ当局が、彼らにジェノヴァ市民権を与えた。それでもニコラスと数人の少年は諦めず、法王に面会する。法王は少年達に諦めるよう説得し、ついに彼らは帰郷する。しかし少年少女には資金も食糧もなく、多くの子供達は故郷にたどり着けずに、野山で死んでいった。
ドイツ、ニコラス少年の十字軍が平均15歳であったのに対し、北フランスの少年エティエンヌの呼びかけにより結成された少年少女の十字軍の、平均年齢は12歳と幼い。エティエンヌ少年は「神の手紙」を手渡され、聖地回復のお告げがあったと説き、熱狂した少年少女が親の反対を振り切り、家出をして集まった。その数2万。彼らは酷い食糧事情のなか、マルセイユに集合した。彼らも海が裂けるのを待つが、奇跡は起こらず、大多数は失望して帰郷した。 残ったエティエンヌと数百人の少年達は、無償で船を提供するという商人の申し出を受け、7隻の船に分乗して船出する。2隻はサルディニア島付近で難破、残りの5隻はアレクサンドリアに直行し、エティエンヌ以下全員がイスラム教徒の奴隷商人に売られた。これが少年十字軍の顛末だ。なお、少年十字軍の中に大人の庶民も数多く参加していた、という話しもある。
ハーメルンの笛吹き男は、子供たちを連れ出してどこに行ったんだろう。13世紀に起こった子供十字軍は、大人の扇動ではなく自発的に起こった集団ヒステリーのような出来ごとだった。歴史を見ると時々、突拍子もない事が起きている。小説家は気の毒だ。余りに現実離れした事は書けない。書いてもリアリティーが無いから本は売れない。
アフリカの戦場ではしばしば村を襲って子供をさらい、AK47を持つ少年兵とする。少年に父親を殺させ、後戻りが出来ないようにすることも多い。日本の特攻隊では最年少は16歳。ナチスの少年兵(14~18歳のヒトラーユーゲント)がうまく機能したとは思わないが、いくつかの戦場に登場している。ベルリン最後の日々で、押し寄せる赤軍兵の楯となって死んでいった少年兵も多かった。
イラン・イラク戦争では、地雷原の突破にイランの革命防衛隊の少年兵が駆り出された。しかし少年少女を実にうまく使ったのは、毛沢東とポル・ポトだ。毛沢東は、自身に無条件で忠誠を誓う紅衛兵を率いて政権を奪還し、死ぬまでの10年間、好き放題の毛帝国に君臨した。死後も取り巻きは駆逐されたが、毛本人は批判されていない。1966~1976年に至る文化大革命、あの狂気の時代を生きた老人、大人、子供たちはそれぞれに辛い思いをし、心の傷を残している。
先生を小突きまわし殴り、親を密告した心の傷は、大人になっても容易には癒えない。ポルポトは、政権を取っていたのは4年弱だが、200万人ともいわれる自国民を殺している。オンカー(党)の手先となり、民衆を殺したクメール・ルージュ兵の多くは少年だった。「泣いてはいけない。笑ってはいけない。それは昔の生活を想い出し、オンカーを裏切ることになる。」
強制収容所では先生や医者、村長や僧侶といった知識人が次々と殺されていった。終いにはメガネをかけている、という理由だけで殺された。銃弾を節約するためにこん棒で殴り殺し、鋭い葉先を持つサゴヤシの葉を首に刺した。収容所を任されている看守は、ほとんどが少年だった。少年は資本主義に毒されていない、という理由から重用され、子供医者などという奇怪なものが生まれた。3ヶ月の速習教育を受けた子供医者は、患者を次々に死なせた。
ある監獄に収容された元英語教師の男性は、少年看守達に毎晩イソップ物語などを思い出して話した。娯楽のない社会で少年たちは、目を輝かして男の話を聞いた。先生は毎日必死に物語を思い出し、また創作した。面白くないと思われたら、他の囚人と同じくゴミのように殺される。少年達は、あの男は面白いから生かしておこうと相談し、先生は収容所がついに解放される日まで生き延びた。
さて話を少年十字軍に戻そう。十字軍は第一回が成功した以外、ことごとく失敗した。第一次十字軍で獲得した聖地エルサレムは既にイスラム側に奪還された。第四回十字軍(1202~1204年)は、イスラム教徒と戦うどころかあろうことかキリスト教(正教)国、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻め落とし、掠奪と殺戮の限りを尽くした。
ローマ教皇はこの恥知らずの十字軍を破門(後に取り消す)し、欧州各地に説教師を派遣して新たな十字軍を募った。しかし諸侯や騎士は、見返りの少ない遠征に乗り気にならない。内政で手一杯な上に、遠征には莫大な資金がかかる。イスラム軍の圧倒的な強さも思い知っていた。ところが為政者ではなく、説教師に煽られた民衆の中から十字軍参加の気運が高まっていった。
そんな鬱屈した空気の最中、ドイツと北フランスで少年が呼びかけ自発的な十字軍が結成された。共に1212年のことだ。ドイツに住む羊飼いの少年ニコラスは、『約束された奇跡』を主張し始めた。
・我々の前に海は避け、聖地までの道が開かれるだろう。
・我々の聖地到着と同時に、戦うことなく異教徒は改心するだろう。
ドイツの少年少女はケルンに集合し、二手に分かれてアルプスを越え7,000人が北イタリアのジェノヴァに到着。ジャノヴァに着いた少年達は港に向かい叫ぶ、海よ、裂けよ!ところが何も起こらない。ここで多くの少年は失望し、熱が冷めて故郷へ引き返した。それでも残った少年達は、奇跡を待ってジェノヴァに滞在した。その信心深さに感銘を受けたジェノヴァ当局が、彼らにジェノヴァ市民権を与えた。それでもニコラスと数人の少年は諦めず、法王に面会する。法王は少年達に諦めるよう説得し、ついに彼らは帰郷する。しかし少年少女には資金も食糧もなく、多くの子供達は故郷にたどり着けずに、野山で死んでいった。
ドイツ、ニコラス少年の十字軍が平均15歳であったのに対し、北フランスの少年エティエンヌの呼びかけにより結成された少年少女の十字軍の、平均年齢は12歳と幼い。エティエンヌ少年は「神の手紙」を手渡され、聖地回復のお告げがあったと説き、熱狂した少年少女が親の反対を振り切り、家出をして集まった。その数2万。彼らは酷い食糧事情のなか、マルセイユに集合した。彼らも海が裂けるのを待つが、奇跡は起こらず、大多数は失望して帰郷した。 残ったエティエンヌと数百人の少年達は、無償で船を提供するという商人の申し出を受け、7隻の船に分乗して船出する。2隻はサルディニア島付近で難破、残りの5隻はアレクサンドリアに直行し、エティエンヌ以下全員がイスラム教徒の奴隷商人に売られた。これが少年十字軍の顛末だ。なお、少年十字軍の中に大人の庶民も数多く参加していた、という話しもある。
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