布団がいい
海外の(日本でも欧米系の)中級以上のホテルでは、部屋を温かくしてベットはかっちりセッティングされている。毛布をギュッギュッと引きはがして封筒のように潜り込む。ずい分と中身の分厚い封筒だけどね。あれは好かん。俺は布団で眠りたい。部屋は少々寒くても良いから、ふかふかの敷き布団、ある程度重みのある掛け布団に入って、体温で温かくなってぐっすり。
だけど日本人が布団で寝るようになって、未だ百年もたっていないんだ。布団の歴史は綿の歴史だが、そもそも綿が無かった。平安時代に草綿が中国から伝来したが、移植に成功しなかった。戦国期に兵衣や帆布といった軍需のため、木綿が中国から輸入され、やがて三河・遠江などで木綿の国産が始まった。江戸時代に入ると、木綿の生産は西日本の太平洋岸・瀬戸内・九州と産地が拡大したが、布団はまだ無い。
大昔は狩猟が盛んだったから毛皮を使っていたんだと思う。庶民はワラにもぐるか、かや・藁・蒲などを編んで作った敷物、むしろを土間に敷き、昼間着ていた衣服をかけて寝ていたらしい。体は地面から冷えるから、下からの冷気を遮断することが重要。7対3で下面からの保温に努めるべきだとサバイバルの達人が言っている。乾いた落ち葉を敷き詰めるだけでも違ったろうね。
むしろ、ござ、菰、まあの生活だな。では平安貴族はどうしていたかと言うと、下は数枚のむしろ、上は着ていた衣服、なんだ大して変わらんじゃないの。通い婚で女の家に牛車で行き、むしろの上でチョメチョメ、女の十二単衣を掛けて寝る。そんなところか。
鎌倉時代になると武士が夜の見張り、宿直(とのい)をするために綿入れの直垂衾(ひたたれぶすま)を着けるようになった。それが衿、袖付きの夜着に発展する。掻巻(かいまき)とも言う。室町時代には御衣(おんぞ)と呼ばれた。掛布団の原型だ。しかし綿はとても高級だから、庶民にはてんで買えない。現在のような形の掛布団が出てくるのは江戸のかなり後半からだ。
敷布団は、江戸初期にはすでにあったようで、花魁(遊女)が金持ちの客からプレゼントされたりしている。花魁のランクによって3枚とか5枚とか敷いていた、という記録が残っている。ちなみに3枚で100両する。仮に1両12万円として、布団3枚1,200万円、1枚なら400万円する。江戸の泥棒が布団を狙う訳だ。時代劇で長屋のハっつあんが畳の上に布団で寝ているのはおかしい。
庶民がようやく布団を手にするのは明治も進んで、綿花が貨物船で大量に輸入され機械化された紡績工業が各地に出来て、価格が下がってきてからのこと。それでも大部分の人はこもやむしろが主流だった。江戸時代は小寒氷期ともいえるほど寒かったのに、木と紙の家に住んでこも、むしろじゃあ切ない。麻袋などにわらやもみがら、海岸では海草、山村では樹皮や藤、芋づる、都市では紙を詰めた代用品を使っていた。
今、貧乏人でも布団はあるよね。これって明治中ごろまでの人達にとっては、夢のようなぜいたくな訳だ。
海外の(日本でも欧米系の)中級以上のホテルでは、部屋を温かくしてベットはかっちりセッティングされている。毛布をギュッギュッと引きはがして封筒のように潜り込む。ずい分と中身の分厚い封筒だけどね。あれは好かん。俺は布団で眠りたい。部屋は少々寒くても良いから、ふかふかの敷き布団、ある程度重みのある掛け布団に入って、体温で温かくなってぐっすり。
だけど日本人が布団で寝るようになって、未だ百年もたっていないんだ。布団の歴史は綿の歴史だが、そもそも綿が無かった。平安時代に草綿が中国から伝来したが、移植に成功しなかった。戦国期に兵衣や帆布といった軍需のため、木綿が中国から輸入され、やがて三河・遠江などで木綿の国産が始まった。江戸時代に入ると、木綿の生産は西日本の太平洋岸・瀬戸内・九州と産地が拡大したが、布団はまだ無い。
大昔は狩猟が盛んだったから毛皮を使っていたんだと思う。庶民はワラにもぐるか、かや・藁・蒲などを編んで作った敷物、むしろを土間に敷き、昼間着ていた衣服をかけて寝ていたらしい。体は地面から冷えるから、下からの冷気を遮断することが重要。7対3で下面からの保温に努めるべきだとサバイバルの達人が言っている。乾いた落ち葉を敷き詰めるだけでも違ったろうね。
むしろ、ござ、菰、まあの生活だな。では平安貴族はどうしていたかと言うと、下は数枚のむしろ、上は着ていた衣服、なんだ大して変わらんじゃないの。通い婚で女の家に牛車で行き、むしろの上でチョメチョメ、女の十二単衣を掛けて寝る。そんなところか。
鎌倉時代になると武士が夜の見張り、宿直(とのい)をするために綿入れの直垂衾(ひたたれぶすま)を着けるようになった。それが衿、袖付きの夜着に発展する。掻巻(かいまき)とも言う。室町時代には御衣(おんぞ)と呼ばれた。掛布団の原型だ。しかし綿はとても高級だから、庶民にはてんで買えない。現在のような形の掛布団が出てくるのは江戸のかなり後半からだ。
敷布団は、江戸初期にはすでにあったようで、花魁(遊女)が金持ちの客からプレゼントされたりしている。花魁のランクによって3枚とか5枚とか敷いていた、という記録が残っている。ちなみに3枚で100両する。仮に1両12万円として、布団3枚1,200万円、1枚なら400万円する。江戸の泥棒が布団を狙う訳だ。時代劇で長屋のハっつあんが畳の上に布団で寝ているのはおかしい。
庶民がようやく布団を手にするのは明治も進んで、綿花が貨物船で大量に輸入され機械化された紡績工業が各地に出来て、価格が下がってきてからのこと。それでも大部分の人はこもやむしろが主流だった。江戸時代は小寒氷期ともいえるほど寒かったのに、木と紙の家に住んでこも、むしろじゃあ切ない。麻袋などにわらやもみがら、海岸では海草、山村では樹皮や藤、芋づる、都市では紙を詰めた代用品を使っていた。
今、貧乏人でも布団はあるよね。これって明治中ごろまでの人達にとっては、夢のようなぜいたくな訳だ。
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