これまで、「魏志倭人伝」の旅程について長々とご紹介してきましたが、これは、邪馬台国で使われていた言語を特定するためでした。
その結果、本ブログの「邪馬台国の正体」で考察したように、邪馬台国は大和朝廷だったと推定できますから、邪馬台国の言語は日本語であったという結論が導かれます。
つまり、「魏志倭人伝」には三世紀の日本語が音写されていると考えられますから、今回からは、本題の「古代の日本語」について論じていきたいと思います。
そこで、以前と同様に『上代日支交通史の研究』(藤田元春:著)の内容に基づいて、音写された日本語の解析を対馬国の部分から行なっていきます。
原文
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訳
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始度一海千餘里至對馬國 | はじめて一海を渡ること千余里、対馬国に至る |
其大官曰卑狗副曰卑奴母離 | その大官は「ひこ」といい、副官は「ひなもり」という |
(中略)
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又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國 | また南に一海を渡ること千余里、(海の)名は瀚海といい、「いき」国に至る |
官亦曰卑狗副曰卑奴母離 | 官はまた「ひこ」といい、副官は「ひなもり」という |
(中略)
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東南陸行五百里到伊都國 | 東南に陸行すること五百里、「いと」国に到着する |
官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 | 官は「にき」といい、副官は「しまこ、ひほこ」という |
藤田氏は、卑狗を「ひこ」と読んでいますが、吉備の支配者を吉備津彦と称したように、支配者が「地名+彦」でよばれることは古代の日本では普通にあったことですから、「対馬彦」、「壱岐彦」(あるいは壱岐津彦)という支配者がいたとしても不思議ではありません。
なお、本ブログの「壱岐の「い」はや行だった」という記事でご紹介したように、藤田氏は一大を一支の誤りとして「いき」と読んでいます。
次に、卑奴母離を「ひなもり」と読んでいますが、「ひな」は「田舎」、「もり」は「守」と推測できますから、これは大和朝廷から派遣された、辺境を守護する役人の称号だったのかもしれません。
次に、伊都を「いと」と読んでいますが、『大日本国語辞典』によると、「伊」はあ行の「い」を表記する漢字ですから、三世紀には、あ行の「い」とや行の「い」が共存していたと考えられます。
次に、爾支を「にき」と読んでいますが、藤田氏は別のところで「ヌシと読むべし」と書いていて、「縣主(あがたぬし)のヌシである」と結論づけています。
しかし、これでは一大を一支の誤りとして「いき」と読んだことと矛盾しますから、三世紀の日本語には「にき」という尊称があったと考えるのが正しいのかもしれません。
最後に、泄謨觚柄渠觚を「しまこ、ひほこ」と読んでいますが、これも解読が困難ですから、結局、伊都国の官名は三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。
なお、伊都国に関しては、「郡使往来常所駐」(郡使が往来し常に駐(とど)まる所)とも書かれていて、帯方郡の使者をもてなす特別な立場の国だったようなので、大和朝廷から外交官が派遣されていたのは間違いないでしょう。
したがって、武官である卑奴母離に対して、泄謨觚柄渠觚は外交官だった可能性が高いと思われるのですが、西暦313年に帯方郡が滅んでからは、その重要性が失われて、官名が忘れられてしまったのかもしれません。
次回も「魏志倭人伝」の続きです。
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