日本ではこの映画は「項羽と劉邦 鴻門の会」という名で公開されました。
原題は「王的盛宴」と言い、私にはこの原題がよりしっくり感じます。
ネタバレで書いていきます。
陸川(ルー・チュワン)監督作品
主演は日本版映画ポスターにわかりやすく写真と名前が載ってます
左から
韓信・・・張震(チャン・チェン、台湾俳優)
項羽・・・呉彦祖(ダニエル・ウー、香港俳優)
劉邦・・・劉燁(リウ・イエ、中国俳優)
濃霧の林を壮年の劉邦が彷徨う姿から始まり、霧の向こうから襲ってくる大群の敵におびえ逃げる・・・「悪夢」うなされながらそう呟き、はっと目が覚める。
それは漢帝国を築き61歳となった劉邦が見た夢。
48歳で秦帝国を倒すべく立ち上がってから13年、
たった13年の間に歴史が大変転したのだと思うとその13年に消耗されたパワーの凄まじさに驚きます。劉邦も48歳にしては若々しい風貌だったのが一気に老いてしまい61歳とは思えぬ姿に。
体に病気が巣食うと共に心も蝕まれ、すでに争う相手も命の危険もなくなったのに、過去の記憶が波のように劉邦を襲い混乱させる。
見る私たちも、次々と彼の脳裏に甦る記憶と現実がないまぜとなった物語の進行に混乱が生じます。
劉邦にとって何より恐ろしかったのは、鴻門の会。初めてこの宮殿(元は秦の宮殿)に入り占拠し有頂天で享楽に浸る最中に項羽軍は攻めてきて、おびえた劉邦は命を繋ぐ望みを託して殺気立つ鴻門の会に挑み、ひれ伏し許しを請い、剣を突き付けられすんでのところで命からがら逃げだす。
その屈辱と恐怖が忘れられない。
だけど、そこで彼の運命は生き残る道へと選択された
劉邦が憧れ、畏怖した項羽
高貴な生まれで威風堂々とした姿、そして連戦連勝のカリスマ性を備えた武将として登場します。人間て不思議だね、こんな下剋上の時代も、やっぱり家柄を気にしてコンプレックスを持ってしまう。だからこそ劉邦は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」とつぶやかずにはいられない。
長大な伝記を約2時間の映画で表す為、項羽の残虐な面を著す物語はずいぶんそぎ落とされましたが、秦王朝最後の王である子嬰の処刑シーンでその片鱗を見せてます。
秦王 子嬰(呂聿来 ルー・ユーライ)
秦の滅亡直前に即位した子嬰は皇帝にはもうなれず、王といわれる。先に宮廷に乗り込んだ劉邦は子嬰に情をかける優しさがあったが、項羽には一切なかった。
子嬰も何かを感じたのだろう。劉邦には熱い天下統一の思いをぶつけ、項羽には不敵な笑みを浮かべるだけだった。
その皮肉な笑みがとても高貴な雰囲気を醸して、この子嬰に惹かれました。項羽の逆鱗にふれちゃうけど。
始めから、死を予見して王になった覚悟を感じました。
残酷な拷問を受けた姿で兵たちの「滅秦」の叫びの中処刑場に運ばれた子嬰、朦朧とした意識の中、後を託すようにふっと劉邦を見てから
「秦不亡」とつぶやく。
少年のような姿をしているので、よけいに無残さや儚さを感じさせられました。ここのシーンが一番残酷だった。だけどその顔は毅然として、秦王の風格もありました。
その姿に劉邦は突き動かされ、心のうちに天下統一の野望が存在することを確信する。
新しい時代の扉を開けるための生贄の様にも、この物語の一人目の生贄のようでもありました。
項羽は諸国の自治を推奨する
「我々の目的は始皇帝に代わることではない。
始皇帝は天下を統一し、同じ色の衣をまとえと民に命じた。
同じ車に乗り、同じ文字を書けと、天下のあらゆる物事を統一しようとしたのだ。
この天下を19に分け、諸侯を封じることにする。
私と共に戦った仲間はそれぞれの国に戻り、それぞれの文字で歴史を刻め」
おもわず、現在のチベット、ウイグル地区を思い起こしました。史実も諸国の自治を促したけど、意味が違う。陸川監督が項羽を通して言った見解なのか・・・。
項羽はこの映画では透徹した政治論を持つインテリエリートとして描かれてます。
その項羽もまた武将らしい最後を遂げる。
そして、天下統一。
外敵がいなくなると、人は身内に敵をつくりはじめる。
劉邦はいまだ命の危険を感じ、天下統一の立役者の韓信に疑いを持つ。呂后はさらに吹聴して恐怖心を掻き立てる。
呂后(秦嵐 チン・ラン)
若い頃、劉邦と劉邦軍を献身的に助け、捕虜となり、時に手ひどい仕打ちを受け、耐え続けた呂雉、後の呂后。でも自分が犠牲になっても劉邦は新しく女をつくり楽しく暮らし、他の武将もなんてことない様子。
愛と献身のむなしさを痛感した彼女は権力欲を増大させる。
彼女は静かに、劉邦の腹心たちを追い詰めていく。
その象徴として韓信がいる。
張良(奇道 チー・ダオ)と蕭何(沙溢 シャオ・イー)
韓信と張良と蕭何の三人は建国の立役者の自負を持っている。だからこそ張良と蕭何は自分たちのプライドをかけて韓信を守ろうとする。
かつて、若い頃、気さくな劉邦とは友人のような言葉で話をした。そんな自由さがあった。
今は、劉邦と呂后に疑いをかけられないかと怯え、ひれ伏す。皇后として圧倒的な権力を持った呂后にはもう逆らえない。
蕭何はせめて鴻門の会の真相を後世に残そうと試みるが記録を拒否される。自分たちの立場がすでに危ういことを実感する。
そして、そのプライドを一番ずたずたにする方法で追い詰められる。彼らはもう立ち直れないだろう。
何もかも呑み込んで韓信は宮廷に向かう
彼の脳裏には若き日の気さくで明るい劉邦
夢と野望をたぎらせともに進んだ日々
この物語のもう一人の生贄に思えました。
見ていて次第にこの映画が20世紀から現在に至る中国そのものに感じてきました。
秦帝国は清帝国に
項羽軍は国民軍に
劉邦軍は人民軍に(そういえば中国プロパガンダ映画で劉燁は若き日の毛沢東を演じている)
重要人物を3地域の俳優に演じさせたのには陸川(ルー・チュワン)監督の意向を感じます。
それぞれの俳優の属する国もしくは地域になぞらえ、劉邦は中国本国を象徴し、項羽は香港を象徴、韓信は台湾(この映画では「中國臺灣」と中国の一部として明記している)を象徴している気がします。
中国も香港も台湾もみな同じ先祖を持った、すべて中国なんだ。
そして先に近代化して発展した香港も中国に吸収されていき、台湾ははじめから家来なんだという政治的な意向も感じるのですが、果たして真の意味は何を指しているのだろう。
公的な史記が必ずしも公平でなく、一方的な見解の可能性もあることもさり気なく示唆してます。
最初と最後の病床の劉邦のシーンが少し違うのも混乱しました。意図的にしたのだろうな。
劉邦の霊魂は宮廷を抜けて、昇天をせず、またしても霧深い林を彷徨う。
彷徨った劉邦の魂はやがて壮年の姿に戻るだろう・・・そして馬を駆け彼を追う者たちに怯え、はっと目が覚めるのだ。
「悪夢・・・」と呟いて・・・・そう映画の冒頭に戻り、もう一度鴻門の会の生きた心地しない恐怖に囚われ、粛清が始まる。
劉邦の時間はどこかでねじれて元に戻るように思えました。
大業を成したのに、まだ心残りやあるのか、恐れがのこるのか
最初と最後の病床のシーンにずれが生じているのは、多分そのループ(時間の循環)のせい。繰り返し同じことが再現されているうちにいつの間にか事実が少しずつ変質しているのでは。
だけど、彼のループを置いてけぼりにして時代は時間と共に変化してゆく、漢帝国はいつか消えて行く運命に。兵どもが夢のあと・・
まだ、もう少しこの映画を見て吟味しないと、と思いました。
映像がしっとりして美しかったです
追記
当時はまだ床に直接座る生活様式なのがよく再現されてました
そして宮廷につかえる使用人はいつも直角に体を曲げている
大変ですね・・・
私の中に藍宇は二人いて、一人はもちろん劉の姿をした藍宇。笑顔が優しい。
もう一人は脳内で自分のなかで出来上がった藍宇。脳内の藍宇は少ししたたかで計算高さもある人物なので、レッドさんが感じた子嬰とやはり重なります。
劉の藍宇は私にも優しく対応してくれそうだけど、脳内藍宇はとっつき悪そうです。好きな人に一途は同じ。
10年前に「王的盛宴」が作られたなら、秦王子嬰が劉だったなら、違う子嬰像、滅びの美学ができますね。少し悲しげに微笑んでいそう。想像すると、どうしても項羽がドラマ版「大漢風」の項羽になってしまうのはしかたないですね(汗)。
でも10年後に「王的盛宴」を作っても、劉邦役に呂聿来はやらないでしょう。
劉という人には原始的な生命力を感じて、だから儚く悲しい人物も劉邦というスケールの大きい人物にもなり切れるのだと思ってます。
「無聲風鈴」は一度見ましたが、未だ消化できてません。う~ん。なぜリッキーはパスカルにあんなに惹かれたのだろう・・・。「藍宇」へのオマージュの言葉を手掛かりに、もう一度見てみたいと思います。
なんてことをカエルさんと話したりしていました。
子嬰と藍宇が通じ合うとは私は感じませんでしたが(子嬰というキャラクターには、藍宇が備えていないある種の計算高さが感じられるので)、リウイエと呂聿来には、可憐さとか不憫さとか、なにかと通じ合う匂いがあるように思いました。
DVDごらんいただけばおわかりかと思いますが、『無聲風鈴』という映画には『藍宇』へのオマージュとリスペクトが濃厚です。
『無聲風鈴』に主演した役者に、劉邦(=藍宇)に対立する子嬰というキャラクターを演じさせる。穿ってみればそれって、陸川監督のたくらみでもあるような気がします(笑)。
秦王 子嬰になぜかひっかるものがあり、なんだろう、何が引き寄せるのだろう、と思ったら、後で気づきました。
王の誇りと矜持を持って身分と関係せず人の本質を見抜き、拷問や命の終末を前に毅然として若い命を散らした姿は、「北京故事」の藍宇そのものでした。私の脳内の藍宇像もこの人そのものだったのです。
ひっそりとここに記します。
コメントありがとうございます。
この映画は、勝手に陰惨なイメージを持っていたのでこれまで見るのにためらいがありました。
ようやく決心して見ると、最初のシーンが中国映画にありがちな仰々しさがなく、しっとりした木立の様子がよくて意外でした。
その導入部に引き込まれ見てみると、戦いのシーンも拷問も残酷な様子はあえてはずしてその後を見せる形式でその手の刺激を回避していました。浮かび上がるのは劉邦にまつわる人々の浮沈。
歴史劇ではなく人間ドラマだったのですね。
中国共産党健党後の内部闘争
やはりそう思われましたか
呂后(呂雉)と江青女史が重なって見えました。
呂雉はこの時代、男たちにいいように流されなかった稀有な女性でもありますね。演じた秦嵐さんはドラマ版でも呂雉を演じてるそうですし、陸川監督のパートナーであるなら必ず秦嵐さんの意見、呂雉像をとりいれているでしょう。ただし、呂雉も江青女史も周りに深い恨みを残しました。
「映画を見る」ということ
好きな映画は特に、何度も見てささいなところに或るトリックやヒントに気づき新しい視点を持てると嬉しいです。時に映ってないシーンを想像してます。
この映画では出番は少なかったけど秦王子嬰の滅びの美学を体現した姿が印象深いです。媚びず毅然として最後まで王でした。(熟成しているDVD「無聲風鈴」を見なくては・・・)
呂雉の映画
この見解は新鮮に感じました。
レッドさんの感想を是非読んでみたいと思います。
そして物語の流れを知った今だから、銀幕で見たいです。DVDとはまた違う印象をうけますから。
この映画のタイトルを「王的盛宴」として書きたかったけど、今後日本で上映されたり、DVDを購入もしくはレンタルするときは「項羽と劉邦 鴻門の会」ですので、日本版タイトルにしました。
日中関係が難しいこの時期に「項羽と劉邦/White Vengeance(鴻門宴)」と「項羽と劉邦 鴻門の会(王的盛宴)」という同じ時代を扱った映画を続けて上映されることに意気を感じいりました。この映画を上映実現するにあたりレッドさん含めいろんな方の尽力もあったのもこの映画の魅力ゆえですね。
ですが、blueashさんの感想を読んでちょっと気持ちが上がりました(笑)。
ありがとうございます。
それというのも自分がこの作品のことをただ大好きだから。
ひとつ間違えば贔屓の引き倒しになりかねぬほどに。
日本公開前にネットやあちら版のソフトなどで鑑賞し、自分なりにこの映画から感じ取ったこと、汲み取ったことなども多々あります。陸川監督はいたるところに様々な謎を仕掛けていて、たとえばご指摘のように冒頭と最後の劉邦の寝殿のシーンに意図的なずれを仕込んでいるというのもそのひとつですよね。
そんなふうに作り手の投げかけた仕掛けにいちいち躓いて、いちいち立ち止まって、いちいち拾いあげ、ああだこうだ深読みしていくのが自分にとっての「映画を観る」ということでもあり、その最たるものが『藍宇』なんですが(笑)。
本作では、リウイエが毛沢東を演じた『建党偉業』が描かなかった中国共産党建党後のどろどろの内部闘争、みたいなものが、漢を打ち立てたのちの劉邦たちの姿に仮託されているようにも感じました。
演じた女優が監督のプライベートでのパートナーだから、というわけでも無いんでしょうが、これは呂雉の映画だという気がします。
劉邦が好きで好きでだいすきだった、熱狂的な劉邦ヲタにすぎなかった女の子・呂雉を考えるとき、いちリウイエ迷として、そして本作や『藍宇』を愛しすぎた者として、同志的な共感と涙を禁じ得ません。
そのへんについては、いずれ感想文にまとめたいと思っています。