ヤプミーの皆様へ
いつも交流していただきありがとうございます。
3月23日に私の妻である『嫁っこ』が亡くなりました。
いきなりの書き出しで驚かせて申し訳ありません。
妻は3年前の春に職場で倒れ、病院へ緊急搬送され検査を受けたところ
末期のガンということがわかりました。
もって3か月。即日急変して命を落としてもおかしくない状況と宣告されました。
さらに数か所に転移も見つかるほどで地元の病院では手が付けられない状態でした。
しかし、諦めるなんてできません。
秋田県内で可能性のある病院を紹介してもらい即日転院し、治療を受けることにしました。
転院先のお医者さんも一刻を争うと判断したようで予備検査をすっ飛ばし、治療を始めてくれました。
その判断が良かったのか危険な状況は日を追うごとに脱していきました。
何よりも妻の表情が落ち着いていくのが隣にいた私たち家族には救われるものでした。
ただ根本の状況が変わったわけではなく妻の身体には完治出来ない癌が残っている状況。
年に2回の手術、毎週4~5時間の化学療法を受ける闘病生活を3年間続けました。
妻はそんな自分状況を周囲の人たちに心配をかけたくないということで
身近な家族数人意外には一切話そうとしませんでした。
そばにいる私にも薬の影響で辛いはずなのに一切弱音や苦しい顔を見せず、
ただひたすらに娘と一日でも長く一緒に生きて行く為に頑張ってきました。
3か月と言われながら3年生きてくれました。
担当医も驚くほどで、『薬よりも娘さんの存在がいたからここまで頑張れたんでしょう』
この妻の頑張りを無にするかのように妻の身体にはさらに転移が見つかり、
担当医からは『もう治療に耐えうる身体ではない。春までもつかわからない』という最終宣告がありました。
それでも妻は動けなくなりつつある身体を懸命に動かし、3月初めには春から入園する娘の保育園の説明会に行き、最後の入院となったベットの上でもギリギリまで娘の道具準備をしてました。
妻が亡くなる最後の一週間、私の判断で妻が逢いたかった親戚・友達知人に妻の状況を話し集まってもらいました。
連日、ベットの上で笑っている妻の笑顔と声が今も浮かびます。そして東京に嫁ぎ、ようやっと予定がつくれた親友がお見舞いに来てくれたのを見送った直後から容体が急変し、家族みんなが集まったのを見届け、娘に手を握ってもらいながら息を引き取りました。
たった32年間の人生、付き合って4年、結婚して4年半、娘との時間3年半、惜しむ想いしかないないのが正直なところです。一番悔しがっているのは妻自身。
家族一同がそういった思いにうなだれる中、娘が発する言葉、しぐさが妻そっくりな事。
この子の中に生きてんだ。
妻が命懸けで育てたこの子の中に妻の願いと愛情、妻自身が生きてんだ。と気づかされました。
まだ私もどうしていいかわかりませんが来週には娘の入園式。
妻が最後まで頑張って用意した福と道具を持たせてやりたいと思います。
そしてこのブログも引き続き私が更新していければと思っております。
妻の酒勉強・育児日記として始めたものでしたが、今となっては将来娘が母親の事を知る大事なものとなっております。ブログ上の言葉一文字一文字、写真一枚一枚に母親としての想いがそそがれているはずです。
これを守り続けるのが夫として、父親として私の役割だと思っております。
そして、ヤプミーの皆様は妻が残してくれた大事な『縁』ある方々だと思います。
これからも皆様に娘の事を見守っていただけますようお願い申し上げます。
突然の内容と長々とした文、申し訳ありませんでした。
いつも交流していただきありがとうございます。
3月23日に私の妻である『嫁っこ』が亡くなりました。
いきなりの書き出しで驚かせて申し訳ありません。
妻は3年前の春に職場で倒れ、病院へ緊急搬送され検査を受けたところ
末期のガンということがわかりました。
もって3か月。即日急変して命を落としてもおかしくない状況と宣告されました。
さらに数か所に転移も見つかるほどで地元の病院では手が付けられない状態でした。
しかし、諦めるなんてできません。
秋田県内で可能性のある病院を紹介してもらい即日転院し、治療を受けることにしました。
転院先のお医者さんも一刻を争うと判断したようで予備検査をすっ飛ばし、治療を始めてくれました。
その判断が良かったのか危険な状況は日を追うごとに脱していきました。
何よりも妻の表情が落ち着いていくのが隣にいた私たち家族には救われるものでした。
ただ根本の状況が変わったわけではなく妻の身体には完治出来ない癌が残っている状況。
年に2回の手術、毎週4~5時間の化学療法を受ける闘病生活を3年間続けました。
妻はそんな自分状況を周囲の人たちに心配をかけたくないということで
身近な家族数人意外には一切話そうとしませんでした。
そばにいる私にも薬の影響で辛いはずなのに一切弱音や苦しい顔を見せず、
ただひたすらに娘と一日でも長く一緒に生きて行く為に頑張ってきました。
3か月と言われながら3年生きてくれました。
担当医も驚くほどで、『薬よりも娘さんの存在がいたからここまで頑張れたんでしょう』
この妻の頑張りを無にするかのように妻の身体にはさらに転移が見つかり、
担当医からは『もう治療に耐えうる身体ではない。春までもつかわからない』という最終宣告がありました。
それでも妻は動けなくなりつつある身体を懸命に動かし、3月初めには春から入園する娘の保育園の説明会に行き、最後の入院となったベットの上でもギリギリまで娘の道具準備をしてました。
妻が亡くなる最後の一週間、私の判断で妻が逢いたかった親戚・友達知人に妻の状況を話し集まってもらいました。
連日、ベットの上で笑っている妻の笑顔と声が今も浮かびます。そして東京に嫁ぎ、ようやっと予定がつくれた親友がお見舞いに来てくれたのを見送った直後から容体が急変し、家族みんなが集まったのを見届け、娘に手を握ってもらいながら息を引き取りました。
たった32年間の人生、付き合って4年、結婚して4年半、娘との時間3年半、惜しむ想いしかないないのが正直なところです。一番悔しがっているのは妻自身。
家族一同がそういった思いにうなだれる中、娘が発する言葉、しぐさが妻そっくりな事。
この子の中に生きてんだ。
妻が命懸けで育てたこの子の中に妻の願いと愛情、妻自身が生きてんだ。と気づかされました。
まだ私もどうしていいかわかりませんが来週には娘の入園式。
妻が最後まで頑張って用意した福と道具を持たせてやりたいと思います。
そしてこのブログも引き続き私が更新していければと思っております。
妻の酒勉強・育児日記として始めたものでしたが、今となっては将来娘が母親の事を知る大事なものとなっております。ブログ上の言葉一文字一文字、写真一枚一枚に母親としての想いがそそがれているはずです。
これを守り続けるのが夫として、父親として私の役割だと思っております。
そして、ヤプミーの皆様は妻が残してくれた大事な『縁』ある方々だと思います。
これからも皆様に娘の事を見守っていただけますようお願い申し上げます。
突然の内容と長々とした文、申し訳ありませんでした。