【緊急全訳】ロイヤルウェディングで前代未聞、黒人主教の説教|英国王室の反応やいかに
Translation by Yuki Fukaya / COURRiER Japon
2018.5.21 https://courrier.jp/news/archives/122309/
英国ハリー王子とメーガン・マークルの結婚式が、2018年5月19日、英国ウィンザー城のセント・ジョージ・チャペルで執りおこなわれた。これまでの英国王室結婚式の伝統を破る内容満載だったが、なかでも注目を集めたのが、ハリーとメーガン直々のご指名、マイケル・カリー米国聖公会総裁主教による「説教」だ。
マーティン・ルーサー・キング牧師のスタイルと内容を明確に踏襲したその説教を、クーリエ・ジャポンが全訳でお届けする──。
私たちを愛し、自由にし、生かす神──父、子、聖霊の御名において、アーメン。
聖書の「雅歌」より。
「わたしを刻みつけてください
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として。
愛は死のように強く
熱情は陰府のように酷い
火花を散らして燃える炎
大水も愛を消すことはできない
洪水もそれを押し流すことはできない……」
マーティン・ルーサー・キング博士が晩年こんなことを言いました。引用します。
「愛の力、愛の贖(あがな)う力を我々は見出すべきだ。そうするとき、我々はこの旧き世界を新しき世界にする。愛こそが唯一の道だからだ」
愛には力があります。愛を見くびらないように。愛をあまりセンチメンタルなものにしないように。愛には力、力があります。
私を信用しないなら、あなたが最初に誰かを愛したときのことを考えてみてください。全世界があなたとあなたの愛する人を中心に回っているように思えたでしょう。愛には力、力があります。
ロマンティックな愛の形だけでなく、どんな形の愛についても言えることです。あなたが愛されていて、あなたがそのことを知っているとき、誰かがあなたのことを大事に思っていて、あなたがそのことを知っているとき、あなたが誰かを愛していて、そのことを示すとき、ある感覚が起こります。しっくり来るんです、これは正しいことなんだと。
それには理由があります。その理由は、その源に関わるものです。私たちは愛の力によって創られました。私たちの生は、その愛のなかで生きるはずのものでしたし、これからもそのはずです。私たちがここにいるゆえんです。
究極的に、愛の源は神ご自身、私たちみなの生の源です。中世のある詩にこんな一節があります。
「真の愛のあるところに神ご自身もおられる」
新約聖書はこんな言い方をします。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません」
なぜでしょう?
「神は愛だからです」
愛には力があります。愛には助け、癒やす力があります──ほかのなにものもなしえないときに。愛には奮い立たせ、自由にする力があります──ほかのなにものもなしえないときに。愛には、私たちに生き方を示す力があります。
「わたしを刻みつけてください
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として
愛は死のように強いからです」
しかし愛は、若きカップルだけに関わることではありません。愛の力はいまや、私たちがここにいるという事実によって証明されています。ふたりの若い方々が愛し合い、私たちみなが集まりました。
しかし、それは私たちがともに喜ぶ若きカップルだけに関わること、このふたりのためだけではありません。それ以上のことです。
ナザレのイエスはあるとき、ひとりの律法学者から、モーセの教えのなかで最も重要なものはどれかと問われます。イエスは、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の「申命記」や「レビ記」に立ち戻り、こう言いました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
これが第一の偉大な掟です。第二の掟はこうです。
「隣人を自分のように愛しなさい」
「マタイによる福音書」だと、イエスはさらに、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言います。この神への愛と隣人への愛に、モーセが記したすべて、預言者たちのすべて、聖書のすべて、神がこの世界に伝えようとしていることのすべてが、かかっているというのです。
神を愛し、あなたの隣人を愛し、同時に自分自身を愛しなさい。
さて、イエスは全人類史上最も革命的な運動を始めたんだ、とかつて言った人がいます。神のこの世に対する無条件の愛に根ざした運動。人々にその愛を生きるよう求める運動。そして、それによって、人々の人生だけでなく、この世界全体の生も変える運動を。
私がいま語っているのは、「ガチ」な力、リアルな力のことです。世界を変える力です。私を信用しないなら、米国の南北戦争以前の南部にいた奴隷たちのことを考えてみてください。
そのなかに、愛のダイナミックな力、そしてなぜそれが社会を変える力をもっていたかを説き明かした人たちがいました。彼らは捕らわれの身であるにもかかわらず、ある霊歌をうたいました。「ギレアドに乳香あり(There’s a balm in Gilead)」(「創世記」37章の物語がモチーフ)、ものごとを正しくする、癒やしの乳香があるという歌です。ギレアデには傷つける者を全き者にする乳香がある。ギレアデには罪に病める魂を癒やす乳香がある。
そのわけを説き明かすこの歌の一節があります。
「ペトロのように説教できなければ、パウロのように祈れなければ、ただイエスの愛を、私たちみなを救うためいかに死んだかを伝えよ」
イエスが死んだのは、それでなにか得することがあったからではありません。死ぬことで、名誉博士号を得たわけでもありません。なにも得しなかったんです。ほかのひとのため、この世の幸せのために、自らの命をあきらめ、犠牲にしました。私たちにとって、愛とはこのようなものなんです。
愛は身勝手でなく自己中心でもありません。愛は犠牲を伴いえます。そのような愛が贖いを可能にし、その利他的、犠牲的、贖罪的な愛の道が生を変えます。そしてこの世界を変えうるんです。
私を信用しないなら、ちょっと立ち止まって考えてください。想像してください。愛が唯一の道(love is the way)である世界を。
想像してください、愛が唯一の道である家庭や家族を。
想像してください、愛が唯一の道であるご近所やコミュニティを。
想像してください、愛が唯一の道である政府や国々を。
想像してください、愛が唯一の道であるビジネスや商売を。
想像してください、この疲れ、くたびれた世界で、利他的、犠牲的、贖罪的な愛が唯一の道となることを。
愛が唯一の道であるとき、お腹を空かせたまま寝床にいく子供はこの世界からいなくなるでしょう。
愛が唯一の道であるとき、私たちは「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせる」でしょう(キング牧師の有名な演説でも引用された「アモス書」の一節)。
愛が唯一の道であるとき、貧困は歴史になるでしょう。
愛が唯一の道であるとき、地球は聖所になるでしょう。
愛が唯一の道であるとき、私たちは剣と盾を下ろし、「川辺まで下りていって、戦争のことをもはや学ばない」でしょう(黒人霊歌「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド」より)。
愛が唯一の道であるとき、神の子供たちみなのために「たくさんの良い場所」があるでしょう(黒人霊歌「プレンティ・グッド・ルーム」より)。
愛が唯一の道であるとき、私たちはお互いを、そう、じつの家族のように受け止めるでしょう。
愛が唯一の道であるとき、神が私たちみなの源であり、私たちは兄弟姉妹であり、神の子供であることを知るでしょう。
わが兄弟姉妹、それこそが、新しき天であり、新しき地であり、新しき世界であり、新しき人間の家族なんです。
もっと言いたいことがあります。ソロモンは旧約聖書で正しくも、「愛は炎」であると言いました(冒頭で引用された「雅歌」の一節)。