異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

◆今こそ主権者教育を 前文科事務次官・前川喜平さん 〔東京新聞2017.10.28〕

2017-10-29 00:00:21 | 教育 教科書

★自由や民主主義を根付かせ、戦争を再び繰り返さないためにはどうするべきか。立憲主義や戦争違法化の歴史に学び、自ら考える主権者を育てる教育が今こそ必要だと思うのです。

★主権者意識を備えた人たちに育ってもらわなくてはいけない。憲法が掲げる人権や平和や民主主義という人類共通の価値が、どうやって発展してきたのかを学んでほしい。二度の大戦に負けて今の民主主義を手に入れたドイツの歴史は、特に学ぶべきです。(前川喜平・前文科事務次官)


【考える広場】「教育の憲法」改正…あれから 大西隆・論説委員が聞く

前川喜平さん

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 かつての教育基本法は「教育の憲法」と評され、戦後社会の民主的な発展を支えました。第一次安倍政権下の二〇〇六年に改正されてから十年が過ぎ、教育行政にどんな影響をもたらしてきたのか。文部科学省の中枢を歩み、官僚トップの次官を務めた前川喜平氏は「日本ファースト的な風潮が強まり、危うい」と警鐘を鳴らしています。

◆今こそ主権者教育を 前文科事務次官・前川喜平さん

 大西 旧教基法は、国民の学ぶ権利を守るために国家を縛る法律といわれた。新法は愛国心を養うといった徳目を「教育の目標」として列挙し、国民を縛る傾向が強くなりました。

 前川 旧法の前文にはこう書いてありました。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」。基本的人権の尊重、国民主権、平和主義という憲法の理想を実現することが教育の基本だとうたっていた。軍国主義を植え付けた戦前の教育への反省からです。大事なことだと思って仕事をしてきたので、書き換えられたのは残念でした。

 「教育行政」条項が変わった意味は大きい。改正前は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」でした。改正後は「不当な支配に服することなく」は残りましたが、続いて「この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」となった。旧法の「不当な支配」は国家権力も想定されていたわけだけれど、新法では法律に基づいていれば、国家が教育内容を決めるのは問題ないとされたのです。

 大西 政権の性格によって教育は大きく左右されうると。

 前川 その背景には、旭川学力テスト事件の最高裁判決があります。旧法の「教育行政」条項を巡り、「国家の教育権」説と「国民の教育権」説がぶつかり合った。政治過程を経て国会で法律を作り、国民の信託の下に教育をする権限が国家にはあるというのが前者の考え方。国民に直接責任を負う形で、教育者が学問の自由に基づき真理を求めつつ教えるべきだというのが後者の考え方。例えば日本は中国を侵略しなかったと国会で決議したとしても、それは真理ではない。政治は真理を決められないし、政治過程を経て間接にしか国民に責任を負えない。だから教育には介在するなと。

 判決はけんか両成敗のように双方の権限を認めました。ただ、教科書検定などを巡る教育裁判でよくよりどころとされたこの条文は、保守派にとって目障りだったので意図的に変えられてしまった。国家教育権的な立場を鮮明にしたわけです。政治は教育に介入するなと、国民の教育権を主張する声が少なくなったのは懸念されますね。

 大西 今や経済界による「不当な支配」が強まっているように見えます。稼ぐ力を磨くことは否定しませんが、教育はそんなに薄っぺらいものかと。

 前川 稼ぐ力がないと確かに生きていけないけれど、それだけでは生きる意味がないでしょう。個人として自分なりの考えを持ち、市民社会を一緒につくる力、競争ではなく共生する力が重要です。近年盛んに「グローバル人材の育成」が叫ばれますが、それは「世界に勝つ人材」だといわれます。自分たちさえ勝てれば、他の世界は負けてもいいと。「日本ファースト」の発想には違和感を覚えますね。日本人は集団への帰属を重視しがちですが、国籍や民族、人種などで優劣をつけようとするのなら問題です。

 例えば、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が提唱してきたESD(持続可能な開発のための教育)やGCED(地球市民教育)の考え方は大事です。人権とか平和とかエネルギーとか、地球環境や世界遺産の保護といった皆で力を合わせないと解決しない問題がある。国際市場競争に勝つことばかりを目指すのではなく、グローバルな共生社会をどう構築するのかを学び、考えなくてはいけない。

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 大西 新法には「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」という「家庭教育」条項が新設された。自民党は家庭教育支援法案を用意している。私的領域に干渉するのかと気になります。

 前川 自民党の二〇一二年の憲法改正草案には、家族は社会の単位と記されています。天皇家という本家があって家族はすべてその分家。日本国は血でつながったでっかい共同体。そんな家族国家観が根底にあるのでしょう。家族は国家の一単位という考え方はもともと国体思想にあった。教育勅語の世界です。国家が統制するのは当然と考えているのだと思う。法案のベースは親学(おやがく)(伝統的な子育てのために親が学ぶべきだとされる考え)ですが、いじめとか不登校とか非行、自殺といった子どもの問題の責任を親に転嫁する発想がある。ひとり親の増加や子どもの貧困の広がりという子どもを取り巻く状況の変容を踏まえると親を責めても仕方がない。貧困や虐待、孤立に苦しむ子どもを放置し、社会で支えることから逃げることにつながります。

 もっとも、子どもの健やかな成長は親の関心事です。歓迎したいのは、血縁も地縁もない自由な個人と個人が結びついて教育に関わろうとする動きが増えていることです。子どもの学習を支援したり、子ども食堂を開いたりしている。子どもにとって親でも教師でもない大人の存在は貴重です。親がその輪に自発的に加わればいい。

 大西 第一次安倍政権下での教基法改正は、憲法改正の露払いだったともいわれます。

 前川 教育の自律性を決定的に奪う結果にはならず、我慢できる範囲内にとどまったと感じます。でも、国を愛する態度を教育目標に盛り込み、国家の権限を強め、家庭の役割を強調する。政治権力が改憲を見据え、教基法の名の下に教育に介入する危険性はあります。外国人がどんどん日本に入ってくるこの時代に、日本民族の憲法を作ると言っている人たちに改憲はさせたくない。日本人としての誇りなどというものより、個人の尊厳に立脚し、一人一人の人権を尊重することの方がずっと大事です。日本国憲法は人類の歴史の成果だと考えています。

 やはり主権者意識を備えた人たちが育ってもらわなくてはいけない。憲法が掲げる人権や平和や民主主義という人類共通の価値が、どうやって発展してきたのかを学んでほしい。その意味で、近現代の日本史と世界史を併せて勉強する高校の「歴史総合」(二二年度導入)には期待したい。二度の世界大戦に負けて今の民主主義を手に入れたドイツの歴史は、特に学ぶべきです。当時最先端といわれた民主的なワイマール憲法を持ちながらヒトラーを生み出した。民主主義が独裁を生んだという痛恨の歴史がある。日本は大正デモクラシーが消えて軍部独裁に陥ったことへの反省が足りないし、戦後は「一億総ざんげ」で済ませてしまった。自由や民主主義を根付かせ、戦争を再び繰り返さないためにはどうするべきか。立憲主義や戦争違法化の人類史に学び、自ら考える主権者を育てる教育が今こそ必要だと思うのです。

 大西 前川さんは、義務教育を終えていない人々が学び直す自主夜間中学で、学習支援のボランティアをしていますね。国家が決めた教育の枠組みにとらわれず、市民が自由に学び合う場を大切にしたいものです。

 

 <まえかわ・きへい> 1955年、奈良県生まれ。東京大卒。79年、文部省(現文部科学省)に入り、初等中等教育局長、文部科学審議官、文部科学事務次官などを歴任。2017年1月、天下り問題で事務次官を引責辞任。学校法人加計学園の獣医学部新設問題で「行政がゆがめられた」と告発した。

 <旭川学力テスト事件> 北海道旭川市立中学校で1961年、文部省の全国中学校一斉学力テストの阻止に及んだとして、教員らが公務執行妨害罪などに問われた。一、二審は、学テは国による教育の「不当な支配」に当たり違法としたが、最高裁は適法として教員らを有罪とした。判決は国の教育権限を広く認めたが、子どもの学習権という視点を打ち出し、注目された。

 

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元SEALDs 諏訪原健「僕の奨学金記事へのご批判に対し、思うこと」 〔dot. 2017.5.9〕

2017-05-15 13:10:23 | 教育 教科書

dot. https://dot.asahi.com/dot/2017050600020.htmlより転載

元SEALDs 諏訪原健「僕の奨学金記事へのご批判に対し、思うこと」

20代の処方箋

(更新 2017/5/ 9 07:00)
 

 奨学金借金約1千万円を抱えながら、SEALDsのメンバーとして政治的活動をしていた諏訪原健君がdot.で書いた「奨学金借金1千万円の僕が嫌悪する安倍首相のキラキラ貧困対策」(4月7日付)というコラムが大きな反響を呼んだ。とりわけ金銭的な苦労を重ねてきた人たちから寄せられた厳しい批判を読んだ諏訪原君は涙し、「なぜ貧しい者同士で叩き合わなければならないのか」と思ったという。

***

 ここ2週間ほど、ずっと悶々とした気持ちを抱えている。きっかけは、4月7日に書いた奨学金に関する記事に対し、ネット上で寄せられたコメントを読んだことだ。ネットのコメントといえば、「荒れる」イメージが強いが、僕の記事も案の定そうだった。

 ある媒体では、僕が見た段階で、2800件近くのコメントが寄せられていたが、そのうち1千件近くが、利用規約に反しているとされて非表示になっていた。さらによく見ていくと、記事の公開から5分以内にコメントが来ているものも多くあった。記事は2千字以上あるから、きちんと読んでコメントしているようにも思えない。

 非表示になっていない1800件ほどのコメントに全て目を通してみた。

なかには「この人、生まれてこなければよかったのに」なんて書いている人もいて、正直、読むだけでだいぶ気が滅入る。

 でもそれ以上にきつかったのは、教育のために金銭的な苦労を重ねてきた人たちから、否定的な言葉が数多く寄せられていたことだった。

「私は高校出て働いて、いろいろあって、今、自分の貯金で、大学に行っています。同級生でも、学費不足だからと1年休学して、めちゃくちゃ働いて、お金貯めて復学した人いますよ。借金前提の人生は、私は、怖くて出来ない。あまり、国や人のせいにしない方がいい」

「私は貧しかったので、授業料免除を受けて、バイトと奨学金で大学を出ました。わずかですが、親にも仕送りをしてました。いろいろご不満がおありのようですが、全部、自分のために借金をして、親に仕送りもできないやつに、偉そうに言って欲しくないね」

「こういう意見は、正直、ヘドが出る。私は、新聞配達と学業を両立した。そして二つの専門学校に行った。それで、奨学金の借金もなし、卒業時には10万ほどのボーナスと配達で貯めたお金10万ほど手元に残った。同期には4年で4、500万貯めて、二つめの大学に行ったやつもいる。そういうのを見ているとこいつの意見は、すさまじくあまっちょろいし、国から金もらってなにさらしてんじゃいと言いたい」

「働きながら大学に行っている人たちはいっぱいいます。私も働きながら大学を卒業しました。4年間の学費は借金もせずに自分で働いたお金で支払いました。そんな人たちは私の大学の友人の中にはたくさんいます。自分が努力もせず政治の責任にするこいつらはいったいなんなんですか」

 非難されているのに、なぜか読んでいて涙が出た。僕のような人間が煩わしい気持ちもよく分かる。でも僕は決して彼らと対立したいのではない。

 僕だってこれから先、20年ほどかけて奨学金を返していく。今だって時間を見つけては少しでも稼いで、できるだけ早く完済できるように準備を進めている。返済する気がないと思っている人もいるようだが、全くそんなことはない。借りたものは返す。当然だ。

 あくまで僕が問題にしているのは、この日本社会において、教育の機会をもっと開かれたものにしていく必要があるのではないか、ということだ。

 僕が奨学金を返したくないとか、返済が不安とかそういう話ではなく、この社会のあり方について問うているのだ。

 問題を客観的に見るために、教育の機会均等を達成しようという国際的な動きと、日本の状況を照らし合わせてみたいと思う。国際人権規約・A規約の第13条2項(c)には次のように書かれている。

「高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」

 国際人権規約が採択されたのは、今から半世紀以上も前、1966年の国連総会だ。日本も1979年に批准したが、中等・高等教育の段階的な無償化については長らく留保してきた。その方針を2012年9月に撤回し、高等教育まで含めて、教育の機会を開かれたものにしていくことを国際社会に示した。

 それからすでに5年近くが経とうとしている。この間、それぞれの大学で授業料免除のあり方が見直されたり、給付型奨学金が創設されたりと、前向きな取り組みが進められている。しかし現状は依然として厳しいままだ。

 安倍総理は、憲法改正の文脈の中で、高等教育の無償化に積極的な姿勢を見せている。先日5月3日には、2020年に憲法改正を実現させたいとする意向を示すとともに、「高等教育についても全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」と述べている。

 高等教育無償化のために憲法改正が必要だとは思えない。憲法26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあり、2項では「義務教育は、これを無償とする」とされている。政府はこの2項が高等教育無償化に差し障りがあると考えているようだが、民主党政権は憲法改正をせずに、公立高校の授業料無償化を実現した。真の目的を高等教育無償化に置くならば、憲法改正に莫大な時間的、金銭的コストをかけるよりも、法案を作ることに注力した方が合理的だ。

 いずれにしても、議論の土俵は、どのようにして高等教育まで含めた教育機会の均等を実現していくかという水準にある。そのような中、貧しい者同士で、どっちのほうが苦労しているとか、どっちのほうが努力しているとか、そういうことで争っていても仕方ないのではないかと思う。

 

諏訪原健(すわはら・たけし)/1992年、鹿児島県鹿屋市出身。筑波大学教育学類を経て、現在は筑波大学大学院人間総合科学研究科に在籍。専攻は教育社会学。2014年、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に参加したことをきっかけに政治的な活動に関わるようになる。2015年にはSEALDsのメンバーとして活動した

【関連記事】

元SEALDs 諏訪原健「奨学金借金1千万円の僕が嫌悪する安倍首相のキラキラ貧困対策」dot.

 

 

 


元SEALDs 諏訪原健「奨学金借金1千万円の僕が嫌悪する安倍首相のキラキラ貧困対策」 〔dot.2017.4.7〕

2017-04-09 17:58:56 | 教育 教科書

dot. https://dot.asahi.com/dot/2017040700023.html?page=1より転載

元SEALDs 諏訪原健「奨学金借金1千万円の僕が嫌悪する安倍首相のキラキラ貧困対策」

 by 諏訪原健 (更新 2017/4/ 7 16:00)
 諏訪原健(すわはら・たけし)/1992年、鹿児島県鹿屋市出身。筑波大学教育学類を経て、現在は筑波大学大学院人間総合科学研究科に在籍。専攻は教育社会学。2014年、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に参加したことをきっかけに政治的な活動に関わるようになる。2015年にはSEALDsのメンバーとして活動した(撮影/写真部・長谷川唯)
諏訪原健(すわはら・たけし)/1992年、鹿児島県鹿屋市出身。筑波大学教育学類を経て、現在は筑波大学大学院人間総合科学研究科に在籍。専攻は教育社会学。2014年、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に参加したことをきっかけに政治的な活動に関わるようになる。2015年にはSEALDsのメンバーとして活動した(撮影/写真部・長谷川唯)

 

「飯を食っていくことを考えろ」


 高校3年生のとき、進路相談をするために、親に自分の考えとか夢とかについて話したときに返ってきた言葉だ。今でも人生における重要な選択の度に、この言葉が頭に浮かぶ。

 何度も何度も浮かんでくるので、「本当にそれでいいのか」と誰かに問い詰められているような気持ちになる。何となくこの言葉が好きではない。言葉の内容自体は、別に当たり前のことだ。

 うちは裕福な家庭ではなかったので、大学に行くなら多額の奨学金を借りる必要があった。大学を出ても食いっぱぐれないように、緻密に計算をしながら、人生設計しないと路頭に迷ってしまう。もしも自分が親だったら、似たようなことを言ってしまったかもしれない。

 でも当時の僕は、「金がないと夢さえ見れないのか」と感じた。どこに生まれるかなんて選べるわけじゃないのに、それによって人生の自由が制限されてしまう。そして自分には、自分について決定する権利すらない。そう思うと、何だか空しいし、悔しかった。

 結局は半ばけんかをしながら、ある程度好きにさせてもらった。その代償というと変かもしれないが、奨学金の返済額は学部時代だけで1千万円を超えた。だからといって、別にこの社会が憎いなんて思っていない。去年くらいまで奨学金や自分の境遇について人前で話すこともなかった。別に口に出したところで自分の人生が良くなるわけでもないし、この世の中で受け入れてもらえるとも思わない。できるだけ考えないようにしておいたほうが、精神衛生にもいい。ただ現実に適応して、自分の損得で動く方がずっと楽だ。

 でも僕は同じような思いを、自分より下の世代にはしてほしくないなと思っている。

 もっと身近な存在でいえば、年の離れた妹にはそういう思いをしてほしくないなと思っている。勝手な心配なのかもしれないけれど、古くさい価値観が染み付いた田舎に生まれたから、「どうせお嫁に行くんだから、借金してまで勉強することはない」とか思われて、僕みたいに多額の奨学金を借りてまで好きにさせてはもらえないんじゃないかと思う。

 仮に僕自身の人生はうまくいったとしても、誰かが自由に生きる道を制限されるような社会だとしたら、それは変えないといけないと思う。

 そんなことを漠然と思っていたこともあって、大学では児童養護施設での学習支援ボランティアを始めた。子どもたちのバックグラウンドはそれぞれだから、一概には言えないんだけど、学習のときに常に考えていたのは、自分らしい人生を生きるために1ミリでも役立てばいいなということだった。結局のところ、役に立つかどうかなんて、人生を後から振り返ってみないとわからない。だから自己満足でしかないのかもしれない。それでもできることをやったつもりだ。

 そういうことと同時に、僕は政治や社会に対しても、意見を言わないといけないと思っている。子どもが自由に生きていけるかどうかが、その人の境遇とか、人との出会いとか、運にかかっているような状況を是認してしまいたくはない。残念ながら、今の政治は、個人に責任を押し付けるようなものになっているように思えてならない。

 2016年11月8日に、子どもの貧困対策のために設置した「子供の未来応援基金」の1周年を記念して、安倍首相が出したメッセージに次のようなフレーズがあった。

“あなたが助けを求めて一歩ふみだせば、
そばで支え、その手を導いてくれる人が
必ずいます。

あなたの未来を決めるのはあなた自身です。
あなたが興味をもったこと、好きなことに
思い切りチャレンジしてください。
あなたが夢をかなえ、活躍することを、
応援しています。”

 困難な状況に立たされた子どもに対して、こんなキラキラした、それでいて見殺しにするような言葉をかけることは、僕にはできない。本当に子どもたちのためを思っているのだとすれば、民間からの募金に頼るのではなく、政府が責任を持って安定的な予算を確保すればいい。誰もが「思い切りチャレンジ」できるように政治のあり方を見直していけばいい。この基金で、1年間に集まった寄付金は総額7億円弱。決して無理な話ではないと思う。

 今年度からは、給付型奨学金が設けられることになった。それ自体は大きな前進だけれども、その額は大きいとは言えないし、成績が要件に入っていることに大きな疑問を覚える。結局は、奇跡的に勉強を頑張れた人しか救われない。全ての人にチャンスを与えるという発想はできないものだろうか。

 今の政治は「国家」を強くすることには一生懸命だが、この社会で暮らす人々の生活は後回しのようだ。この間、安倍政権は特定秘密保護法や安保法制を、むちゃくちゃともいえる手段で、精力的に推し進めてきた。今度は共謀罪まで作ろうと意気込んでいるし、憲法改正への熱意だって相当なものだ。その熱量がなぜ、力なき人々の方へは向かないのだろうか。政権が代わらなければ、どうしようもないのではないかとすら思えてくる。

 もちろん「政権が代われば、社会が良くなる」なんて簡単に物事を考えているわけではない。それどころか実際のところ、政治家に対してそんなに期待もしていない。どんなに頭のいい人でも、今の社会状況を的確に捉え、最良の処方箋を用意することなどできるはずがない。

 そうだとしたら「最良の処方箋」は、多くの人が声を上げて、議論して、できる限り納得できるような形を目指して、叩き上げていくしかないのではないだろうか。そのために、誰でも政治にものを言っていくことは重要だろうし、その瞬間から社会は違う方へ、少しずつだが確かに動いていくと思う。生活には全然余裕がない。でもそんなことを思っているから、僕自身は政治に関わっている。(諏訪原健)


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【道徳教科書検定】 「パン屋さん」怒り収まらず 〔毎日新聞2017.4.4〕・・・情けない、薄いっぺらい愛国心意識!!

2017-04-05 15:36:17 | 教育 教科書

 パン屋さんは非国民か・・・「パン屋」でなく、「和菓子」ならイイ?

 それなら、「洋服屋さん」ならだめで、「和服屋さん」なら、イイっていうのか。
 「靴屋さん」でなく「草履屋さん」ならイイというのか!ふざけるな!!
 そんなのは、偏屈な愛国心育てるだけだ!!お粗末でうすいっぺらい教科書検定だ
・・・(元パン職人)

 

「パン屋」怒り収まらず

「にちようびの さんぽみち」
 

 パン屋は「国や郷土を愛する態度」にそぐわないのか。来年春から小学生が教科として学ぶ道徳を巡り、ある教科書の記述が文部科学省の検定意見を踏まえ「パン屋」から「お菓子屋」に変わった。「学校給食で協力してきたのに、裏切られた」。パン屋さんたちの怒りが収まらない。

 このニュースが世の中を駆け巡った3月24日以降、インターネット上では「パン屋は非国民か」「あぜんとする」「フェイクニュースかと思った」などと盛り上がっている。

 記述が変わったのは東京書籍(東京都北区)の小1向け教科書に載る題材「にちようびの さんぽみち」。祖父とよく散歩する主人公「けんた」がいつもと違う道を歩き、見慣れたまちの新しい魅力を見つける--という単純な内容で、この中にパン屋さんが出てくる。

 ところが、この題材全体に「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし扱いが不適切」と検定意見がついた。文科省の担当者は「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つことの意義を考えさせる内容になっていない」と解説する。

 指摘を受けて東京書籍は悩んだ末に「パン屋」を伝統的な和菓子を扱う「お菓子屋」に変更した。検定結果公表時、東京書籍の担当者は「(指導要領を)しっかり担保しなくてはいけないと感じた」と話した。詳しい経緯や感想を聞こうと同社に改めて取材したが応じてくれなかった。

 

検定意見でどう変わったか…

 「パン屋が日本の文化にそぐわないと言われたようで心外だ」と憤るのは、製パン大手21社で作る「日本パン工業会」(東京都中央区)の中峯准一専務理事。「小学生の女の子に将来なりたい職業を聞くとケーキ屋やパン屋は上位に入る。そんな子供の気持ちをどう考えるのでしょうか」

 まちのパン屋さんの怒りも収まらない。

 全国中小の製パン業者の団体「全日本パン協同組合連合会」(東京都新宿区)の西川隆雄会長は「郷土愛を伝えるのにパンはふさわしくないと言われたようで悔しい。洋服と同じくらい長く親しまれているのに……」と憤慨している。

 西川さんも兵庫県加古川市の製パン業「ニシカワ食品」の社長。阪神大震災では他の業者とも協力して被災者に無償で配った。郷土愛は人一倍強い。「学校給食に携わるパン屋は全国に約1500社ある。もちろん商売ですが、懸命に作って届けています。『もう学校給食のために作りたくない』という声が仲間たちから上がってもおかしくありません」

 一方、妙なかたちで注目を浴びた和菓子屋さんも困惑する。

 「伝統的な食文化の一翼を担う和菓子が紹介され、子どもたちが授業で触れる機会ができるのは素直にうれしい」。全国和菓子協会(東京都渋谷区)の藪光生(やぶみつお)専務理事は慎重に言葉を選びつつ感想を語る一方、戸惑いも口にした。「パンも日本の食文化の一翼を担っている。パンと和菓子のどちらがいいのかという問題ではない」【大村健一】

「薄っぺらの愛国心」識者指摘

 パン屋から和菓子屋への変更について、思想家で神戸女学院大名誉教授の内田樹さんの指摘は辛辣(しんらつ)だ。「検定で指摘を受けた教科書会社は『パン屋を和菓子屋にする小手先の修正で大丈夫』と予測し、実際その通りだったのだろう。それだけ検定側の知性が低く見られているということだ」。さらに「文部科学省の言う愛国心や伝統の尊重が薄っぺらな記号に過ぎないことは、出版会社の間で周知の事実だろう。知的退廃という以外に言葉がない」と論評した。

 小中学校の「道徳の時間」は1958年にスタート。国語や算数などの教科とは異なる教科外活動で、検定を受けない「副読本」や教員が独自に作った教材が利用されてきた。東京書籍は「にちようびの さんぽみち」を2000年から副読本に載せ、「パン屋さん」という設定で長く親しまれてきた。

 道徳の教科化は06年に第1次安倍政権が打ち出したが、文科相の諮問機関・中央教育審議会(中教審)が「心の中を評価することになる」と難色を示し、見送られた。12年末に発足した第2次安倍政権は、再び教科化を検討。14年にメンバーを入れ替えた中教審が教科への「格上げ」を求める答申を出して、実現した。小学校では18年春、中学校では19年春から授業が始まる。

 教科化の背景にはいじめ自殺問題などがあるとされる。だが、森友学園の運営する幼稚園で児童が唱和していた「教育勅語」への安倍政権の姿勢とも合わせて、教育の右傾化を懸念する声が専門家から上がっている。【大村健一】

 

 

<教科書検定>「おじさん→おじいさん」の変更も 何が問題なのか

<教科書検定>政府説明に沿う意見 出版社あきらめ顔

<まんがで解説>教科書検定の仕組み

 

 

 

 


あまりにも稚拙な、菅官房長官らの発言。「教育勅語」の読み方の基本を講義します。 〔思索の日記 武田康弘〕2017.4.4

2017-04-04 18:00:23 | 教育 教科書

http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/b990afd66e57bb9b1d51079ad6414edbより転載

思索の日記

あまりにも稚拙な、菅官房長官らの発言。「教育勅語」の読み方の基本を講義します。

2017-04-04 

 明治維新時に伊藤博文らがつくった天皇現人神という「国家カルト教」は、皇室を利用して国民を統合し、富国強兵政策を進めた強力なイデオロギーでしたが、これは、いまの天皇夫妻と皇太子夫妻も忌み嫌う思想で、国体思想とか靖国思想と呼ばれます。

 そのために、その総本山である「靖国神社」(明治2年に維新政府がつくった施設)には、天皇も皇太子も参拝しません。日本の近代化を超スピードで進めた現人神(あらひとがみ)というカルトの手法は、一方では、精神の貧困(日本人に哲学なし)を生んでしまいました。細かな暗記勉強と技術的な知だけが求められ、一人ひとりの独自の精神世界の涵養はなされませんでした。天皇制政府と一体化する集団人となることが求められ、忠の精神に基づく「道徳律」に従うように教育されたのです。その象徴が『教育勅語』です。

 現人神である天皇が、臣民である国民に与えた形をとる道徳律ですが、「忠」という日本精神(上位者への恭順)こそ正しいとする思想を下敷きとして、その上に、個々の戒律が示されていますので、一つひとつの戒律の意味は、「忠」という土台となる精神=思想から解釈されなければなりません。切り離してしまえば、意味を変えてしまいます。

 「滅私奉公」、自分を滅して公=天皇に奉仕するという「忠」の道徳から切り離された個々の戒律は、意味をなさないのです。

 

 以上は、思想的な文章を読む上でのイロハなのですが、高得点が取れるという「知的」に優れていることだけが求められ、自分の頭と心を自分でつくるという「精神的」な豊かさ、強さ、柔軟性、面白さなどが軽視される日本では、この基本を踏まえられない人が多く、とりわけ、高学歴者ほど、その傾向があります。「精神的」であることが「知的」であることより低いという価値転倒は呆れるほどですが、これを読まれているあなたは大丈夫でしょうか? 日本人は思想音痴で、哲学(正しくは「恋知」)がないのは、人間が人間として生きる土台がないのと同じです。いま、一番必要なのは、「自問自答(沈思)と対話によるフィロソフィーの営み」であり、道徳律の強要や暗唱とは逆です。

 

 菅官房長官や各大臣の「教育勅語」に関する発言は、あまりにも稚拙で、知的退廃というほかなく、呆れるを通り越し哀しくなります。見事なほどの「思想音痴」です。フィロソフィーの営みはなし。



武田康弘(恋知者)

 

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<参考>

 「写真 教育勅語 菅官房長官 教材として」の画像検索結果   「写真 教育勅語 菅官房長官 教材として」の画像検索結果