第弍話 ピアノを聞く
「まだ、大丈夫かな」
影親は小さな声で、人との触れ合いが嬉しかった気持ちを安心感に替え、身体をポジティブに捉えたかった。
ピアノ演奏会の会場は三階までのエスカレーターが舞台から向かって右側にあり、それの反対側は階段になっていて、舞台の背面に屋上までのエレベーター二機に囲まれた待合わせ広場は、まだ誰も居なかった。一〇脚横並びになった大して座り心地が良さそうもない、ステンレス製の折り畳み椅子が四列あった。
影親は、四列目の右端から四番目の椅子に座り、演奏会まで後、二時間は待つ事を腕時計を見て確認すると、スマホを手に取り、Kindle を立ち上げた。日曜日に読み終えず寝落ちした重力に関する新書を読み始めた。
行動を伴う趣味は好まないものの、工業大学出であるのも相まって物理好きであった。長い空き時間が出来ると、こうやって物理学に関する読み物を読み耽るのであった。
そうしてると、開演三〇分前になっていた。
「もし、宜しければ前の席にお詰め頂けますか?」
係員が申し訳なさそうに声をかけてきた。腕時計を見て、周りを見渡し、三〇分前に気がつき、でも、このパイプ椅子には、影親を合わせて四人しかいなかった。係員の顔を覗き込むと、下手な作り笑いで、右手を舞台側に向けていた。
それを見て、これから演奏するピアニストは対して有名な人ではないのかと思い、だか、客が少人数だから、近くで聞いてあげた方がモチベーションも上がるかも知れないと考えながら立ち上がった。
「私、ピアノの演奏を生で見るなんて、高校の頃の音楽の授業以来なんですよ、どこから見たほうが楽しめる、というか、うん、楽しめますかね」
その係員に居酒屋やレストランでおすすめメニューを聞くような感覚で尋ねた。
「あっ、そうですね。私も実はピアノは、いや、音楽は専門外で、普段はヒーローショーなんで、あっ、鍵盤を叩く指が見やすいところが良いじゃないでしょうか、ピアノが上手い人は指捌きが凄いと思いますよ」
困った表情を見せ、適当に見繕ったことをいい、益々顔を歪めて係員は答えた。
「ほう、そうかも、指の動き、楽しめそうですね、分かりました。前へ移動します、ありがとうございます」
景親は大人な対応が出来たと自負した。
まだ演奏までは一五分くらいあった。スマホで時間を潰しても良かったが、ふと、ピアノそのものがどんな楽器だったのか考え始め、視線をピアノに向けた。
鍵盤を叩くとそれがピアノ線に当たって音が出る仕組みで、こんなものを作り出した人は誰なんだと思い、更によく見ると、どこにでもありそうなピアノではあるが、光沢があり普段から綺麗に手入れされてるのだろうと想像した。すっかり病院帰りであったことを忘れてた。
「あのう、もう一つ前でいかがですか、私が演奏します」
唐突に女性から声をかけられた。景親は驚いたが、とても嬉しく感じ、加えて、爽やかな香りが鼻を通り抜け、無言で笑顔を見せながら先頭の席に移動した。
その女性は、他の人達にも声をかけて回ったが、先頭の席まで詰めてくる人は影親だけだった。残念ながら、ふたり程立ち去る人がいた。
景親は気がつかなかったようだが、後ろの遠目にポツンポツンと女性客が立っていた。椅子に着く人が少な過ぎて、恥ずかしく、目立たない場所で演奏を聞きたいような雰囲気だった。
「お集まりの皆様こんにちは、それではお時間となりましたので、始めて行こうと思います、先月は夏休み期間でしたから、六年生の山田一郎君に演奏してもらいました。今日は私のピアノ教室へ五歳から高校を卒業するまで通ってくれてた、春野美音(はるのみおん)さんに演奏してもらいます、美音さんは、高校卒業後、 武佐師川(むさしかわ)音楽大学を出られて、ドイツへ留学しました。帰国したばかりです」
ふっくらしたオバちゃんの話が長く感じ、その横に立つ春野美音に見惚れていた。
髪の毛はダークブラウンに染めているのか、ポニーテールは似合っている、メガネも可愛らしい。オフホワイトのカットソーに黒でボタンを掛けてないカーデガン、黒の膝上三センチくらいのタイトスカート。飾らないシンプルな綺麗さが際立って見えた。
このオバちゃんの傍だから余計に細く見える。影親の脳はその声、オバちゃんの声である聴覚刺激を選択知覚しないでいた。久し振りに女性を見惚れていた。
演奏が始まった。椅子の座面を浅めに座り、綺麗に骨盤が立ち上がり、殿部の丸み、腰椎の前方への弯曲。美しい曲線だ。そしてピアノに向かう真っ白な太腿、程良く締まった脹ら脛。ここも美しい曲線。
鍵盤を叩く指は細長く、時にはゆったり、時には速く、でも、滑らかに、柔らかく動いている。ピアノが奏でる音を楽しんでるように見えた。
その動きに対して、肘、肩の位置は止まっている。首の真下へ優しく下りた上腕、鍵盤へ迷うことなく向かう前腕。腕全体を遠目にすると〝Love〟のLの字を連想していた。そこまで想像した自分が恥ずかしくてならなかった。
クーパー靭帯がしっかり釣り上げ、お椀のように前に膨らんだ乳房は揺れる事がない。官能的にも感じるし、母性的にも感じた。
〝なんて綺麗なんだ。〟この言葉しか浮かんでこない。誰もがそう思うだろう。恥ずかしがらないで良いんだ。影親は自分にいい聞かせた。
その美しい佇まいは、癒しを与えてくれた。語弊があるが、今までにも目にしてきた女性の曲線だが、ピアノの音色が影親の感覚を素直にしてくれたのだろうか。更には、目を閉じて音を見る事にした。これまでにそうしてみようと発想したことがなかった。流石に見えやしない。また、自分を恥じた。だか、音をこんなに楽しめてることは初めてで、嬉し涙が溢れ出ていた。
「宜しければ、これ、使って下さい。最後まで聞いて下さってありがとうございました」
演奏を終えた美音は微動だにしない影親に驚き、薄ピンクのハンカチを差し出した。
「えっ、すみません、持ってます、持ってます、感動しました、実は、北山病院の診察の帰りに寄りました、両親を数年前に癌で亡くしてて、主治医だった先生に体調が悪い時は早めに診察に来るよういわれてたのですが、半年ばかり腹痛を我慢してて、まだ癌なのかどうかは分からなくて、二週間後に検査入院が決まって、覚悟を決めたのですが、病院の玄関先でピアノ演奏会のポスターを見たら無意識にここに来てしまってて、あ、え、何言ってんだろう、すみません、でも、ピアノを弾くのを楽しんでるように見えて、とても心地良い音で、あ、ありがとうございました」
影親は、目元を自分のハンカチで拭きながら、額から滲み出る汗も拭きながら、多弁になってしまった。
「そうだったのですか、大丈夫ですか、お疲れのようですね、私が弾くピアノを心地良く聞いて下さってありがとうございます、週に一回、火曜日のこの時間に一ヶ月間は弾くことになってますので宜しければ、また、いらして下さい、では、お大事に」
美音は、影親の話しの内容、喋り方に衝撃を受けたが、懸命に冷静さを保ち、また来てくれなんて社交辞令でしかないのに、言ってしまった事を後悔し、当たり障りなく平静を装い離れていった。
影親は後悔に駆られていた。何であんなことまで言ってしまったのか、顔から火が出る思いになった。なるべく周囲の人達が自分の目に入らないようにし、また、慌てないように、ショッピングモールを後にした。
続