約1000年前の平安後期、平泉は京都に次いで栄えた都市だった。
ここ岩手県南西部には、奥州藤原氏が多くの仏教建築を建て、華やかな仏教文化が花開くのである。
しかし、1337(建武4)年の火災で多くの建物が焼け落ち、現存する当時の建築物は金色堂だけになってしまった。
金色堂はその名の通り、すべてが金箔で覆われた豪華なお堂だ。
1962(昭和37)年から6年かけて改修され、柱から壁、床、軒やお堂の内外全て当時のままの金色に輝いている。
しかし、このお堂にはその豪華な外観以上に、人の心を惹き付けて離さないものがある。
それはご本尊が祀られている須弥壇(しゅみだん)という台の下の棺に収められたミイラ化した遺体だ。
この遺体は、平泉に黄金文化を築いた奥州藤原氏の初代清衡、2代目基衡、3代目秀衡の3人である事が解っている。
しかも、秀衡の遺体の側には4代目の泰衡の首も安置されていて、神聖な場所でありながら、ミステリアスなイメージが拭えないのだ。
だが本来、仏像を安置して礼拝供養する為の寺のお堂に、なぜ遺体が収められたのだろう。
じつは、この金色堂は、死後みずからを祀る為に清衡が建てた墓堂なのだ。
清衡の金への執着は、かなりのものだったとみられ、棺の内外も純金箔で仕上げられている。
仏教では建築物や仏像に金箔を施す事は珍しくないが、ここまで徹底しているのは他に例がない。
栄華を極めた奥州藤原氏は、まばゆいばかりの黄金の中で眠っているのだ。