
10年以上前の話です。
亡くなる2年位前に、私の父親が私に一冊の大学ノートをくれました。
父は、その頃から体調を崩して、入退院を繰り返していました。
そのノートには、
親戚のこと、保険のこと、土地の境界線のこと、
父が亡くなったときに連絡をする人たちの名前、お墓のこと、
などなどが細かく書かれていました。
これは、今、流行のエンディングノートだったのです。
亡くなる2年位前に、私の父親が私に一冊の大学ノートをくれました。
父は、その頃から体調を崩して、入退院を繰り返していました。
そのノートには、
親戚のこと、保険のこと、土地の境界線のこと、
父が亡くなったときに連絡をする人たちの名前、お墓のこと、
などなどが細かく書かれていました。
これは、今、流行のエンディングノートだったのです。
父の場合、「備忘録」というタイトルでしたが・・・。

エンディングノートの目次や構成を読んだだけで、今までの自分の人生の未熟さが浮かび上がってきます。
同時に、まだ、死ねないなあ、という新たな気持ちも出てきます。
エンディングノートは、その人の過去、現在、そして、残された未来を考えるための
ずいぶん上等な方法だと思います。
ですから、死に至る準備としてのエンディングノートは、
「人生の締めくくり方の学び」の中の一コマに、積極的に取り入れるべき内容だと思います。
ただ、どう活用すればよいのかを考えると、難かしくて思わず考え込んでしまいます。
同時に、まだ、死ねないなあ、という新たな気持ちも出てきます。
エンディングノートは、その人の過去、現在、そして、残された未来を考えるための
ずいぶん上等な方法だと思います。
ですから、死に至る準備としてのエンディングノートは、
「人生の締めくくり方の学び」の中の一コマに、積極的に取り入れるべき内容だと思います。
ただ、どう活用すればよいのかを考えると、難かしくて思わず考え込んでしまいます。

あるエンディングノートの最初には、次のように書かれています。
・・・・・
思いやりを「カタチ」にするエンディングノート。
残された人たちが困らないように、「あなたの言葉」で「あなたの思い」を伝えましょう。
目次や構成は、次ぎのようになっています。
・私のこと
・自分史
・親戚・友人 ・知人リスト
・ペットについて
・私の財産について
・保険 ・私的年金
・介護 ・告知や延命治療 ・献体など
・葬儀のこと
・お墓のこと
・携帯電話、会員サービスなど(解約をお願いしたいもの)
・形見分け 遺品の整理(処分品リスト)
・遺言書や依頼 相談先リスト
・大切な人へのメッセージ
なるほどなあ、と思うポイントがほどんど入っています。
これを、自分で納得いくように考えながら書き込んでいくのは、結構なエネルギーと時間が必要です。
しかし、書き終えた時には、ある種の感動が待っているかも知れません。
このポイント(項目)を誠実に埋めていくだけで、
・・・・・
思いやりを「カタチ」にするエンディングノート。
残された人たちが困らないように、「あなたの言葉」で「あなたの思い」を伝えましょう。
目次や構成は、次ぎのようになっています。
・私のこと
・自分史
・親戚・友人 ・知人リスト
・ペットについて
・私の財産について
・保険 ・私的年金
・介護 ・告知や延命治療 ・献体など
・葬儀のこと
・お墓のこと
・携帯電話、会員サービスなど(解約をお願いしたいもの)
・形見分け 遺品の整理(処分品リスト)
・遺言書や依頼 相談先リスト
・大切な人へのメッセージ
なるほどなあ、と思うポイントがほどんど入っています。
これを、自分で納得いくように考えながら書き込んでいくのは、結構なエネルギーと時間が必要です。
しかし、書き終えた時には、ある種の感動が待っているかも知れません。
このポイント(項目)を誠実に埋めていくだけで、
全体として
『残された人たちが困らないようなノート』になっていると思います。
素晴らしいと思います。
しかし、これだけでは、何か足りないような気がしてしょうがありません。
多分、このエンディングノートだけでは、
自分が何を目指して、どう生き、何を考え、
今、死に至る段階で、何をどうしようとしているかという
『生き様』『ライフワーク』『自己の人生への自己評価』が載っていないからだと思います。
つまり、「人生の締めくくり方の学び」には、
一方に、エンディングノートに代表される重要な連絡という輪、
もう一方に死に至る段階でしか出てこない『人生観』『死生観』の振り返りという輪、
という両輪があって初めて『学び』や『誠実な行ない』になるのだと思います。
だから、抽象的な言い方になってしまいますが、
その両輪の誠実な回転をどう促していくかが、
シニアの『学び計画の大きな柱』になるのだと思います。
『残された人たちが困らないようなノート』になっていると思います。
素晴らしいと思います。
しかし、これだけでは、何か足りないような気がしてしょうがありません。
多分、このエンディングノートだけでは、
自分が何を目指して、どう生き、何を考え、
今、死に至る段階で、何をどうしようとしているかという
『生き様』『ライフワーク』『自己の人生への自己評価』が載っていないからだと思います。
つまり、「人生の締めくくり方の学び」には、
一方に、エンディングノートに代表される重要な連絡という輪、
もう一方に死に至る段階でしか出てこない『人生観』『死生観』の振り返りという輪、
という両輪があって初めて『学び』や『誠実な行ない』になるのだと思います。
だから、抽象的な言い方になってしまいますが、
その両輪の誠実な回転をどう促していくかが、
シニアの『学び計画の大きな柱』になるのだと思います。

夜を越えて今朝もバラが立っている
今から咲き誇ろうとするバラもあれば
こぼれそうな生命をたたえているバラもある
このバラはみんな夜を越えて来た
芽吹の夜も雨降る夜も
咲きたい輝きたい生命を広げたい
そう思って懸命に生命を繋いで来た
私は今
バラの一途さに
こころ震えている
今から咲き誇ろうとするバラもあれば
こぼれそうな生命をたたえているバラもある
このバラはみんな夜を越えて来た
芽吹の夜も雨降る夜も
咲きたい輝きたい生命を広げたい
そう思って懸命に生命を繋いで来た
私は今
バラの一途さに
こころ震えている
(くろほとき)

・・・・・
おはようございます。
よろしければ下のシニアライフのボタンをポチっとクリックしてください。⬇️
備忘録たるエンディングノートの作成。ひとつの素晴らしい試みだとは思います。
でも、形として残しても、その人に対する感謝や感動の気持ちは、決して残された者に伝わるとは限らないでしょう。
残された者には、形なき記憶として、刻まれるべきものだと思いますから。
私も、最愛の父を4年前に亡くしました。半身麻痺の障害者でありながらも、懸命に生きて自分達家族に、精一杯の愛情を注いでくれました。
そして、絵画の製作が大好きで、社会貢献を第一義と考えていた亡父は、東日本大震災の被災地にも、何かの支えにと、自身の絵を寄贈していました。
亡父が描いた絵画の数々は、今現在も家中に飾られています。
でも、私自身の中では、生前の父の満面の笑顔はもちろん、形に残らない受け継ぐべき父の志、それに、不意に襲った死の直前に、私と交わしたやり取りの中での父の流した大粒の涙が、いつも脳裏を離れません。
だから、父は、単にこの世という形ある世界で、目に見えない姿に変わっただけで、常に身近で見守っていてくれていると信じている私です。
そこには、形の必要など存しない、愛する者への敬募の念のみがあるのではないでしょうか。
30年前に死んだ母も、数年前に死んだ姉や兄も、父のことを全くといっていいほど話しませんでした。
父のことを知りたいと思ったことは、何回もありました。しかし、伝えてくれる人もなく、記録もなくそれは、叶いませんでした。
市役所で除籍の謄本を取りました。市役所でそれを開くことが出来ませんでした。何となく怖いような気になったからでした。
家に持ち帰り開きました。父の死んだ年月日や場所が記載されていました。詳しく知りました。たったそれだけのことでしたが、むなしく、哀しく、せつなくなりました。
父のことをもっと早く多く知りたかったです。せめて備忘録のようなものでも残して逝ってくれてればと思いました。。
記憶は薄らいでいくと思うので、エンディングノートなどに
記録して残し、それが子供や孫、ひ孫にと伝わって行けばよいと思っています。