くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

7月の日々

2016-07-26 10:46:52 | 日々の出来事


 

7月の我が家は

連れ合いが突然の「脊椎間狭窄症」になりました

好きなテニスも休み(能面工房には週1回でかけます)

もっぱら整形外科での治療とスポーツジムでの水中歩行

あとは自宅で椅子には座れるので、読書とテレビを見たりの

日々が続いていますが、改善の兆しが見えないのでMRI撮影を

することになりました

痛み止め薬も血液の流れをよくする薬もあまり効き目がありません

さて どうなりますことか・・・・・

私は変わりなく行事や予定は遂行していますが。

 

 


徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之壹百(最終篇)

2016-07-18 10:09:49 | はらだおさむ氏コーナー
あのときの草原情歌


 ♪ツアイナヤオユアンディ ティ-ファン、ヨウウエイハオク~ニャン♪
 (はるか離れた そのまたむこう だれにでも好かれるきれいな娘がいた)

 1976年10月の下旬。
 北京のホテルの宴会場で、中国の民謡「草原情歌」の合唱が響いた。
 第一回ヴェトナム経済視察団のお別れの宴(うたげ)であった。

 日本と中国は、72年9月の周・田中会談による国交の正常化で、両国の交流と交易は拡大しはじめていた。
 75年4月30日のサイゴン(現ホーチミン市)陥落で「北ヴェトナム」が勝利して一年余、「第一回ヴェトナム経済視察団」が企画され、76年の10月、東京からバンコク、ラングーン(現ヤンゴン)、ラオスのビエンチャンを経由して出発から5日目の夜、「北爆」で街なかが堀池のように破壊されたハノイに到着した。一行十数名は、銀行や大手商社のほかにわたしのような日中貿易の関係者も多かった。
 ハイフォンやサイゴン視察のあと、ハノイで貿易部門と接触したが、情報の交換から商談に結びつくにはおよばなかった。
 そのとき、疲弊していたのはヴェトナムだけではなかった。
 中国では一月に周恩来総理が逝去、四月には「第一次天安門事件」で鄧小平副総理が失脚、七月は朱徳元帥死去のあと、天地を揺るがす「唐山大地震」が華北の地を襲い、九月九日「巨星墜つ」毛沢東の死が全土を悲しみに包み込む。文革発動から10年、この国はどうなるのか・・・。

 ハノイからの帰途は、北京経由であった。
 旅のなかで親しくなった大手商社の方は、東京外語大中国語部卒。
 「周四条件」などで中国との取引は系列の「友好商社」が担当のため、ご本人は東欧やアフリカなども受け持ち、最近では香港経由で広州交易会にも参加しているが、北京には卒業後20余年一度も行ったことがないと。
わたしは国交正常化以前の64年が初訪中、駐在こそしたことはないが数年前から北京や上海にも駐在事務所を設けている「老友好商社」の人間として、北京は駆け出しの旅行社のひとよりは詳しい(笑)と、旅のよすがに北京の情報をひとくさり。

定刻よりかなり遅れてハノイを飛び立ったヴエトナム航空は、国境を一跨ぎして南寧空港に着陸、薄暮のなか見渡すと空港のはずれには数多のミグ戦闘機が並んでいた。「北爆」のころは越境してくる米軍機などに対応したであろう情景が浮かぶ。
  搭乗してきた中国人の乗客がわたしの傍らに着座し、新聞を広げる。
  江青など「四人組」逮捕のスナップが、目に入る。
  前の席からも、ざわめきが聞こえる。
  ・・・・・・・・・・・・
  北京に到着して、会社の駐在員に確認した。
  新聞などにその情報が掲載されたのは、この2~3日前のことだが・・・、
その瞬間は、公衆トイレで古新聞で顔を隠しながら、かがみこんでいる隣からとなりへと伝達され・・・それは燎原の火のごとく広がって、パイチュウで乾杯を繰り返すひとたちのよろこびの声がこだましていたという。
 翌日は北京がはじめての人たちに、八達嶺(長城)や市内観光がセットされ、いよいよ半月近い「ヴェトナム経済視察団」のお別れのときが近づいてきた。宴たけなわで、歌も出はじめた。
 隣席の大手商社のひとが立ち上がり♪在那遥遠的地方 有位好姑娘・・♪と「草原情歌」を歌いはじめたとき、陪席の旅行社のひとからストップがかかった。それは修正主義の歌だ、革命歌に代えてください・・・の一声で、宴席は紛糾しはじめた。(戦闘的)「友好商社」の参加者からも、同調する人が出てきた。わたしは酒の勢いもあって、中国国際旅行社の担当者に食ってかかった。何を言っているんだ、きみは「四人組」が逮捕されたことも知らないのか!ご都合主義の、修正主義者はきみではないか!
 わたしは隣の人の手をとって、さぁ、歌いましょう!と声を張り上げた。
 ♪ツアイナヤオユアンディ ティ-ファン・・・♪
 歌声はひろがり、立ち上がったひとたちが手を取り合って、輪をふくらませていった。

 あれから四十年が経った。
鄧小平が復活し、改革開放がはじまった。
かれが後継を託した胡燿邦と趙紫陽が足許をすくわれ・・・、「南巡講話」後の中国の改革開放路線は、かれが望んだ道筋であったのかどうか・・・。

80年代のなかば、上海のある高官から個人的な対談の申し入れがあった(通訳と秘書同席)。
財政難(中央に鐚一文も残さずに吸い上げられる)で、上海の改革・開放が進められないが・・・とのこと。わたしは外国からの借款、外債の導入を提案した。高官は、貸してくれる国があるだろうか、返済はできるだろうかと心配されたが、日本でも大阪や神戸の戦後復興には外債の寄与が大きい。
 1ドル360円での借金が、返済時には三分の一以下のレートになっている。
 中国元もわたしの初訪中時の、1元135円の固定レートがいまでは75円、返済時にはおそらく20円以下になっているでしょう、と提言した。
  もうひとつ、黄浦江対岸の浦東地区開発のこと。
  黄浦江は上流まで3千トンクラスの貨物船が往来するので橋がかけられない、と。わたしは大阪の南港大橋や広島の音戸大橋の構造を説明して、専門家の視察を提案した。

  コロンブスの卵ではないが、専門家が大阪の南港大橋を見て、南市区側はらせん状に巻き上げ、浦東側は長いスロープの架橋にすることを思いついた。
  89年のあの事件のあと、中国は翌90年4月「浦東開発」宣言をして本格的な対外開放に向かうが、その目玉が「国有地の土地使用権有償譲渡」政策であったことはいうまでもない。
  しかし、92年に南浦大橋が完工していなければ、浦東へ行くことはできなかった。鄧小平がまだ開通していないこの大橋の上から、上海の幹部を集めて檄をとばしていたが、わたしたちはそのあと、工事を担当した責任者からこの大橋を案内していただいた。あとで彼から聞いたところででは、マルク債とサムライ債を請けたとのことであった。

  文革終結から四十年がたった。
  いま中国は世界第二の経済大国となり、ひとりあたりの購買力平価も2003年には日本を追い抜いている。豊かな国になったのだ。
  しかし、中国映画界第5世代監督のチャン・イモウが描く“文革後遺症”の映画・「妻への家路」がヒットし、続く世代のジャ・ジャンクー監督の「大河ノスタルジア」が物語るように、中国の庶民の心情は複雑である。

  「歴史を反芻する」こと。
繰り返し、くりかえし、歴史を思い出し、考えることではじめて本当の姿が見えてくる。
明日は、きのうから今日につながる、その先にある。(完)
                 (2016年7月15日 記)
長きにわたりご高覧いただき、ありがとうございました。謝々再見!

暑い日々が始まりましたね

2016-07-11 15:56:00 | 日々の出来事
7月上旬の出来事

豊中パリ祭
  
今年も高らかに歌声が響きました
衣装もシャンソンもも素晴らしかった!!


日本民家集落博物館
  
  ゴマの花とカンゾウの花


  
椎葉の民家の囲炉裏と床の間
花は矢筈すすきとアジサイ 横には折り紙で川下りとカエル


豊中ピカソ



主人の作品  右 邯鄲男   左 小面
 


  
作者の奥村さんとセイタカ童子




ゆずりは茶会





御影の街角で鈴なりの木苺

ひとつ頂いたが、すっぱい!!

東北震災被害地を訪ねて(4日間)

2016-07-04 13:52:07 | 日本民家集落博物館ボランテ
6月7日から4日間 日本民家集落博物館のボランティアさんが東北震災被害地を
訪れて、今回ボランティア仲間に発表会をして頂きました

リアルな説明を聞きながら、現状の東北震災被害地を皆様にもぜひお見せしたくて
写真をUPさせていただきます

南相馬・釜石市・気仙沼市の慰霊碑

  


    


   


南相馬では除染作業も遅れがち
住宅地の除染は家の周り20mはばで土壌を表面から5㎝削り取り、新しい土を入れる手作業続いている
20㌔~30㌔圏は放射能が0.26マイクロシーベルト以上の地域のみを除染、20㌔以内は無条件で除染
現在毎日8千人の除染作業員が作業中(手当=日当+危険手当1万円)

田畑の除染作業
同じく表面5㎝のみ削り、新しい土を入れる(機械作業)
このハイドの中間置き場(30年間保管)が16キロヘクタール、東京ドーム400ケ分の広さ
現在現初の廃炉作業のため、毎日7000人が動員
その効果は疑問、現在すでに18歳未満のものに放射能被害者がでている

現在避難命令区域の住民に精神的苦痛の補償として1人 1ケ月 10万円が支払われている(子供含む)

原町地区では7月1日に避難解除の予定 しかしもとの住民の1割程度の帰郷予定のみ
結果は5~10年後には無人の町になる

ダダ広い被災地に、スーパーができ、仮設住宅ができ、そしてパチンコ店がオープンする
これが一つの典型


釜石地区
車で一時間走れば遠野地区
湾入り口の防波堤のおかげで9.3mの津波に半減 
明治29年 昭和8年 平成23年と3回の大津波の被害を受けている
今回の津波で市民1060人がなくなっているが、小中学生は2926人中5人のみ
これは群馬大学の岸田先生の提案で平成11年より毎年防災避難訓練のおかげ。
中学生が小学生を引率して集団避難した結果で、亡くなった5人は父母が生徒を自宅に連れ帰り個人非難したもの

震災の翌々年に大型スーパーのイオン回転により避難した人達の帰郷が早く街の復興は他の地域より早かった


高田市(奇跡の一本松)
地震の被害よりも津波の被害が大(15・1mの津波)
この地域は防波堤の過信で逃げなかった人、放送施設の崩壊で情報が伝わらなかった

 
80歳近い佐藤さんは長年自分の持ち山の小高い丘に津波の避難所を設け、通路も整備していた
結果、今回のつ津波で70人が避難、助かった
(絵本になった 写真上 表紙)

4つの教訓

◎ 津波の長さより高さ

◎ 津波の2度逃げ(2波が大きい)

◎ 川沿いに逃げない

◎ 津波のてんでら(自分の身は自分で守る)