くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

能面展 日本民家集落博物館(椎葉の民家)

2017-10-22 11:38:23 | 日本民家集落博物館ボランテ

今年の能面展は、堂島の米蔵から椎葉の民家のデイの囲炉裏の部屋で開催

色々と楽しい来館者との触れ合いがあった!!


万眉(まんび)


ご自分の部屋に飾りたいと中国・楊州に嫁入り


 作者とジさん  

大事にしてね


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第五話

2017-10-19 09:01:58 | はらだおさむ氏コーナー

あのひとたちのこと

 

  カストロが、逝った。

  毛沢東のときほどの痛哭感はないが、かれは、堀田善衛(『キューバ紀行』)を通じて、わたしのなかで息づいていた。

  堀田善衛がキューバに行ったのは、1964年の7月。

  あの「キューバ危機」の二年後のこと、メキシコシティでトランジットのとき、CIAと思しき連中に取り囲まれフラッシュの放射を浴びた由。

  このときカストロは、36歳。

  30万人の群衆を前に延々四時間の大演説をぶちあげたそうだが、後年

「さすがに閉口しました」と堀田は述懐している(『めぐりあいし人びと』)。

  堀田はこのときの視察で、キューバ経済の問題点として、サトウキビの単作農業にふれている。

 

  わたしはこの年の2月から4月にかけて北京に滞在していた。

  国交未回復のなか、輸入商談締結のための初訪中であった。

  3月ごろであったろうか、滞在の新僑飯店にキューバの民兵姿の少女たちが溢れた。半ズボンの、ムチムチした肢体は、得も言われぬ活気をホテル内に注いだが、彼女たちがいなくなるとホテルの売店に葉巻が山積みとなり、慣れぬ手つきで煙を吹かす人たちが増えた。 

  消息通の話によると、彼女たちはキューバ代表団に随行の歌舞団のメンバーで、葉巻はその置き土産。中国からの支援話もまとまったようだが、「自力更生」による産業多様化のアドバイスもあったらしい。

  その後半世紀、アメリカなどの経済封鎖のなか、キューバは独自の国づくりに成功、中南米諸国の先達となった。教育と医療の、全国民完全無料化は世界に冠たる制度の達成で、アメリカ国内で見放された「9.11」事件の

 後処理作業で被災・疾病した人たちの治療にも支援の手を差しのべている。

  アメリカは先ほどやっとキューバとの国交正常化を果たし、オバマ大統領のキューバ訪問も終えたが、後任のひとはこの措置を覆すかのような発言もされている。国としての措置をとかくするのは、いかがなものであろうか。

                                                                

  先年わたしは上海の武康路を散策していて、巴金故居の入り口が開いているのに気づいた。記念館になっていたのだ、もう閉館まじかで一階しか見学できなかったが、展示の写真のなかに井上靖との団らんのものもあった。

「敦煌」や「楼蘭」執筆のため、頻繁に中国を訪問していた井上は、61年巴金が中国作家代表団の団長として訪日時に面談して以来の友人であった。

  巴金は四川成都の封建地主の家庭出身だが、中学時代の「五四運動」で目覚めて上海・南京に遊学、1927年~29年にはフランスに留学、執筆活動を始める。1934年末から8か月ほど日本にも来て、日本語学習に取り組んでいる(これは、いままで知らなかった)。

  文革前には前述の61年を皮切りに連続三回、文革後も80,81,84年と三回、中国作家代表団の団長として訪日を繰り返しているが、文革中は「ブルジョワ作家」と糾弾されてこの家から追い出され、「牛小屋」で呻吟している(66~77)。

  わたしは文革後のかれの随想三部作『随想録』『探索集』『真話集』を日本で翻訳出版(石上韶・訳)の都度手にしたが、いま本棚の片隅から『真話集』を探し出し、感動を新たにしている。

  たとえば「六十二 私と読者」に、つぎのようなフレーズがある。

  ・・・「四人組」の上海の「書記」徐景賢はこう言ったそうである―「現在でもまだ巴金に手紙を出す者がいる。してみると批判がまだ不十分で、やつをこてんぱんに叩いていないに違いない」。実際は、一九六七年の十月初めから、私は各方面の手によって三、四年間「ひきまわし」に引っぱり出された。このため、まるまる数年間は手紙を一本も受け取らなかった。・・・

  やがて暗雲が晴れると、うちひしがれていた私も立ち上がった。全く思いがけないことだった。だが、山と積まれた手紙を前にして、私は手の出しようがなかった。十年の大災厄は、私の心にいやしがたい傷を残した。大言壮語してみても、奪い去られた健康は償えなかった。暖かい思いやりと切なる期待を寄せて下さる読者に対して、どんな答えの言葉が書けるというのだろう?

 

  「八十二 真実を語る その四」は、つぎのような一文で終わっている。

  「四人組」はついに退場した。

  彼らが、かくも早く失脚するとは、私は夢想だにしなかった。これは一つのすばらしい教訓だ。砂上の楼閣が堅固なはずはなく、うその上に築き上げた権力も長続きするはずはない。うそを聞きたがり、話したがる人間はいずれも懲罰を受けることになった。そして私も懲罰をのがれなかった。

 

  これらはいずれも81年から82年にかけて、香港『大公報』紙上に発表された。

 

  巴金が81年に提唱した「現代文学館」は、85年北京に「中国現代文学館」として実現した。

  しかし、かれが86年に建設を求めた「“文革”博物館」はまだ陽の目を見ていない。

  2005年10月 “無党派愛国民主人士”(「百度百科」)巴金は105歳の天寿を全うした。

 

  カストロと巴金 その一生の歩みは異なるが、敬して追憶する。

            

        (2016年12月8日 記)


日々(ひび)徒然(つれづれ) (2016.10.3)

2017-10-18 08:20:23 | はらだおさむ氏コーナー

隠 し 田 

  かくしだ(またはオンデンとも)の存在は、古来より支配者の苛酷な収奪に対応する庶民の抵抗を示すものであったが、発見されれば見せしめに厳罰が科せられた。しかし、江戸中期以降にもなると荒地の開墾や新田の開発などを奨励するため、有期の無上納や低額の献納策をとる領主も出現、新田開発が進行した。

 

  八十年代のはじめ、「改革開放」が称えられはじめた中国ではあったが、中央財政の三分の一以上は、上海からの上納金で支えられ、地元ではその住宅難、交通難などに対処するにも、鐚(びた)一文のカネもなかった。

  わたしは82年から対中投資諮詢の仕事をはじめ、頻繁に上海を訪問していた。市内を貫流する黄浦江は上流まで3千トンクラスの貨物船が往来するため橋が架けられず、対岸の浦東地区へは艀しか交通手段がなく、広大な未開発地が横たわっていた。

  当時の上海では、「都会戸籍」を持つ「上海市民」は旧市街地の数百万人のみで、操業を始めた宝山製鉄所のある「宝山県」ですら地元の住民は「農村戸籍」であった。非農業収入が80%以上になって、はじめて「県」から「区」

 となり、住民もはれて「都会戸籍」を持つ「上海市民」となる。いまでは長江下流に浮かぶ崇明島のみが上海での唯一の「県」で、他はすべて「区」(16)となった。

  88年の秋、上海で開催した「日中中小企業経済シンポジウム」のとき、見学に案内された「シンドラー・エレベーター」の工場は、「閔行分区」にあった。90年代初期に認知される「閔行経済開発区」の前身、上海の“隠し田”であった。

  後日、オールド・シャンハイ、むかしは城壁に囲まれていた南市区はのちに上海万博の会場にもなった黄浦江の対岸に「分区」を持っており、文革時の“屯田兵”は金山県に星光(イスクラ)工業区を形成していたことを知る。

 

  「6・4」のあと、どのような経緯でまとめられたのか、いまだ明らかにされていないが、上海市の関係者が中央に上申していた「浦東開発」が当事者の具申をはるかに上まわる内容になっていたー「国有地の有償譲渡」である。日本を含む西側諸国は、またまた大風呂敷をと冷笑したが、華僑・華商の琴線に触れるものがあった。

  土地の有償譲渡が国有地にとどまらず、農村の集団所有の「耕作地」まで

 その対象となるのに二年も要しなかった。虹橋空港に隣接する農村での合弁契約の手付け金に人民元(現金)を要求され、その入手に苦労したことを思い出す(外貨兌換券が廃止されたのは95年1月である)。

 

  あれから二十余年が経った。

  農村であった「県」に合弁企業を設立、採用した地元出身の従業員もいまや集団所有の農地を活用、マンションや商・工業団地への出資者となって左うちわのご身分であるが、それでもマイカーでご出勤。工場の片隅で雑談にふける。数年後の退職金と年金がたのしみの、ゴッドマザーたちである。

  “隠し田”が金の卵になったのか、政府主導のベースアップに“骨抜き”になったのか・・・。

  

  「衣食足りて、礼節を知る」⇔「衣食足りて、尚、礼節を知らず」(了)

 

                   (2016年9月28日 記)

 

  

 

 

 

 

 


日本民家集落博物館 能面展

2017-10-16 09:57:25 | 日本民家集落博物館ボランテ

能面展が始まった 10月14日~22日まで(16日休館日)

 

般若面 

 

作者も囲炉裏番

 

ハワイのマウイ島から来館のファミリー

 

ジャイカからの来館者 

スイスからの留学生も面をつけた

 

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第十一話

2017-10-02 13:30:22 | はらだおさむ氏コーナー

・・・ のてっぺん


 神戸新聞で連載中の小説『淳子のてっぺん』(唯川 恵作)が終わった。

 昨秋連載がはじまって間もなく、とわの世界に旅立った、女性初のエベレスト登頂、七大陸最高峰制覇の登山家・田部井淳子さんのお話である。小説としては、エベレスト登頂でクライマックスとなるが、五日にわたって書き連ねられたエピローグは、最晩年 ふるさと東北の被災者の子供たちを毎年富士登山に招聘するシーンをスケッチしている。

 「頂上に到着すると、待っていた子供たちとスタッフの拍手に迎えられた。

 ・・・ビリになっちゃたわね。どう、みんな楽しかった?・・・淳子と正之

は子供たちに囲まれた」

 この小説もすばらしいが、後ほど手にした彼女の遺作『再発!それでも わたしは山に登る』(文芸春秋社)は脳に転移したガンと闘いながら、登山、旅行、講演などを続ける彼女の日記風手記(2014年8月~2016年8月)である。末尾に夫・田部井政伸の追記がある。

 「目の前で息を引き取っていく妻の姿をみるのはショックでしたが、二度目のがんが見つかってから四年半という時間があったので、僕たち家族は“来るものが来たか”という気持ちでした」

 彼女はがんの治療を続けながら、亡くなる四か月前の2016年5月29日~6月3日「羽田発、北京経由で貴州省都の貴陽に入る。今回足の具合が悪く

サンダル履きのまま・・・、貴州大学で日本語教師をしている須崎孝子さんを訪ね、エベレストのトークをする」この中国行きも驚くが、その前後の日程を

見て息が詰まる。

 5月25日 A病院で抗がん剤の点滴。足の甲の両側が赤くなる。

5月27日 首都圏で避難生活を送っている被災者の方々と「みんなでつながろう~自然体験ハイキング」のため天覧山へ。

 

6月 3日 北京経由で羽田着。

6月 5日 佐渡へ。観光大使を引き受けていた関係で、昨年からの約束。

6月 6日 市長などから感謝され、一安堵。

6月 7日 始発のフェリーで東京へ。午後はA病院でCTの予約がある。

 

彼女は前掲日本語教師の須崎さんが上海の日系アパレル企業に勤務中何回か上海を訪問した由だが、それはおそらく90年代の後半のことであろう。現地日系企業の優秀なスタッフとして活躍されたであろう須崎さんが貴州大学の唯一の日本語教師として転職されるには、日系アパレル企業の中国からバングラディシュなどへの転出がある。

胡錦涛政権の、政府主導の労働者の賃上げがその背景にある。

 

2008年の北京五輪、2010年の上海万博の成功。

中国はいま、世界第二の大国として「一帯一路」を掲げて“驀進中”だが、そのスタートは90年4月の「浦東開発宣言」、その眼目は「土地所有権の有償譲渡」政策にあった、中国の“いま”はすべてここからはじまる、のである。

女性として、はじめて世界最高峰を極めた田部井淳子さんの人生と中国のいまにつながる歴史とを見比べるのはお門違いのようでもあるが、どうであろうか・・・。

まず80年代から90年はじめにかけての三代の上海市長。

汪道涵(81.4~85.7)

江沢民(85.7~88.4)

朱鎔基(88.4~91.4)

80年代前半 文革は終焉して鄧小平の「改革開放」は始まっていたが、汪道涵市長時代は“下放”から上海に帰郷してきた子弟の就職問題。親の勇退を鼓舞する国営企業の宣伝トラックの太鼓の音が街中に響いていた。いまの浦東地区に“隠し田”を設け、旧市区の工場移転を進めたのは彼の英断。

江沢民市長時代を振り返って、上海の老朋友は住宅と交通難に何の手も打たず、後々の人脈作りに精を出していただけ、とつぶやく。

中央もその後任として実務経験のある人物をと抜擢されたのが、当時国家経済委員会で活躍中の朱鎔基。かくして87年末、江沢民の後任市長候補として朱鎔基の上海入りが実現した。

そのころわたしは月の半分は上海に滞在、設立した合弁企業のフォローや新規商談で走り回っていた。

上海雀の話では、かれは第二党書記の肩書でバス会社を視察して改善を求め、房地産(土地家屋)管理局の担当者と懇談、市長就任(翌88年3月、上海市人代承認)後の実行打合せなど、問題解決の方向性が示されていたという。

84年から始めた私どもの住宅難の「改善事例」なども、ひとつのケーススタディとして取り上げられていたという。

89年のあの事件のとき、かれはテレビで市民と学生に話しかけ、自分の責任で軍隊は市内に入れない、バリケードを撤去し汚物を清掃、整頓してください

(旧市内は下水道が完備していなかった)と呼びかけた。

 かれの上海市長時代の功績として、住宅基金の積立制度の創設がある。

 これは後の国営企業の解体時の、住宅購入の資金となり、以後の住宅ブームのはしりとなる。

 90年4月の「浦東開発宣言」直後、かれはシンガポールに飛んでリー・

クワンユー首相と面談、帰路香港の実業家とも会って上海への投資を呼びかけた。

 91年4月 国務院副総理に就任(鄧小平の根回しがあった)

 94年1月 外貨兌換券の流通と使用の停止

 98年3月 5代目総理に就任(69歳、党内序列5位→3位)

       「目の前が地雷原であっても、万丈の深淵であっても、私は

        勇気をもって前進するのみ・・・」

 03年3月 引退。「その位にあらざれば、その政を相談せず」

  (青木俊一郎著『朱鎔基総理の時代』参照)

 

 組織のトップは、頂点に立つお山の大将、「・・・のてっぺん」に立つ人である。アメリカも、日本も、中国も・・・、意気軒高はいいが、ときには「・・・首を垂れる」謙虚さも欲しい。

 最後に、気になることをひとつ。

 中国の国有企業で最近定款の変更の動きがあり、企業内共産党委員会が「中心的役割を担う」と明記するようになってきているようだが、これって企業の発展にプラスになるのか。民営企業や外資企業との競争の中でこそ、企業の発展がみられるのではないか。ゴマすりの、仲良しクラブに正常な発展はみられない。

 山は、いつも天気晴朗ではないのである。

                (2017年8月31日 記)