ある“ざれことば”のこと
「ざれごと」は漢字では戯言と書くが、その意味はどうなるのか。
戯れ(たわむれ)、ふざけて言うことばになるのだろうか・・・。
あの事件のあと 90年代のはじめ。
中国で<「北京 愛国」「上海 出国」「広州 売国」>という言葉が流行っていた。
広州の「売国」はすこし説明がむつかしいが、この厳しい時期“密輸”もふくめ商売に明け暮れているさまに顰蹙、非難しているのだろうか。
あの事件のあと 90年4月。
李鵬総理は上海で「浦東開発」を宣言した。
橋も架かっていない黄浦江対岸の「浦東地区」の国有地を条件付き・有期限であるが、外資を含め「有償譲渡」(売却)するとのこと。
それまでの中国では考えもつかない画期的な政策決定であった。
あれから三十年がたった。
十年ひと昔というが、九十年代はその助走期間、外資導入・技術援助受入れの時期。労働集約型輸出・外貨獲得奨励の時期でもあった。
今世紀に入って08年の北京五輪、そして10年の上海万博の開催成功で内外ともにその「地力(じりき)」を証明、国際社会に打って出た。
2012年11月 習近平中共総書記に。「中国の夢」を語る。
2013年3月 習近平国家主席に。「一帯一路」政策を打ち出す。
2014年9月 少数民族へ「普通話(中国標準語)」教育の強制
月面探査車「玉兎2号」のパノラマカメラが撮った「嫦娥4号」の着陸船(新華社)
2019年1月 月探査機「嫦娥」4号 月の裏側に到着
2019年末 新コロナ 武漢市で発症、パンデミックに。
あの事件のあと 90年代のはじめ。
わたしの上海だけの見聞だが、日本総領事館の周辺を取り巻く上海の青年男女たちの長い列があった。これから大海原を乗り越えねばと、まなじりを決した子亀たちの長い、長い行列であった。
92年の留学生は6千人位と推定されているが、そのころはまだ改革開放がはじまったばかり、進軍ラッパを手にはっぱをかける鄧小平はパリ労学の体験者だがそこまでの余裕がなく、のちにバトンを引き継いだ江沢民は官費ソ連・東欧在留の経験はあるが見識を広める機会であったかどうか。まだ海外の「人材呼戻し政策」には着手していない。
95年1月 阪神淡路大震災で上海からの留学生衛紅さんが倒壊家屋で
圧死。5月 上海からの視察団を大阪港から神戸まで船で移動・案内して、三宮、元町、長田、鷹取の被災地区を視察。
そのころ外国との合弁・合作企業の増加につれ技術交流や商談で幹部の外国訪問の機会が多くなって来ていたが、留学生の帰国はまだそれほど多くはない。しかしその必要性は次第に高まり、上海ではベンチャー企業向け団地が建設され、視察したのもその頃であったと思う。
中央でも「海帰族」の優遇措置が検討されはじめたのもその頃であろう。それと共に「ひとりっ子」の高等教育の需要と受入れ大学などの教学レベルの向上もあり、今世紀に入ると帰国留学生の「質」が比較され、「海
待族」が問題になり始めている。
子亀の淘汰、海流に乗って行く先を自分で探さねばならない状況になってきている。それは新しい拠点つくりに励むことになるのかもしれない。
習近平の「中国の夢」は、阿片戦争以後中華人民共和国成立までの中国の、被侵略と屈辱の歴史を取り戻したいま、明代の永楽帝時代の鄭和により実行せしめた七次の大航海で東南アジアからインド、アフリカに至るところで朝貢国を増やしたその歴史に思いを馳せ、「一帯一路」で大中華圏をつくること、換言すれば「大中華帝国」を建設することである。それはすでにアフリカと中南米をその影響下におき、「一帯一路」の加盟・賛同国を増やしてきている。さらには、遠藤誉さんご指摘の「一空一天」にまで及ぶのかもしれない(『徒然中国』第四十七話ご参照)。
これは「ざれことば」ではない、ホントに考えねばならないことである。
(2020年11月12日 記)