くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十九話

2019-04-17 21:06:40 | はらだおさむ氏コーナー

 

 二月九日の朝 奄美の知人から届いたメールには次のような便りがあった。

               

奄美では、緋寒桜が咲き始めました。

場所によっては満開のところもあるようです。

今年は、気温変動が激しく夏日のようであったり、

冬に戻ったりと桜も困惑していると思います。

 

 この日 大阪は曇り、雪空のような気配もあったが、薄っすら降雪があったのはその翌朝であった。東京は朝から雪、最高温度は一度、札幌は四日から降り続いていて、この日の最高温度はマイナス五度、最低はマイナス十三度であったとか(いずれも「過去の天気情報」より)。

 『環境白書』によると、日本列島の緯度差はギリシャのアテネからノルウェーのオスロとほぼ同じだそうだから、札幌の積雪と奄美の緋寒桜の満開もありということか・・・。

 

 昨秋 所属コーラスの発表会(「日々徒然」23話、“歌う”ご参照)でわたしたちが歌った21曲のなかに、雪を題材にした歌が二曲あった。

 ひとつは♪雪やこんこ・・・♪ではじまる、おなじみ文部省唱歌(三善 晃

編曲『唱歌の四季』)の「雪」。男女四声(部分六声)の編曲で、バスの最後は♪コンコンコンコン・・・♪が六節続き、体に染みついた童謡からこの調べに慣れるまではひと苦労した。

 もうひとつは、吉野 弘作詞・高田三郎作曲の『心の四季』全七曲の六番目

「雪の日に」であった。

 この歌の練習が始まる前、先達から高田先生のつぎの解説文が手渡された。

 「日本の豪雪地帯の雪について、吉野さんは私に次のような話をされた。

『日本の中部、西部、南部の雪は《祝福》として降る。あたりをうっすらと雪化粧し、翌朝十時ごろには太陽の光を受けて溶け始め、昼ごろまでには消えていってしまう。

しかし、東北の雪は違う。

十一月半ば過ぎに降った雪は根雪となって残り、翌年の春までそのままである。そしてそれは、石炭の煙や車の跳ねる泥でたちまち汚くよごれていく。その汚れをかくそうとするかのようにまた雪が降ってくる(中略)。窓から見ても隣りの家も見えないほどの激しさで一日中降り続き、翌朝起きて見てもその激しさは全く衰えず、まるでおさえ切れない人間の精神のように激しく、その上へその上へと降り続けるのである(後略)』」。

若いとき、国内営業の関係でなんどか、例えば仙台から豪雪のなかを車での山越えとか、札樽街道の雪解けの交通渋滞なども経験したことはあるが、生まれてこの方、阪神間に居住、吉野先生のような豪雪地帯での生活感はない。

この歌の最後は、つぎのフレーズで終わる。

♪雪の上に雪が その上から雪が たとえようのない重さで 音もなく かさなってゆく かさねられてゆく かさなってゆく かさねられてゆく♪

作詞者のこの苦渋が、歌いこなせたかどうか自信がない。

 

中国へは初訪中の一九六四年から最近まで半世紀の間、二百数十回は出かけているが、長期滞在ははじめての北京のみ。このときは二月初めから四月下旬まで七十日ほど滞在した。八十年以降は出張ベースで平均一週間、一泊二日も

何回かある。

 六四年三月に北京で降雪があった。

 「瑞雪豊年又一春」という言葉があると教えてもらったが、バスが停滞、西郊外の機械公司まで大枚はたいてポーランド製のワルシャワ(ハイヤー)で駆け付けた記憶がある。

 七十年代の後半 何の仕事であったか忘れたが、公司の案内で雪の降りしきるなか青島から煙台まで幌付きジープで北上、山東半島を横断したことがある。途上、山小屋風のところで一泊したが、全員囲炉裏のそばで六〇度のパイチュウ(蒸留酒)をあふり、羽毛布団をかぶって寝たことを思い出す。

 九十年代の半ばから雲南省の、特に麗江に魅せられて三回以上訪問した。

 回を重ねるごとに観光客が増え、麗江がその魅力を褪せさせていったが、三回目だったか学友たちとの遊覧では霊峰玉龍雪山(五五九六m)へ足を延ばすことになった。途中までバス、四千五百m地点へはロープウエイ、そこからさらに三百メートルほどは登山可(酸素ボンベ携帯)であるが、わたしは四川省の九塞溝観光で高山病になった前歴があり、ロープウエイの終点に留まり酸素を吸入していた。香港やバンコクなどからの青年たちも多かったが、酸素も吸入せずに雪合戦して、救急所に担ぎ込まれる人たちも見かけた。

 九十年代の終わりごろか、浙江省の寧波で工場参観の後紹興に戻り一泊したことがある。いまのように新幹線であわただしく往来することもない、夕食の後ホテルのマッサージ室で旅の疲れを癒していた。ウトウトとしながらもマッサージ嬢の指先が止まったのに気づいた。彼女はテレビの画面を見つめている、「シャーシュエ(下雪)」とつぶやいた、テレビは北海道だろうか、雪の降り続くなかスキーを楽しむ人たちを映じていた。「はじめて雪の降るのを見たの?」と聞くと、頷く。浙江省は温暖だから雪は見たことがなかったのかと思ったが、地元出身のマッサージ嬢は少ない。それとなく聞くと、「チャンペイ(江北=江蘇省北部)」とか、寒くて空っ風は吹くが、雪は降らない、見たことがないと。おカネを貯めて北海道へ行ってみたい、いくら位で行けるかと真剣に問いかける。

 もう二十年は経つだろうが、雪の降るのを見るたびにこの光景を思い出す。

 北海道にも大勢押し掛ける中国の人たちのなかには、はじめて雪を手づかむ人たちも多いことであろう。

 いまも北日本は雪が降り続いているだろうが、奄美は緋寒桜が咲き誇っている。当地でも間もなく桜が咲き、北日本から雪解けの知らせが届くことだろう。

春よ、来い! 早く来い!  (二〇一九年二月十四日 記)

 

               (奄美 緋寒桜)(写真がありました)


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十八話

2019-04-14 14:52:07 | はらだおさむ氏コーナー

あのとき・・・

 

 平成が間もなく幕を閉じる。

 年初来その追想なり思い出がテレビやメディア各紙で報じられてきているが、わたしより七カ月早く生を享けられた現天皇を同世代の目から見れば、その生活環境は大いに異なるとはいえ、それらの報道にはなにか食い足りないものを感じる。

 一九四五年八月十五日の敗戦の「詔勅」で、「教科書を墨で塗りつぶさされたか」どうかはさておき、その“事実”を少年の心で受け止めとめて歴史は展開した。それは、一言でいえば、「戦争と平和」ということへの“思い”であったといえる。

 

 加藤陽子著『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社学術文庫、20187月刊)の

補章「象徴天皇の昭和・平成」につぎのような紹介がある。

 ・・・皇太子が東京に戻れたのは、同年(一九四五)十一月七日のことで、帰京した

 皇太子の目に映じたのは、東京の焼け野原であった。八二年の記者会見で、この時の

 ことを次のように回想している。

    東京に戻ってきたとき、まず、びっくりしたのは、何もないということ

    ですね。建物が全然ない。原宿の駅に。周りに何もなかった。これが

    いちばん印象に残っています。        (同書P428)

 

  加藤先生はまた、つぎの「おことば」を紹介されている。

    終戦以来既に七〇年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払わ

れた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に

支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、

この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に

尽きることがありません。

  (二〇一五年八月十五日 全国戦没者追悼式、同書P426)

 

  今回の「ご退位」に関連して、メディアで全く触れられていないのが九二

 年十月の「天皇訪中」(「日中国交正常化二十周年記念」)であるが、それを述べる前に改革開放後の中国のことを少しおさらいしておきたい。

  七六年九月毛主席逝去、同十月「四人組」逮捕をうけて翌七七年以降鄧小  

 平のリーダーシップによる「改革開放」の道を歩み始める。七八年八月「日

 中平和友好条約締結」、同十月鄧小平副総理来日、十一月中共11期3中総「現代化建設の戦略方針」決定、七九年一月米中国交正常化、「窓を開ければ蠅が・・・」など「網戸論争」を経て八〇年五月 深圳など「四つの経済特区設置」が決定された。

  わたしは八二年六月「大阪・上海経済交流協会」を設立、主に上海との経済交流を開始、八四年一月 日中合弁の第一号製造企業が誕生した。以後上海市人民政府の、主に外事弁公室のご指導とご支援をいただいて業務を拡大してきたが、とりわけ九〇年四月に発表された「浦東開発計画」は今日の中国経済発展の烽火であり、忘れることは出来ない。

  日本における「六〇年安保」後の「所得倍増政策」と同一視すべきではないが、前年六月の北京の事件後、中国を取り巻く世界の“経済封鎖”のなかで発表されたこの「浦東開発計画」に対し、世界の目は厳しかった。

  四月の李鵬総理の発表後、朱鎔基上海市長は即シンガポールに飛んでリー・クアンユ―首相と面談、帰路香港で華商に協力を要請された。五月にはわたしどもは上海からの来訪を受けて、大阪と上海での浦東開発セミナーの開催を決定、九月には浦東開発視察団を上海に派遣した。いまの浦東空港の滑走路の下はまだ長江下流域の浅瀬で、そのすすきの土手をマイクロバスで走ったことを思い出す。

 

  八九年一月 昭和天皇崩御、皇太子昭仁親王即位、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い・・・」、「平成」と改元される。九〇年六月 韓国の盧泰愚大統領来日、天皇表敬に対し「過去に、痛憤の念」を表明。「天皇訪中」が水面下で打診され始める、が、世界の「対中経済封鎖」の網の目はまだ綻びそうにない。 

 

  九〇年一月 ♪いい日旅立ち♪を合唱して開業した上海の日本料理店は厳しい環境でのスタートであったが、九二年二月 鄧小平の南巡講話で動き出した中国経済の活性化で軌道に乗り、“事件”後凍結されていた対中ODAも宮沢内閣の“新基準”により再開された。「天皇訪中」が実現に向け進み始めた、が、自民党内部でも反対や慎重派の抵抗があり、最後は宮沢首相の決断で中国側と日程の調整が始まる。

 

天皇は「象徴」であり、訪中の感慨は外部には漏れてこない。あるのは訪中初日の、歓迎晩餐会における「お言葉」だけである。

  「楊尚昆国家主席閣下、並びに御列席の皆様」で始まるこの「お言葉」には、幼少のころからの中国への憧憬や遣隋使、遣唐使の派遣・受け入れなども語られているが、「永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました」と父・昭和天皇の時代に思いを馳せ、「これは私の深く悲しみとするところであります」と述べられている。どこまでがご本人の言葉であり、役人の作文か不明であるが、語ったのはご本人である。以下未来志向への「お言葉」が続き、「両国民間の関係の進展を心から喜ばしく思うとともに、この良き関係がさらに不動のものとなることを望んでやみません」と語り終え、杯を掲げて答礼のお言葉を終えられた。

  中国滞在は十月二三日から二八日までの五泊六日、北京~西安~上海の旅は観光・視察・交流と密度の濃いものであった。

  上海で天皇・皇后の通訳・アテンドを担当した外事弁公室の友人たちは、おふたりの人柄に感動、しばらくは握手した手に触れさせてくれなかった。

 そのころ上海はまだ電力不足でバンドは夜十時で消灯されていたが、このとき終夜歓迎の灯火が瞬き、以後今日までその夜景は上海観光の一大スポットになっている。

  

  最後に「靖国」のことをすこし。

  昭和天皇は在位中 数年ごとに八回参拝されている由だが、七五年十一月の参拝を最後に赴かれていない。元宮内庁長官冨田朝彦氏のいわゆる「富田メモ」によると、七八年の靖国神社松平永芳宮司によるA級戦犯十四名の合祀(顕彰)に対し、昭和天皇は不快感を示されたという(ウイキペディア)。

  現天皇も靖国へは行かれていないが、父昭和天皇と同じお気持であったかどうかは明らかでない。

 

   平成がまもなく幕を閉じる。

  老齢化に伴い、憲法で示され「受託」してきた「象徴」としての天皇の役割をもう果たすことが出来ないと、自ら表明・標榜されて退位されることになった。いろいろと忖度、穿った考えも仄聞するが、同世代のわたしは七十歳で現役を引退した。素直に、ごくろうさま、お疲れさまでしたと申し上げたい。

                     (二〇一九年一月十五日 記)

 

 PS 本文執筆に際し、上掲の加藤陽子著『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社学術文庫、20187月刊)のほかに、『憲法サバイバル―「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談』(ちくま新書編集部編、20174月刊)も読みました。


青春18きっぷの旅 四国 高松

2019-04-10 09:45:38 | 旅行

 栗 林 公 園

16世紀後半に豪族・佐藤氏により築庭される

1625年讃岐国領主・生駒高俊公が紫雲山を背景に造営され現在の原形が作られた

1642年生駒氏に代わり入封した初代藩主・松平頼重公に引き継がれ

明治維新に到る228年間、松平家11代の下屋敷として使用された

明治8年県立公園、昭和28年「特別名勝」に指定

入館料(410円)

桜は満開

前回の訪問では和船に乗れなかったので今回の目的は乗船すること

掬月亭のある南湖を30分かけてめぐります(乗船料610円)

紫雲山を借景に庭園が広がります

 

後方の建物は掬月亭

根上五葉松

今回の青春18きっぷの旅は、1日を有効に使い40年前に住んでいた高松市内の変貌を

当然と思いながら「あずまや」(当時よく通った喫茶店・コーヒー・紅茶以外に

クリームあんみつやケーキ、そしてうどんもある喫茶店でした)

に立ち寄りたかったのですが、2月に閉店されて残念!

 

 

 


徒然(つれづれ) 第二十七話

2019-04-09 13:58:28 | はらだおさむ氏コーナー

初 一 念

 

  いま書棚からやっと探し出した、平山郁夫画伯の画文集『西から東にかけ 

 て』(中公文庫、1991年11月刊)を眺めはじめている。

  付表年譜によると、この15年前に本書は中央公論社から出版され同年6   

 月「シルクロード展」により第8回日本芸術大賞を受賞されているが、中国へは翌77年招待を受け初訪中、チベットにて「西蔵布達拉宮」を描き院展に出展、その翌年から堰を切ったように画伯の訪中が続く。薬師寺の「大唐西域壁画」も高田好胤元管主(法相宗管長)の要望を受け、20余年の歳月をかけ完成されたものである。

  平山画伯は15歳のとき広島で被爆、まさに地獄を見たその体験と後遺症に悩まされながら中国の僧玄奘三蔵法師の旅路に心を寄せ、描き続けた。

  「昭和六十一年(一九八六)九月の中国・西域南道の旅は、総計五千五百

キロに及ぶ行程となった」(“砂漠の波乗り”)、「中国の僧玄奘が、仏法の真理を求めて天竺に旅立ったのは、西暦六二九年のことである。唐の都長安からひたすら西に向かい、玉門関、天山南路を経てヒンドゥークシュ山脈を越え、はるばるインドにたどり着いた玄奘は、意に反して仏法がまさに滅びなんとしているのを目の当たりにし、地に体を伏して嘆く」(“玄奘古道”)。苦難十数年、玄奘が開いた法相宗はいま薬師寺につながり、玄奘三蔵求法の精神を描いた平山画伯の「大唐西域壁画」は同寺に奉納され、春秋二回公開されている。

 

 近鉄西ノ京駅に降り立ったのは、あのとき、平山画伯の「大唐西域壁画」奉納の式典参列のとき以来だから、もう十数年の歳月が流れている。

 あのとき東塔はまだ解体修理前で、その律動的な美しさでこの式典を見守っていた。

 そのあとであっただろう、2001年8月の夜 玄奘三蔵院伽藍前で催された喜多郎のライブは、テレビで観た記憶がある。

CDを取り出しイヤホンをあてる。

イントロは薬師寺僧侶の読経ではじまった・・・、そしてお馴染みのシルクロードのメロディなどを耳にしながら、九十年代の後半、友人たちと回った西域の旅の思い出が脳裏を走る。

 

薬師寺から唐招提寺への道のりは前回に比し往来の車の多さに悩まされ、思うように足が進まない。同行の友人たちの計らいで、目についた食堂での小憩となる。

わたしは唐招提寺へは今回で三度目だが、最初は承前の平山画伯の式典の後―その時はまだ金堂の解体修理工事は始まっていなかった。

すでに夕刻近くで、金堂には入れずその裏手辺りをさまよった。なにか畑のようなところにわたしの背丈より少し高い、細い木に紙札がついているのに目が留まった。「趙紫陽総理拝観記念云々」の文字、そのときは何気なく、あぁそうなんだ、来日時に趙さんも拝観されたんだ、としか思わなかったが、帰宅後あの事件で失脚した元総理の拝観記念の植樹がそこにあった、そのことが何か気にかかり、その翌年だったか斑鳩の里見学後、再度唐招提寺に足を運んだ。すでに金堂の解体工事が始まっていて、入門は出来なかった。

  それから十余年 中国との仕事も終え、ときおり友人たちと顏を合わしては昔日のことに触れる機会があり、たまたまわたしの心残りの唐招提寺再訪話に地元在住の友人が旗を振ってくれて、今回の集いとなった。その友人の知り合いの方が地元のボランティアガイドをされていて、趙紫陽元総理の拝観記念植樹は現存しているという。

 

  小憩時のこの話で一躍足も軽く、唐招提寺の境内に入る。

  地元の友人は先ず懸案事項を最優先にと一行をその記念植樹先へと案内する、が、わたしの記憶とはどうも反対の金堂の右手の方への坂を登る。御影堂の東を土塀に沿って歩むことしばし、開山御廟への門をくぐると一直線の参道、両脇の一面ビロードのような苔が四囲を引き締める。

  御廟正面の献花台の右に、目指す瓊花(けいか)はあった。

  樹はひょろ長く、すでに3メートルほど、その横の石碑に「中華人民共和国首相 趙 紫陽閣下 手植瓊花」とある。

  確かにあった、が、わたしの記憶にある十数年前、畑のようなところにあった、あの記念植樹との乖離はどう説明できるか。

  ネットサーフィンの結果、中国揚州原産のこの木は、1963年(日中国交正常化の九年前、わたしの初訪中の一年前)中国仏教協会から鑑真和上遷化千二百年記念にと贈られたもの。その後御影堂供花園で栽培され、毎年4月末~5月上旬の開花時に特別公開されている、その苗木を趙総理は植樹されたのであろう。

因みに趙総理の訪日は国交正常化十周年の、1982年5月31日から6月5日の6日間とわかったが、唐招提寺の拝観日は未詳。鏡 清澄レポートによると趙総理他の中国要人の拝観は、鄧小平 国家副主席(1978年10月)、唐家璇 国務委員(2008年2月)、胡錦涛 国家主席(同5月)となっている。

  いま趙紫陽元総理の植樹が御廟正面のところにあるのは、参観時に気づかなかったが御廟の正面左右に刻字されている鑑真和上への弔文によるのではないかと思う。パソコンで見る写真ではその奉文は判読できないが、私見ではこの御廟の改修の際これが刻印され、その完成を以ってここに移植されたものとみたい。

 

  いまを去る60余年前の学生時代、前進座の「元禄忠臣蔵」を観たとき、河原崎長十郎扮する大石内蔵助が“初一念忘するるなかれ”と大音声を張り上げ、胸打たれた思い出がある。

  新しい年を迎えるにあたり、あらためて先人たちの不屈の精神に敬意を表したい。

               (2018年12月13日 記) 

                      

   

     満開時の瓊花@供花園 (写真がありました)

                      趙紫陽 供花記念碑 (写真がありました)