なぜか、WHOか?
街角から白いマスク姿が消えていった。
もう6月だ。
夏の日差しが照り返している。
これは2014年刊の小著『徒然中国』所載のレポート「サーズのころのことなど」の、文末の一節である(09年5月31日 記)。
当時第二次サーズと呼ばれたコロナウイルス6種のひとつ「マース」終焉間際の記録で、今回は7種目の新コロナウイルス、まだ適応薬の決定打がでていない。
もう5月に入ったが、延長された「東京五輪」も選手・チームの選別がおぼつかなく、夏の高校野球もふくめその開催が危惧されはじめている。
これは何もスポーツの世界だけではなく、文化・芸能のイベント取り消しや教育の分野などにも裾野をひろげ、テレビ分野でも取材・ロケなどに毀傷をきたしはじめている。
NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』や朝ドラの収録は、出演者とスタッフの数が多いのでといまは中断。『麒麟・・・』は原作がなく、脚本担当の池端俊策と前山洋一、岩本摩耶の三人で話をまとめられているようだが、後半の中心は、やはり本能寺に至る信長との対峙とその人間模様の描写になるのだろう。
ここまで書いてきて、前にたしか本能寺のことをこの「日々徒然」で記述した記憶がよみがえりスクロール。第一話に『信長焔上』と題して、藤田達生『謎とき本能寺の変』(講談社現代新書)記述の「信長包囲網」をつぎのように紹介していた。
=6月2日の「本能寺の変」の直接の下手人は、明智光秀であるが、信長に追放された義昭の「鞆幕府」とそれに繋がる毛利輝元、光秀と同盟の長宗我部元親、光秀の筆頭家老・斎藤利三の暗躍など、「信長包囲網」が形成されていた=
わたしはそこに信長台頭以前の弘治三年(一五五七)から、豊臣時代の天正一四年(一五八六)までの二九年間、在位にあった正親町(おおぎまち)天皇のことにふれておきたい。
父・後奈良天皇崩御のあと在位に就くが、手元不如意で即位礼が行えたのは三年後の永禄三年。当時京都を含む近畿圏を抑さえていたのは阿波の三好長慶であったが、三年後の即位礼に際しての拠出額は最低、信長などの新興勢力を上回る献金者は毛利元就と本願寺法主顕如のふたりであった。
天皇には、元号の制定(改元)・官位の授与・書状(綸旨)の発給・暦(太陰暦)の改正などの職務・権限があり、戦国大名は上京し、位階(栄典)の授与を享けることでその勢威を明らかにしようとしていた。
のちに京都を支配した信長は財政的に朝廷を援助しながら天皇の権威を利用、
再三にわたり「講和勅令」の発給を求めて勢力を拡大した。その最たるものが一番手こずった、石山本願寺との最後の和平交渉であったろう。
天皇は信長の再三の要望にも応じず、「天下布武」を掲げる安土城には向かおうとしない。
かしずく公家たちからもいろんな情報も入っていたことであろう。
信長に将軍のポストを剥奪され、追いやられた義昭の「鞆幕府」。それを支える毛利を中心とする「反信長」グループの動きと、・・・。
最近手にした小説に面白い記述があった、家村 耕『聖戦 本能寺』(文芸社刊@八〇〇円+税)。
光秀があのとき、在西陣の法華宗真門流本山・本隆寺八代目の、管主日岏の口利きで出会った、町衆の『ふくろう』と名乗る男。
二度目に坂本沖の屋形船で会食に応じたとき、『ふくろう』が話しかけてきた。
「二九日に信長は都、本能寺に入りまする。それも近習百名足らずで。
一日の夕刻、大茶会が催されまする。
正客は筑前博多の嶋井宗室で、相客は公家衆や町衆五十名余が招かれ、このわたくしもそのうちのひとりでありまする」(P172)
「寺に踏み込む前に、砲術の名手三人を呼び寄せた。
『信長の寝所は奥の御殿にある。・・・討ち入りが始まると信長自身、必ずや御殿正面に現れるだろう。その瞬間を狙うのじゃ』」(P188)左図は渡辺延一作(グーグル)
信長は、天皇から町衆までにも見放されていた、「驕る□□は久しからず」である。
本棚からさがしていた本が、やっとみつかった。
安藤次男ほか共著『光をはこぶものー変革期の詩人たち』(昭和26年9月刊@250円)。黄ばんだこの本は、あのときわたしの“聖書”であった。
おお 開花の月よ、変転の月よ、
雲のなかった五月よ、匕首で突き刺された六月よ、
わたしはけつして忘れまい、リラの花を、ばらの花を。
春がそのひだのなかに守ったものたちのことを。
(ルイ・アラゴン/安藤次男訳「リラとばら」)
パリが、ドイツ軍の占領下にあった第二次世界大戦のあのとき、シュールレア
リストの詩人ルイ・アラゴンは多くの人たちと一緒にアングラのレジスタンス活動をしていた。
今回の新コロナの、騒動の源は武漢にあった。
すでに鎮火したところも、いま燃えさかっているところ、火が付きはじめたところもある。
新コロナウイルスとのたたかいは、まだ先が見えない。
戦犯探しは、終結のあとでも遅くはない。
いまは勝ち抜くこと、生き抜くことが先決だ。
(二〇二〇年四月二七日 記)
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