石の上には・・・
これは、わたしの悪い習性とでもいうべきことか・・・。
はじめは一生懸命に取り組むのだが、すこしメドがたつとあきてくる。
十年ほど前に中国ビジネスの世界から離れたが、その半生を顧みてもそのことがいえるのかもしれない。
母の没後、七十の手習いではじめた“古文書”の学習歴を振りかえっても、その習性がみえる。
きっかけは母の歿百日法要のとき、次男で実家の仏壇にも無頓着であった
わたしがはじめて手にした過去帳には、嘉永年間の始祖の名前が記されていた。高校の先輩にあたる住職は、墓地にはいまは無縁仏になっているが、元禄年代のよく似た屋号の石碑もあるという。住職に、なにか関係する資料がありますかと尋ねると、あんなクチャクチャしたむかしの字が読めますか、という。
これがわたしの古文書学習の、事始めとなった。
“乍恐・・・”も読めないで、飛び込んだ「古文書初級講座」。
十名ほどの少人数であったが、テキストの村方文書を順番に黒板に書いてその是非を講評しあい、先生からその内容を含めて解説がある。2~3回はパスして過ごしたが、先生から「思い切ってルビコンの河を渉りなさい」と諭された。古代ローマ、カエサル(シーザー)の故事に繋がる―ホンマにやる気があるの・・・。恥をかいてナンボと、決意表明を求められたのである。
こどものころの、英単語暗記に使ったカードを買い求め、バスや電車のなかでもと暗記を始めたが、古文書は英単語と異なる。下手な筆順の字は、人によってさまざま、勧められるままにいろんな「辞典」も求めたが、まず辞書が引けない・・・と、一年が経ち二年が経つころ、同じような文言には前のノートを探し出し、あてずっぽうに字典をひっくりかえして不明箇所の□を埋めていく方法もわかってきた。しかし、いまでもクセのある字や読めないことも多々にある。
ある法事のとき、住職にそのような話をしたら、阪神・淡路の震災で倒壊した本堂の下から出てきたという板書のコピーが送られてきた。これがまた平仮名まじりの草書体の一文。観音像の由緒書のようであった。これは学友や先学に教えを請うて清書、お寺に届けて「クチャクチャしたむかしの字」もすこしは読めるようになったと当家にまつわる過去帳などの閲覧を求めたが、江戸時代から明治にかけての数次の水害でほとんどが失われているという・・・。同じ尼崎藩領の、神戸の王子動物園付近にも“原田の森”や原田町はあると聞いたが、戦災で焼失した当地の寺にもむかしの文書はなかった。
屋号の「袋屋」から、はじめは御女中などの袋物の商いを思い浮かべていたが、その後江戸時代の伊丹郷町に元禄時代「袋町」があったことを知り、これは「酒搾り」の袋、いまでも吟醸酒絞りに使用される「木綿の濾過布」の商いに関わるのではないか、と思いはじめている。
ちょうどそのころ、中学の同窓から豊中の「原田城跡保存会(現NPOとよなか・歴史と文化の会)」発足の話を聞き、会員になった。
豊中にはいまでも「原田」の町があり、岡町には「原田神社」、曽根には
「原田城跡」がある。この城跡の周辺に広大な「原田郷」七ヶ村(千五百石)があり、その中核が「原田村」であった。
こうなってくると「古文書講座」のテキストより、同村の「野口家文書」などの閲覧に興味がつのる。
いまではわたしの先祖は、この豊中の村から尼崎城下へ出稼ぎに出て、そのまま定住。尼崎の酒造に関わる「酒搾り」の袋の製造か、販売に関わる仕事に関わっていたのではないか、と勝手に思い込んでいる。
「石の上にも三年」という、ことばがある。
いま改めて電子辞書をひいてみると「(石の上でも三年続けてすわれば暖まるの意から)辛抱すれば必ず成功するという意」(広辞苑)とある。
だれでもが知っている慣用句だが、どうもわたしは暖まる三年が待てずにつぎからつぎへと手を伸ばして来たのかもしれない。
日中貿易のときも、つぎからつぎへと絵を描くばかりで果実を手にすることも少なかったが、その後の対中投資諮詢もブームになれば、厭きてくる。
これはもう、もって生まれた習性なんだろうが・・・いま「古文書」もすこし読めるようになると、「読むこと」よりもほかのことに関心が移る。「マイルーツ」探しは、もうジ・エンド。いまは、「原田村」から、住まいする宝塚のむかしの領主・飯野藩のことに関心が移ってきているが、そこへ、このところのコーラス。
なにもかもが、中途半端である、が、このままでジ・エンドということにはなれない。
これは、わたしの悪い習性とでもいうべきことか・・・。
はじめは一生懸命に取り組むのだが、すこしメドがたつとあきてくる。
十年ほど前に中国ビジネスの世界から離れたが、その半生を顧みてもそのことがいえるのかもしれない。
母の没後、七十の手習いではじめた“古文書”の学習歴を振りかえっても、その習性がみえる。
きっかけは母の歿百日法要のとき、次男で実家の仏壇にも無頓着であった
わたしがはじめて手にした過去帳には、嘉永年間の始祖の名前が記されていた。高校の先輩にあたる住職は、墓地にはいまは無縁仏になっているが、元禄年代のよく似た屋号の石碑もあるという。住職に、なにか関係する資料がありますかと尋ねると、あんなクチャクチャしたむかしの字が読めますか、という。
これがわたしの古文書学習の、事始めとなった。
“乍恐・・・”も読めないで、飛び込んだ「古文書初級講座」。
十名ほどの少人数であったが、テキストの村方文書を順番に黒板に書いてその是非を講評しあい、先生からその内容を含めて解説がある。2~3回はパスして過ごしたが、先生から「思い切ってルビコンの河を渉りなさい」と諭された。古代ローマ、カエサル(シーザー)の故事に繋がる―ホンマにやる気があるの・・・。恥をかいてナンボと、決意表明を求められたのである。
こどものころの、英単語暗記に使ったカードを買い求め、バスや電車のなかでもと暗記を始めたが、古文書は英単語と異なる。下手な筆順の字は、人によってさまざま、勧められるままにいろんな「辞典」も求めたが、まず辞書が引けない・・・と、一年が経ち二年が経つころ、同じような文言には前のノートを探し出し、あてずっぽうに字典をひっくりかえして不明箇所の□を埋めていく方法もわかってきた。しかし、いまでもクセのある字や読めないことも多々にある。
ある法事のとき、住職にそのような話をしたら、阪神・淡路の震災で倒壊した本堂の下から出てきたという板書のコピーが送られてきた。これがまた平仮名まじりの草書体の一文。観音像の由緒書のようであった。これは学友や先学に教えを請うて清書、お寺に届けて「クチャクチャしたむかしの字」もすこしは読めるようになったと当家にまつわる過去帳などの閲覧を求めたが、江戸時代から明治にかけての数次の水害でほとんどが失われているという・・・。同じ尼崎藩領の、神戸の王子動物園付近にも“原田の森”や原田町はあると聞いたが、戦災で焼失した当地の寺にもむかしの文書はなかった。
屋号の「袋屋」から、はじめは御女中などの袋物の商いを思い浮かべていたが、その後江戸時代の伊丹郷町に元禄時代「袋町」があったことを知り、これは「酒搾り」の袋、いまでも吟醸酒絞りに使用される「木綿の濾過布」の商いに関わるのではないか、と思いはじめている。
賎の女(しずのめ)や
袋あらひの 水の色
鬼貫
袋あらひの 水の色
鬼貫
ちょうどそのころ、中学の同窓から豊中の「原田城跡保存会(現NPOとよなか・歴史と文化の会)」発足の話を聞き、会員になった。
豊中にはいまでも「原田」の町があり、岡町には「原田神社」、曽根には
「原田城跡」がある。この城跡の周辺に広大な「原田郷」七ヶ村(千五百石)があり、その中核が「原田村」であった。
こうなってくると「古文書講座」のテキストより、同村の「野口家文書」などの閲覧に興味がつのる。
いまではわたしの先祖は、この豊中の村から尼崎城下へ出稼ぎに出て、そのまま定住。尼崎の酒造に関わる「酒搾り」の袋の製造か、販売に関わる仕事に関わっていたのではないか、と勝手に思い込んでいる。
「石の上にも三年」という、ことばがある。
いま改めて電子辞書をひいてみると「(石の上でも三年続けてすわれば暖まるの意から)辛抱すれば必ず成功するという意」(広辞苑)とある。
だれでもが知っている慣用句だが、どうもわたしは暖まる三年が待てずにつぎからつぎへと手を伸ばして来たのかもしれない。
日中貿易のときも、つぎからつぎへと絵を描くばかりで果実を手にすることも少なかったが、その後の対中投資諮詢もブームになれば、厭きてくる。
これはもう、もって生まれた習性なんだろうが・・・いま「古文書」もすこし読めるようになると、「読むこと」よりもほかのことに関心が移る。「マイルーツ」探しは、もうジ・エンド。いまは、「原田村」から、住まいする宝塚のむかしの領主・飯野藩のことに関心が移ってきているが、そこへ、このところのコーラス。
なにもかもが、中途半端である、が、このままでジ・エンドということにはなれない。
(2016年5月17日記)
徒然中国のNO98がUPできないので、困惑していたのですが、やっとできました
お待たせしました!!
遅ればせながら、はらだ様の名文をお読みくださいませ