くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十六話

2021-01-26 09:23:15 | はらだおさむ氏コーナー

この夏のむかぶ(向伏)すに・・・

                        

  七月になった。

  まだ雨雲は列島全土を厚く覆っているが、旬日も経ず真夏の太陽が顔を出してくることだろう。

  無観客だが、野球もサッカーもはじまった。

  エンゼルスの大谷選手は「We‘re back!(戻ってきたぞ!)」と喜びの声をあげ、マジョルカの日本代表MF久保建英(19)は連戦フル出場を果たして、ジダン監督などからその将来を大きく期待されてきている。

 

  ところで、この表題「むかぶ(向伏)す」とは何ぞや・・・。

  「向こう」「むかふ」でもいいのだが、少し気にそぐわず辞書を開くと、この言葉「向伏す(むかぶす)」が出てきた。

  万葉集巻五雑歌に「雨雲の向伏す極み・・・」があり、「向こうの方に遠く低く伏したように見える」さまを言うようだ。

  日本でのコロナ対策は手ぬるいのか・・・東京の患者増はまだ「向伏す極み」を見据えることが出来ない。

 

  先月末、上海在住数十年の友人から日本人の撮ったドキュメンタリー「好久不見、武漢(ハオチュープジエン、ウウハン)」の案内があった。

  観ること一時間余、以下はその返信である。

  「なんのケレン味もなく、若い方たちとの交流のなかで武漢の方たちのいまが映じられていて、素晴らしかったです」

  この時点で中国でのヒット数は一千万回を超え三位であったそうだが、数日後にはその倍を超えダントツ。

  わたしはその翌日からユーチューブで日本語字幕付きも見たが、初回のヒット数は数万、二日後にはその十倍を記録している(日中ともそのヒット数は6月末現在)。

 

  日本語字幕付きにはつぎのあいさつが付されていた。           「南京市に七年暮らす日本人ドキュメンタリー監督の竹内亮氏は『今は一分ほどのショート動画を好む人が多いのに、この約一時間の作品を見てくれる人はいるのだろうかと不安を感じながら、自身のドキュメンタリー新作<お久しぶりです、好久不見、武漢>の配信スタートを迎えた』と」

 なぜヒットしているのか!

 フィルムのなかで地元の住人が語るように、世界中の人でもう「武漢」を知らない人は、いなくなった!

 竹内さんは南京で社員十数人ほどのドキュメンタリー制作会社を経営しているが、六月一日武漢に出立するとき同行スタッフのなかで何人かは家族に行き先を伏せていたという。

中国の人でもそうなんだ、海鮮市場で?蝙蝠のウイルスが? その隠された?疑惑に包まれた?まち、武漢のいまを映像で伝える。

出発の一か月前から公募して百人以上の応募者から十人に絞り、一日ひとり一話として、インタビュアー役の竹内さんはヘヤ―カットして若づくり(三十代後半とわたしには見えた)、ときには泣かせながら心の奥底にひそむホンネをひきずりださせている。

一月末の武漢の高速道路、一日一日と交通量が減っていくドローンからの映像、これも二十代の女性の“まちとこころの探検家”の提供。

日本に留学八年、修士さまの「日本料理店」、四カ月ぶりの営業再開。仕入れに同行、「近代的な」“あの”海鮮市場を通り過ぎ、ここが発生源なんて千分の一もないと。夜 提灯に灯がともり、これから一年が勝負、一級調理師は給料カットで辞めた、武漢の飲食業の半分はダメだろうなぁと腹をくくるマスター。

地方から武漢に出てきた歌と踊りの好きな、まだ三年目の看護師(見習い?)。コロナまではいつ辞めようかとも思っていたらしいが、この騒ぎに巻き込まれて患者さんを慰める自分の役割に気づき・・・、そのひとの持病が悪化して死亡。泣き出す彼女、撮り続けるカメラ、撮るのを止めて~と哀願するそのシーン!

  田舎から出てきた友達と長江ほとりの黄鶴楼へ一緒に行く。

  エレベータは禁止で階段をフーフーと、上がる。             (わたしも三十年ほど前、近くの酒店から見上げた)            カメラは長江から、アングルはひとしきり周囲のマンションの屋上の緑のカーペット、家庭菜園をつぎつぎと映し続ける。日常の商品は注文すればマンションまで野菜でもなんでも運んでくれたのよ~、と。カメラを追っていた彼女たちはこんな言葉は知らないだろうが、“自力更生、刻苦奮闘”と心の中で叫びながら、家庭菜園造りに励んでいた老人たちもいたことであろうことよ。

 

  「故人西辞黄鶴楼」ではじまる李白の有名な詩がある。

  竹内実先生の訳文を付し、わたしも武漢と別れることにしよう。

  =わが友はここ、黄鶴楼でわかれを告げ、旅立つ。長江のながれのように、西から東への旅だ。燃えるように赤い桃の花が咲いている。かすみが、たなびいている。春三月、揚州へゆくのだ。孤独なひとり旅だ。友が乗った船もつれがなく、たった一艘で、帆をあげた。しだいに遠くなり、碧空あとは長江が天のはてまで、ながれている。=竹内実編著「岩波 漢詩紀行辞典」

 

  習近平政権は香港住民と国際世論も無視して「香港国家安全維持法」を成立させ、カバンの中の「香港独立」の紙を見つけては、学生たちを逮捕した。

  「透ける党内権力闘争」(6月25日「日経」朝・北京)、何があるのか分からないのが“政治の世界”、ことは中国だけではない、日本でも、アメリカでも・・・。

  いまやコロナ対策の失敗で、揺れ動くアメリカをはじめとする国々、コロナは抑え込んだが経済の立て直しに苦慮する欧州諸国。これからその旋風に巻き込まれそうな南米とアフリカの諸国・・・。

 

  コロナ騒ぎで在宅テレワークやズーム学習など聞きなれぬことばが紙面に定着、わたしはひと月ほどリモート合唱のとりこになっていた。

  日本語学校の先生をしているむかしの同僚と久しぶりにメール交歓。

  緊急事態宣言が解除されるまでは、ズームを使ってのリモート授業ばかりで、眼も疲れて医者通い。いまは在校生とは対面授業となっているが、新入生でまだ入国できぬ学生にはリモートの学習を続けている由。

  「ベトナムの学生が多いのですが・・・つながると、いろんな騒音に交じって、鶏の鳴き声が聞こえてきて、とてもローカルな感じがします」

  そうか、ベトナムの田舎からも日本留学を目指してがんばっている青年たちがいるのだと、こころが和む。

 

  この夏の向伏すは、いまだ定かには見通せないが、人類はこれまでも数々の悪疫と戦い、乗り越えてきた。その英知の結集こそがコロナ撃滅のみちのりとなるのだ!

 

  ・・・雨雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こしおす・・ (万葉集巻五雑)                  

                (二〇二〇年七月三日記)     


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十五話

2021-01-24 09:45:58 | はらだおさむ氏コーナー

三度目の敗戦?

                       

のっけから尾籠な話で恐縮の至りだが、駅前の図書館に飛び込んで

用を足し、そのまま手ぶらでハイサヨナラも気が引け、書棚をウロ

ウロ。手にしたのがこの本、堺屋太一『三度目の日本』(2019

年5月10日 初版第一刷祥伝社刊)であった。

 いつもの癖で目次をパラパラ、あとがきといくが、ない。

著者略歴のあとに昨年の2月8日、逝去―「本書が遺作となる」。

 わたしとは同年か一年後輩になるか、かれが通産省在職中の処女作『油断』以来の愛読者で、ご存知「大阪万博」や「沖縄海洋博」の企画・推進者でもあった。かれの『団塊の世代』は普通名詞にもなり、その世代は間もなく後期高齢者になる。大河ドラマにもなった『峠の群像』は、『忠臣蔵』を「赤穂の塩」を切り口にした新しいタイプの歴史小説、その近未来の中・短編小説集にも味わいがあった。

 この本の副題は、「幕末、敗戦、平成を越えて」とある。

 かれは昨年の二月に身罷っておられるからいまの新コロナ騒ぎはご存知ないが、そこは未来予告の大家、「はじめに~本当の危機がやってくる」で、「今、

日本人は三度目の『敗戦』状態にある」と書き出している。

 「私が考える『敗戦』とは、価値観が大きく変わることだ」と述べ、近代以降の日本は「すでに二度の敗戦を経験している。一度目は黒船がやってきて開国を強いられた江戸時代末期二度目太平洋戦争に敗れた一九四五年そして今、三度目を迎えようとしている」と予告、この新コロナを克服したあとの日本を天国から見つめられることだろう。

 

 わたしは母の死がきっかけで70から古文書の勉強をはじめ、医師の勧めで80からコーラスのグループに入った。

 先生にすれば呼吸器疾患常連のわたしにボイストレーニングでもと思って薦めていただいたのだろうが、その年の秋の発表会で同じリーダーのロシア民謡の合唱に魅せられ、それにも入団、以来二股の練習が続いている。

 この2~3年 さだまさしの歌に接する機会が多く、図書館で彼のエッセイ集も借り出して中年から熟年へのかれの言動にふれたが、長崎生まれの彼が

地元の平和集会にどれだけ力を注いできているかを知った。

  

最近発売のニューアルバム『存在理由~Raison de^tre』には、「さだまさしが想う『現在(いま)』」と副題が付されている。全十三曲 その最後の曲『ひと粒の麦~Moment~』は昨年アフガニスタンで非業の死を遂げられた中村哲医師を称え、偲ぶ歌である。

 

以下 その「ライナーノーツ」から、さだまさしの思いを拾い出してみる。

=2019年、僕が最も衝撃を受けたのはアフガニスタンに於ける中村哲医師の死だった。ナガサキピースミユージアム関連で講演をお願いしたことはあったが、残念ながら一度もお目にかかれぬままだった。中村医師の活動をとても尊敬していた。

=長いアフガン戦争で疲弊している国民は生活の為に兵士となり、労働として銃を撃つ。中村さんはその砂漠地帯に水を引き、農業を教えることで「生活のための戦争」を終結させ、銃を捨てさせられると考えた。それが「百の診療所より一本の用水路を」という言葉に示されている。

=僕は「風に立つライオン」を歌う度に中村さんを思った。

=中村さんは火野葦平の甥で、北九州の港湾荷役労働者の権利を守るために戦った正義の人、小説『花と龍』の主人公、玉井金五郎の孫でもある。僕の曾祖父が同じ時代に長崎の沖仲仕の権利を守るために尽力した大侠客であったことから、勝手に中村医師に親近感を抱いていた。

 

この歌『ひと粒の麦~Moment~』は、つぎのフレーズからはじまる。

♪ひと粒の麦を大地に蒔いたよ

 ジャラーラーバードの空は蒼く澄んで 

 踏まれ踏まれ続けていつかその麦は

 砂漠を緑に染めるだろう♪

 

 

堺屋太一さんは昨年 まだ平成の世の二月に逝去され、中村哲医師は令和元年の師走に衝撃の死を遂げられた。

新コロナのウイルスはそのころすでに武漢の街の片隅に潜んでいたかもしれない。

いま世界の果てまで毒牙は覆いつくそうとしているが、内に潜んで嵐を避けAI(人工知能)にたよった交流のなかで、経済は落ち込み、人権の無視と憎しみが増幅されようとしている。

やはり人間は手を取り合って、話し合い、歌い、踊ることで、お互いの感情と考えを理解することができる。

 

 6月8日の「日経」朝刊の19面は同紙の英文誌「ニッケイ・エイジアン リヴィユ」からの抜粋紹介欄だが、危ふく見過ごすところであった。

 メインタイトル「米中対立 ハイテク・香港で摩擦」の、その中段に「台湾の巨人板挟み」の見出し。

 半導体受託生産の世界最大手、台湾積体電路製造(TSMC)が、中国通信機器最大手・華為技術(ファ―ウエイ)からの新規受注を止めた、との記事。

 次いで「ファ―ウエイ、米制裁に対抗」として、重要部品 在庫積み増しと調達ル―トの多様化の動きを紹介している。

 

 日本はどうなのだろうか。

 強引な「定年延長」は、身から出た錆で審議未了、廃案に至ったが、なぜそのような法令改正案が上程されたのか、その仕組みと発案動機が解明、追及されていない。

 コロナ対策として予備費を積み上げるだけでは、智慧がない。

 

 堺屋太一先生は、天国から呟いておられる。

 「さて『第三の敗戦』がすぐ目の前に迫っている日本を、どう変えたらいいか」(P170)

 

 問われているのは わたしたちの『存在理由~Raison de^tre』である。

 

                (2020年6月9日 記)

 

      


「日々(ひび)徒然(つれづれ)」四十四話

2021-01-21 10:40:17 | はらだおさむ氏コーナー

あたらしい五月

      

  あたらしい五月は一本の電話からはじまった。

  それは所属コーラスからの連絡で、先生がユウチュウブで発声練習講座をはじめておられるので聴いて、練習してくださいとのこと。

  さっそくパソコンを開く。

  西尾岳史先生は『オペラ歌手のボイトレ』と題して、すでに4月20日~21日に四講座(⓵ハミング⓶リップロール③声の響く場所は?④母音のムラのない発声)を開講されていた。        

 ホームページを拝見すると先生もフェイスブックのメンバー。

わたしは昨春から入会の読者、先生に友だちになりたいと申込み、OKをいただく。ワンノブゼムだが、即座に情報が入る。

 5月5日 先生の独唱で宮沢賢治の♪雨にも負けず♪に続いて、先生の仲間の『オペラ歌手のリモート合唱』で九ちゃんの♪心の瞳♪や♪Amazing Grace♪が流れる。

  リモート合唱なんて、はじめて聴く。

  その仕組みはわからぬままトリコになって、それからはネットサーフィンの日が続く(発声練習はその後、第九講までは開かれているが、・・・)。

 

  FB仲間の大学の先生たちは、4月の新学期からリモート講義をはじめておられる。

わたしもわからぬままにズームをデスクトップに貼り付け、某新聞社の公開講座(90分・定員200名)に申し込んだが、のっけからパスワードに氏名・住所・生年月日・職業・役職云々などの記入が続く。職業欄に無職と正直に書くと、受け付けてもらえない。むかしの職業に元をつけてなんとかクリアしたが、当日はまた受付番号にパスワードとで、やっと司会者と講演者の顔が出てきてセミナーが始まった。

演半ば、というところから三回、主催者側のミスで映像が消え、長きは数分、なんじゃやいこれはと鼻白んだままこのセミナーは終わった。

数日後の15日、上海の華鐘諮詢公司(日系)のセミナーは日本時間午後2時30分から6時までの、四人の講師による休憩時間なしの大講演会。主催者側の報告によると参加リスナーは千二百名(在日70%強)、映像も音声もすばらしく、当方は適当にイヤホンを外して休憩したが、印象に残ったのは中国の新コロナ退治の主力はAIであったという言葉であった。

このAI(人工知能)ということば、さきほど読み終えた本(村山宏『中国

人口減少の真実』日経プレミアシリーズ)から我田引水して、説いてみる。

・・・AIの発達によって中国のリアルな日常生活まで監視されるようになった。都市部の街頭には「天網」と呼ばれる監視カメラが張り巡らされている。高画像のカメラとAIを組み合わせれば、都市の大勢の人混みのなかからでも人々の行動を簡単に監視できるようになる(リアルの世界もAIが監視)(P266~7)。

・・・数万人がいるスタジアムで撮った全景写真からでも、あらゆる人の顔の画像を鮮明に取り出せる。AIの力を借りて大量の顔データで検索、識別すれば、特定の目標を瞬時に見つけ出せる(2019年9月22日 新華社)。

 

中国の都市の街区や農村の地区には地元の共産党員で構成される居民委員

 会が必ずある。ふだんはやさしいおじさんやおばさんであるが、上意下達、党の命令指示には絶対服従のひとたち。今回の新コロナ撲滅には居民に自宅監禁を強いた。そのうえ中国の高校生以上は身分証明書(パスポートのようなもの)の常時携帯が義務付けられている。目をつけられたら蟻の穴に入っても見つけ出されるだろう。

 

  四月七日 七都道府県を対象に「緊急事態宣言」が発令された。

  この日は さだまさしの亡くなられたお母さんの誕生日であった。

  名曲「無縁坂」 いま聴いても胸に沁みる。

  ♪・・・忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめるような僕の母の人生♪

  昭和五十年の作品 さだまさしは、まだ23歳。

  そして三日後に、かれは68歳の誕生日を迎える。

  この「緊急事態宣言」発令を聞いて、かれの心はふるえエンピツを握りしめて、口に出てくることばを、メロディをメモしていた。

  友人や仲間が励まし、関係先を説き伏せて四月十日の夜 かれのバースデェイ記念としてユゥチュブで公表された。

  さだまさし♪緊急事態宣言の夜に♪

  フットつくった歌 残そうと思っていないというこの歌は、つぎのことばではじまる。

♪家を出るな 臆病になれ♪ そして病院の関係者、郵便配達員、宅配員などに感謝を述べ、子育て、老人、若者 みんな がんばれ!日本 がんばれ!と歌う。

 

  五月二五日 「緊急事態宣言」は全面解除された。

  まだコーラスの練習も、古文書の学習会や「おくのほそ道」の読書会なども“三密”の対象で、六月の開催はムリだろうが、わたしたちは強制されなくと

 も自主的判断力がある。

  

  その日 西尾先生たちもリモートのカルテットで、さだまさしの「いのちの理由(わけ)」をユーチューブで歌いつづけられていた。

  この曲は昨秋の地元の音楽祭で、わたしたちも暗譜で歌った。

  ユウチュウブでは、ピアニストも入れた五人の家族のアルバムがリズムのなかで流れでる。最後はつぎのフレーズとなる。

  ♪悲しみの海の向こうから 喜びが満ちてくるように

   私が生まれてきた訳は 愛しいあなたに出会うため

   私が生まれてきた訳は 愛しいあなたを護るため ♪ (ジ・エンド)

                    (2020年5月27日 記)


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十三話

2021-01-19 15:03:22 | はらだおさむ氏コーナー

なぜか、WHOか?

     

   街角から白いマスク姿が消えていった。

   もう6月だ。

夏の日差しが照り返している。

                    

 これは2014年刊の小著『徒然中国』所載のレポート「サーズのころのことなど」の、文末の一節である(09年5月31日 記)。

 当時第二次サーズと呼ばれたコロナウイルス6種のひとつ「マース」終焉間際の記録で、今回は7種目の新コロナウイルス、まだ適応薬の決定打がでていない。

 もう5月に入ったが、延長された「東京五輪」も選手・チームの選別がおぼつかなく、夏の高校野球もふくめその開催が危惧されはじめている。

 これは何もスポーツの世界だけではなく、文化・芸能のイベント取り消しや教育の分野などにも裾野をひろげ、テレビ分野でも取材・ロケなどに毀傷をきたしはじめている。

 

 NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』や朝ドラの収録は、出演者とスタッフの数が多いのでといまは中断。『麒麟・・・』は原作がなく、脚本担当の池端俊策と前山洋一、岩本摩耶の三人で話をまとめられているようだが、後半の中心は、やはり本能寺に至る信長との対峙とその人間模様の描写になるのだろう。

 ここまで書いてきて、前にたしか本能寺のことをこの「日々徒然」で記述した記憶がよみがえりスクロール。第一話に『信長焔上』と題して、藤田達生『謎とき本能寺の変』(講談社現代新書)記述の「信長包囲網」をつぎのように紹介していた。

 =6月2日の「本能寺の変」の直接の下手人は、明智光秀であるが、信長に追放された義昭の「鞆幕府」とそれに繋がる毛利輝元、光秀と同盟の長宗我部元親、光秀の筆頭家老・斎藤利三の暗躍など、「信長包囲網」が形成されていた=

 

 わたしはそこに信長台頭以前の弘治三年(一五五七)から、豊臣時代の天正一四年(一五八六)までの二九年間、在位にあった正親町(おおぎまち)天皇のことにふれておきたい。

 父・後奈良天皇崩御のあと在位に就くが、手元不如意で即位礼が行えたのは三年後の永禄三年。当時京都を含む近畿圏を抑さえていたのは阿波の三好長慶であったが、三年後の即位礼に際しての拠出額は最低、信長などの新興勢力を上回る献金者は毛利元就と本願寺法主顕如のふたりであった。

天皇には、元号の制定(改元)・官位の授与・書状(綸旨)の発給・暦(太陰暦)の改正などの職務・権限があり、戦国大名は上京し、位階(栄典)の授与を享けることでその勢威を明らかにしようとしていた。

のちに京都を支配した信長は財政的に朝廷を援助しながら天皇の権威を利用、

再三にわたり「講和勅令」の発給を求めて勢力を拡大した。その最たるものが一番手こずった、石山本願寺との最後の和平交渉であったろう。

 天皇は信長の再三の要望にも応じず、「天下布武」を掲げる安土城には向かおうとしない。

 かしずく公家たちからもいろんな情報も入っていたことであろう。

 信長に将軍のポストを剥奪され、追いやられた義昭の「鞆幕府」。それを支える毛利を中心とする「反信長」グループの動きと、・・・。

 

 最近手にした小説に面白い記述があった、家村 耕『聖戦 本能寺』(文芸社刊@八〇〇円+税)。

 光秀があのとき、在西陣の法華宗真門流本山・本隆寺八代目の、管主日岏の口利きで出会った、町衆の『ふくろう』と名乗る男。

二度目に坂本沖の屋形船で会食に応じたとき、『ふくろう』が話しかけてきた。

 「二九日に信長は都、本能寺に入りまする。それも近習百名足らずで。

  一日の夕刻、大茶会が催されまする。

  正客は筑前博多の嶋井宗室で、相客は公家衆や町衆五十名余が招かれ、このわたくしもそのうちのひとりでありまする」(P172)

 

「寺に踏み込む前に、砲術の名手三人を呼び寄せた。

 『信長の寝所は奥の御殿にある。・・・討ち入りが始まると信長自身、必ずや御殿正面に現れるだろう。その瞬間を狙うのじゃ』」(P188)左図は渡辺延一作(グーグル)

 

 信長は、天皇から町衆までにも見放されていた、「驕る□□は久しからず」である。

 

 

 本棚からさがしていた本が、やっとみつかった。

 安藤次男ほか共著『光をはこぶものー変革期の詩人たち』(昭和26年9月刊@250円)。黄ばんだこの本は、あのときわたしの“聖書”であった。

  

  おお 開花の月よ、変転の月よ、

  雲のなかった五月よ、匕首で突き刺された六月よ、

  わたしはけつして忘れまい、リラの花を、ばらの花を。

  春がそのひだのなかに守ったものたちのことを。

         (ルイ・アラゴン/安藤次男訳「リラとばら」)

 

 パリが、ドイツ軍の占領下にあった第二次世界大戦のあのとき、シュールレア

リストの詩人ルイ・アラゴンは多くの人たちと一緒にアングラのレジスタンス活動をしていた。

 

 

 今回の新コロナの、騒動の源は武漢にあった。

 すでに鎮火したところも、いま燃えさかっているところ、火が付きはじめたところもある。

 

 新コロナウイルスとのたたかいは、まだ先が見えない。

 戦犯探しは、終結のあとでも遅くはない。

 いまは勝ち抜くこと、生き抜くことが先決だ。

                   (二〇二〇年四月二七日 記)

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十二話

2021-01-07 16:29:41 | はらだおさむ氏コーナー

生かされて、生きる

      

 外出自粛が続いて、週二回整形リハビリに出かけるだけになった。

二日ほどはユ・チュウブで辻井伸行、加古隆、レ・フレールのピアノを聴き続けてみたが、それも疲れた。

 思い立って、二階の書棚を見つめる。

 並んでいる書冊は基本的には手に取ったはずだが、表題だけではほとんど内容は思い出せない。

 文庫本の棚から、つぎの三冊を取り出した。

 辰巳浜子『料理歳時記』(中央文庫)、平山郁夫『生かされて、生きる』(角川文庫)、安藤次男『古美術の目』(ちくま学芸文庫)。

 

 『料理歳時記』(昭和五十二年七月四版)

 なぜか、これが一番黄ばんでいる。

 裏表紙には、こう記されている。

 「いまや、まったく忘れようとしている昔ながらの食べものの知恵、お惣菜のコツを、およそ四〇〇種の材料をとりあげて四季をおってあますところなく記した、いわば“おふくろの味”総集編」

 あとがきを見ると、昭和37年から43年の七年間毎月『婦人公論』に連載、娘やお嫁さん、お手伝いさん、お友達などからガリ版でもよいからまとめてほしい、との念願がかなって、五年後「どうやら一冊の本にまとめ上がりました」。

 目次には春夏秋冬、四季折々の食材を使っての料理が満載されているが、あまり口にしたことはない。どうもこの本の黄ばみ方から見て、これは古書展などで手にして・・・戦中・戦後の食糧難の折、六人の子供を育てたおふくろの味を思い出そうとしていたのか・・・。 

 『生かされて、生きる』(平成十二年五月六版) 

これは第二部として司馬遼太郎との対談「日本文化のこころ」が掲載されていて、かなり記憶が残っている。のちに述べる。

 『古美術の目』(二〇〇一年八月初版)

 詩人安藤次男との出会いは学生時代手にしたルイ・アラゴンの訳詞が最初、以後かれの詩集や蕪村などの俳論集は書棚のどこかにあるはずだが、いまこの本に食指が伸びたのは、さて、どんな話だっけ、ということか。

 98/99頁に栞が挟んである。

 「真贋」というエッセイの数頁目、まだあと八頁ほど続く

 蕪村の俳仙画をめぐるその「真贋」のおはなしのよう、はじめから読み直すことにする。

(上図は逸翁美術館蔵)                   

真蹟を版下にして模写し、それを版木に彫る、江戸時代の印刷工程のどこで「真」「贋」の鑑定がなされるか、というムツカシイおはなし。蕪村について一家言のある安藤は「勘と経験にたよった真贋の極めというものを、私は嫌いである」と書いている。

 本文は『芸術新潮』(昭和四十五年十二月号)に「蕪村の俳仙図」と題して発表されたもの。

『生かされて、生きる』

 平山郁夫画伯は、わたしより四歳の年長者。

 15歳(旧制中学三年)広島市内で勤労動員中、被爆された。

わたしは国民学校五年の夏、縁故疎開中で教科書を墨で塗りつぶしていた。

わたしが画伯の作品に心惹かれるのは、井上靖の小説(「天平の甍」、「楼蘭」、「敦煌」)などよりずっとのちになるが、同じく西域に題材を求めても画伯には

求道のこころが貫かれている。

それはこの本のまえがきでも、つぎのように記されている。

 「私はもう一度この世に生を享けるとすれば・・・もう一度、玄奘三蔵のあとを追って仏教伝来の道を妻と二人で旅したい」

 わたしは一九五四年の春 第五福竜丸の水爆被災後平和運動に与し、のち国交未正常下の中国との「友好交流、友好貿易」に加わった。訪中は画伯より十年ほど早いが、憧れの敦煌など西域に足を入れたのは九十年代になってからである。

 画伯の生まれ故郷・生口島(現尾道市)を訪れたのはいつごろだったか。

まだ「しまなみ海道」(福山―今治)の橋が繋がっていないころ、同好の士数名とフェリーでまず無人島の「毒ガス島」へ。いまは安全性告知のため兎を放し飼いにしている・・・、が周辺海域では?大久野島(竹原市忠海町)の、その旧施設などを見学のあと、またフェリーで生口島へ。画伯の生家に展示の作品は、その何年かのちに訪問した佐川美術館(滋賀県守山市)よりは少なかったように思えた。

 先生は一九九二年から二〇〇八年まで、十六年の長きにわたって公益社団法人日本中国友好協会全国本部の会長職を全うされた。

わたしも参加した南京城壁保存修復協力事業は戦後五十年を記念する日中間の友好事業で、平山会長が先頭に立って98年までの三年間「レンガと友好を積み重ねた」。

あのレンガの重さは、さらにさかのぼるその歴史を教えていた。

 

 二階の机と書棚に、画伯の二枚の複製画(プリント)が鎮座している。

 ひとつは「日中友好協会会長 平山郁夫」の署名のある、A5大の額縁入り、

これは北京・故宮内のひとつの建物、大極殿、ではないか?と思うが、どうだろうか。

「日中国交正常化25周年 97年9月27日」との日付、あと二年でその五十周年を迎える。

 もひとつは、ガラス縁に挟まれた絵葉書大の、砂漠を行くラクダの隊列。

 「日中平和友好条約35周年記念表彰 公益社団法人日本中国友好協会」とある。調印は78年8月12日のこと、35周年を迎えたこの二〇一三年、三月の全人代で習近平国家主席、李克強総理が選出されている。

 

 この本の解説―平山郁夫の素顔―を書いた原 孝さんは、つぎのように締めくくっておられる。

 <「生かされて、生きているんですよ、私は」

平山さんがよく使うこの言葉に、氏の人生観が凝縮されている、と私は思う>。

 わたしには、まだそう言い切れない私がいる。

                                                                        (2020年4月4日 記)