くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

11月のまとめ

2017-11-28 09:39:34 | 日々の出来事

もう 11月も終わり

思い出しつつまとめます

いつもの木の下に今年もサフランが咲いた

 

豊中市菊花展

 

 豊中市菊花展

 

2ケ月に一度の『豊中ピカソ』展示

小面   と   霊女

すずなりの姫リンゴ 

姫てまりの展示

 

サロンでは歌の合唱

 

 

竹藪と江戸時代の民家(日本民家集落博物館)

 

白川郷の民家の紅葉(日本民家集落博物館))

 

英語レッスン(日本民家集落博物館)

久しぶりに先生夫妻と集合しました

 

植栽の手入れ(日本民家集落博物館)

「縁の下の力持ち」 ボランティアの皆様

 

可愛い来館者(日本民家集落博物館)

「花さかじいさん」の物語を再現して

「枯れ木に花を」と囲炉裏の灰を撒きました!!

 

 

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第十三話

2017-11-28 09:34:51 | はらだおさむ氏コーナー

ユメはいつ・・・

 

  むかし たしか♪ユメは夜開く・・・♪とかいう歌が流れていた、記憶があ 

 る。♪わたしの人生 くらかった♪とかいうフレーズもあったような・・・。

 

  先日 10年ほど前、某国立大学に吸収され、その外国学部になった母校の

 同窓会冊子が届いた。

  新卒者の入会が少なく、財源の食いつぶしを防ぐため何年か前から有料に

 なっている。同学の友人に聞いても、そのことにもあまり関心がなく卒業後

60余年もたつと交流の輪も狭くなってくる。

  いまはどうなっているのかわからないが、校歌は♪世界を囲めし戦雲よう

 やく晴れて・・・♪のフレーズで始まっていた。創学は第一次世界大戦後で

あるが、新制大学五期生のわたしたちにとってこの校歌は平和運動を支える

ものであった。朝鮮戦争はまだ終結しておらず、中国との国交正常化は卒業

後15年のちになる。

 縁あって日中友好貿易の戦列に加わり、64年に初訪中、72年の国交正

常化の瞬間、百貨店の“大中国展”催場でくす玉が割れ、来店者たちと手を

取り合って喝采、そして涙した。

 夢は頑張れば、実現する。

 

 83年から対中投資諮詢の仕事をはじめ、上海を中心に合弁企業の設立を

お手伝い。いまでもそのいくつかは操業を続けている。

 同窓会への短信に「訪仏は一度だが、訪中は二百数十回。いまでは中国語

部出身の友人が多い」と記したが、特に後半の「諮詢」の仕事は短期出張の

連続で何かと中国の友人のお世話になった。

 

 長い中国とのつきあいのなかで、忘れられないのは文革後半の中国の疲弊

であり、文革終結直後のデスペレートな人心の崩壊であった。特に毛沢東に

心酔、下放の僻地で青春を“無為”に過ごした青年たちの心境は、日本の戦

後の“予科練“崩れに通じるものがあった。

 契約商品の納期遅延で、強引に覗いた工場は荒れ放題、自動の機械は動い

ているが従業員は工場の片隅に三々五々と集まってタバコをくゆらし、談笑

している。オシャカが出ようが無頓着、工場長に詰問すると、「四人組」のせ

いと。怒り心頭のわたしは思わず、「江青がここに来て、オシャカをつくれと

命じたのか、毒されているのはあなたのアタマじゃないか」と声を荒げた。

 もうひとつ忘れられない思い出がある。

 夜行列車のコンパートメントで同室になった老学者との出会い。

 ふとしたことからパイチュウ(白酒)とウイスキーの差しつ差されつの、

英語と中国語のチャンポンの会話。国際的な地質学者の彼は文革中“牛小屋”

に隔離され、優秀な部下も失った。この窓の外の暗闇のなかで寝静まってい

る農民たちの幸せを願っての“革命”だというが、本当にこの国は幸せをも

たらすのか。人を傷つけ、人格の尊厳を無視するこの国に幸せな未来はある

のか、と涙する。

 70年代後半の、この二つの出来事はわたしの中国観の根底に横たわる。 

 

 「文革」を知らない世代は、いまの50歳以下の“一人っ子”の世代とな

るだろうが、高倉健が亡くなったとき、中国の報道官が50歳以上の人でか

れを知らない人は中国にはいないであろうとテレビで追悼したが、80年代

に彼の映画を通じてはじめて“外界”の生きざまを知った人たちは多い筈で

ある。

 

 “反党分子”として69年から7年間 延安の農村に下放していた習近平

に高倉健などの日本映画を観る機会があったかどうかわからないが、大学入

試がまだ再開されていなかった75年“労農兵学生”として清華大学の門を

くぐったかれは、同大学院にも席をおき(98~02)、法学博士を修得して

いる。

 以後 厦門副市長を振り出しに、福建、浙江省から上海市の党書記を経て

07年中央政治局入りを果たし、08年国家副主席(09末訪日、天皇を表

敬)、そして五年前の十月 中共総書記・軍事委員会主席に就任する。

 この年の11月 彼ははじめて「中国の夢」を語る。

 「誰しも理想や追い求めるもの、そして自らの夢がある。・・・私は中華

民族の偉大な復興の実現が、近代以降の中華民族のもっとも偉大な夢だと思

う。この夢には数世代の中国人の宿願が凝集され、中華民族と中国人民 一人

ひとりが共通して待ち望んでいる」

(2012年11月29日 中国国家博物館「復興の道」展視察時の発言)。

 

わたしは この「中国の夢」発言をはじめて耳にしたとき、明代の鄭和の大

航海を思い出し、同時にアヘン戦争以後の“屈辱の歴史”に思いを馳せた。

  それから五年が経った。

  「一帯一路」構想やアジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立後の動きはど

うか。

  前者は周辺地域・諸国と摩擦をおこし、特に海上での基地建設は問題がある。

  後者は鳴り物入りでスタートしたが、出資金の払い込みは低調で、設立二年

 のいま休眠状況にあるという。

  国内では「反汚職」に名を借りた国有企業の「党管理」が進み、「新文芸講

話」とか称して知識人への締め付けが始まっている。

 

 今年も私が所属のコーラスが、合唱祭で歌った『聞こえる』(岩間芳樹作詞、

新実徳英作曲)は、90年代はじめの世情を高校生の気持ちに託したものだが、

その出だしは次のフレーズではじまる。

 

 ♪鐘が鳴る 鳩が飛び立つ 広場を埋めた群衆の叫びが聞こえる・・・♪

 

 この句は 89年の「ルーマニア革命」の成功を伝えるものだが、ご存知の

「北京」から飛び火して、東欧社会主義国からソ連を含む社会主義圏の崩壊に

繋がる、そのほとばしりを伝えている。 

 中国はその翌年の浦東開発で「土地から金を産み」出し、いまの繁栄につな

がるのだが、そのきっかけを創った学生たちは「国外追放」、それを話すこと

はいまも「禁句」、「軟禁」「逮捕」の対象となる。

 「中国の夢」は二期目に入ったが、これからどうなるのだろうか・・・。

                  (2017年10月29日 記)

 

  


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第十二話

2017-11-16 09:13:02 | はらだおさむ氏コーナー

          ふたつの結末

 

 久しぶりに、映画館に足を運んだ。

 ちょうど三時間ほど時間が空く、映画を観るには適当な時間だ。

 仲代達矢の『海辺のリア』を見ることができた。

 

 髭面の老人がマントの裾を引きずりながら、海沿いの道を歩んでくる。

 かれの息遣いは、わたしたちにも伝わる。

 時おり後ろを振りかえり、それは追っ手を探っているかのようだ。

 どた靴を脱ぎ棄て、マントをひるがえして砂浜に下り、足をとられながら

波打ち際をヨタヨタと歩んでいく。

 

 「監督の小林政広からオリジナル脚本が届きました。読めば私が過去に喋ったような言葉があちこちに。だから主人公・桑畑兆吉の存在を借りて自己暴露した作品でもあります。兆吉は思い出はいらない、お客様の心の中で生きられれば幸せと言う。アラン・ドロンさんは『キャリアは終わった』と俳優を引退されましたね。私はどうでしょう――。キャリアが終わるとき人生も終わる、そうありたいですね」

 

 齢84歳、わたしより少し年長だが、かれの歩み、演じてきた芝居や映画には共鳴するものがある。

 この作品は認知症気味の元俳優が、娘夫婦の策に乗せられて閑静な施設に入れられ、そこから脱走するのが冒頭のシーンだが、娘婿はこの主人公に憧れて弟子入りし、いまではこの劇団の運営管理を任されている、という設定。施設から出て行って行方が知れぬ元師匠・義父の行方を探し求め・・・一度は連れ戻したが、また隙を見て逃げ出されてしまう。

 波打ち際で、かって演じた芝居のセリフを吟じながら、波に足元をすくわれ・・・ジ・エンド。

 

 もうひとつの映画といっても、時代劇専門チャンネルが製作した藤沢周平原作のオリジナル時代劇『果し合い』であるが、これにも仲代達矢は主演。

4月に開かれたテレビ界の国際的権威「ニューヨーク・フェスティバル」最高賞となる金賞を受賞している。

 「派手なチャンバラではなく、人間の心を描いた静かな作品。海外で認められるとは想像もしませんでしたから、受賞の報せに皆で喜びましたよ」 

 これは、江戸時代、老境の武士が若者のために果し合いに挑む物語だが、わたしはかってこの短編を病床で読んだとき、そのストーリーに心打たれた思い出がある。 

 この作品は、新潮文庫版では『時雨のあと』全七編に含まれる「掌編」である。

 「この作品集は、最も藤沢氏らしい味わいのある短編集である」と、藤田昌司さんはその解説で述べておられるが、わたしも同感である。

 

 ・・・「お掃除が終わったら、大叔父にお話があります。いいですか」と美也が言った。 

 「なんだね」

 「あとで・・・」と言って、美也ははたきを使いはじめた。はたきを使いながら、美也はちらちらと大叔父をみる。

 ―― 年をとった。

と思う。大叔父は、狭い濡れ縁に蹲って、菊をみている。

 

書き出しのこの数行で、姪の美也と大叔父のほほえましい、信頼関係が描きつくされている。

美也には縁談話が持ち込まれていたが、彼女にはひそかに言い交している人がいた。両親はこの「良縁」を迫るが、どう断るか、大叔父、ヘルプミという次第。

 

・・・大叔父が立ち止まった。立派な墓石の前だった。立派だが、新しくはない。墓石に記された戒名は女性のものだった。・・・「じつはその娘には、わしが婿に行く筈じゃった」「その話がすすんでいたときに、わしが馬鹿なことをしでかして、こういう身体になったもので、話は流れた」

 

大叔父のアドバイスで「良縁」は断ったが、その後も相手は付きまとい、悪友たちとグルになり取り囲まれていたそのとき、薄闇の中から、いきなりしわがれた声が怒鳴った。

「こら、何をしとるか、貴様ら」

男たちはぱっと美也の前から逃げた。

「お、大叔父」

 

それからしばらく経った夕刻 彼から手紙が届き、今夜果し合いを申し込まれた、「武門の意気地で、受けるしかない」・・・「運良く勝てば、今夜のうちに城下を抜け出す。・・・旅支度をして待つように」とあった。

「大叔父、起きてください」

・・・

「私も行きます」

「ばかめ! 女子供の出る幕ではないわ」

「ここで、じっと待っておれ」

・・・

「おじい様に助けられた。いや、みごとな剣さばきだった」

「相手は?」

「死んだ」

「わしが仕とめた」

「はじめに、わしは無用の果し合いはやめろと仲裁をしたのだ。だが、あの男はわしを見くびっておったらしくてな。悪口を吐いたうえに、わしに斬りかかりよった」

「放っておけば、こちらの若い者が危ない。やむを得ずけりをつけた」

 

この短篇の表の話は、以上抜粋の大叔父と姪の話になるが、琴線を奏でるのは

大叔父がいまでも墓詣でをする若き日の破れた恋の物語である。

 

 人生には、表もあれば裏もある、政治の世界もまた然りか・・・。

 

<追記> 

  この文庫本(平成十九年一月二十日 五十三刷)の表紙表の帯に、以下のような

 作者の言葉が本人の顔写真入りで刷り込まれている。いい言葉である。

    どういう訳か、キラキラ光っているものはきらいなんです。

    偉い人を偉いと書くのが面白くない。(中略)下積みの人の方が、

    より人間的な気持ちが感じられるのです。

 

 

(2017年9月29日 記)