乙女の舞
尼崎城天守閣が再建・一般公開されて九ヶ月が経った。
阪神尼崎駅から徒歩数分、武庫川の一支流・庄下川(かっては御濠)を渡った東にある。
四百年前 初代領主・戸田氏鉄がこの城を築いたころは、大阪城を主格に岸和田城と共に徳川幕府の西の構えの一角を演じて、西国街道を城で中断・迂回させ、南は海に面していた(「古地図で見る 阪神間の地名」大国正美編著)。
国道二号線を西に向かうと、これも武庫川の一支流の蓬川に出会う。
その東詰めを南下すること一区画、旧西国街道にかかる蓬川公園に出会う、その橋の袂の叢にひとつの句碑がある。
序の舞の まこと静けし 足袋きしむ 地朗
作者は「尼崎の芭蕉さん」とも呼ばれた母方の大叔父。
『尼崎市史』第三巻に「小学校の憶い出」と題した本人のスケッチが掲載さ
れ、そこには「琴城尋常小学校 明治二九年卒業生」とある。
第一次大戦後の軍縮で退役、書店を経営。謡、俳句に長じ、わたしの結婚式でも「よい趣味を持て」と訓示、すこし俳句の添削・指導を受けた。
米寿のとき ご夫婦で富士登山に挑み、踏破。晩年は俳画にもその才能を披歴、謡の訓育を受けた兄の話では、「人間 いくつになっても毎週松阪の牛肉を食すべし」であったとか。
その白寿の宴が宝塚のホテルで開催されたとき、妙齢?の着飾ったご婦人方に囲まれてご満悦の大叔父。「せんせぇ~、長寿の秘訣、教えてぇ~くださっぁい」「あんたらみたいなきれいな おなごし(女性衆)と、いっしょにおることや」で、ドット笑いの渦が巻きあがったが、わたしはあと50年もと、ゾっとした思い出がある。いまは、あと14年になったのだが・・・。
一九六四年二月はわたしの初訪中のとき。
一月にフランスが中国と国交回復(日本は八年後の七二年)、香港の羅湖から共に板橋を渡ったのは、大半がフランスからの友好訪中団であった。
その夜 広州での歓迎宴の後、大劇場で演じられたのは革命歌舞劇の「白毛女」。
わたしの両サイドはフランスの紳士淑女、彼らたちのブラボー!!に声を合わせ、手を叩いていたが・・・。
そのストーリー、貧農の娘は匪賊の手を逃れて深山の洞窟に潜み、(栄養不良のせいか)白髪になりながら、国民党軍の追撃に耐え、闘う。
そこへ解放軍の先兵がやってきて情報交換。
その進撃のラッパの音は、いまもわたしの耳朶を打つ。
タータタタ・・・タータタタ、そして、総攻撃!
地の利を知り尽くした「白毛女」の道案内で、国民党軍の本拠地を奇襲攻撃!ついに、大勝利を得る。
ブラボー!ブラボーと拍手の大波!!
オーボワール ムッシュ エ マダム、ボンニュイ!
このときは文革発動の二年前 まだ江青たち「四人組」の“暗躍”はなかっただろうが、この革命劇、のちには映画からバレーまで、その後十余年の中国の演劇界を牛耳る。
それから二十余年後 海南島が広東省から分離、省に昇格の前後、なにか?の会議で広州から海口(のちの省都)に飛び、それから中国のハワイ(緯度が同じくらいとか)三亜市へ向かうことになった。が・・・まだフライトはない。マイクロバスをチャーターして往路一泊二日の旅、途中どこか忘れたが、ある市の大きなロータリーに白毛女の像が立っているではないか!ガイドが地元の方から聞いてきて、告げた。「白毛女」は地元出身の英雄、実話であった。中国の解放後も海南島に居残っていた「国民党軍」を駆逐した、地元の“英雄”“女傑”であったらしい。文革が終結、「四人組」の“毒草”扱いされた「白毛女」だが、地元の英雄像は取り壊すことはできないと。
宿泊の温泉地には、印尼(インドネシア)華僑の集団宿舎があった。ガイドの説明では、スカルノ政権崩壊後亡命を余儀なくされたかれらの仮の宿とか。久しぶりの温泉の大浴場で、なぜか“風呂酔い”した。
三亜の白波は、当日は摂氏18度で水浴禁止。
ここは蘇東坡(号)・流刑の地。
宝塚の清荒神鉄斎美術館には、鉄斎が蘇東坡と誕生月日を同じくすると私淑、蘇軾(本名)にあやかった作品が多く蔵されている。
「天涯地果」へ行く海岸べりで、ヴェトナム製の菅笠を買う。
これを被って成田に着いた一行は、空港でどこの旅役者だとひやかされた。
これまでもなんどか肺炎で床に臥しているが、一昨年の誤嚥性肺炎では、はじめて三カ月の長期入院、最後の一か月はリハビリ病院で過ごした。
半月ほどたったころか、ひとりの看護師が夕食後少しお伺いしたいことがあり、という。きょうは昼勤です、プライベートなことと呟いて立ち去る。
私服姿で現れた彼女は、いきなり上海浦東空港での、トランジットのことを教えて欲しい、という。どうもわたしがその消息通とでも思ったのか、怪訝な面持ちのわたしに、彼女はスマホを取り出し、これ、二年前、京都八坂神社でのわたしたちの結婚式、と和服姿の美男美女を示す。主人は中国のひと、でも高校からニュージランドに留学、大学卒業後も日系現地企業に就職、二年前から大阪勤務となり、彼女との出会いとなる。お互いが一目惚れ、三カ月でゴールインした由。
昨夏は結婚休暇で主人と一緒に長江上流の主人の実家に半月滞在したが、今年は自分の休暇が五日しか取れず、主人が先に帰郷、あとを追っかけての一人旅。上海でのトランジットが心配で・・・という。
上海の浦東には二つの空港があり、すこし離れているので、出発前にカウンターでトランジットの行く先・機種などからどちらの空港になるかを調べておくこと。上海に到着後は、天候その他で出発時間の遅延・変更があるので、案内板をよく見ておくこと。空港カウンターには日本語の出来る係員もいる、なによりもあなたのスマホで、ご主人がサポートしてくれるじゃないかと云うと、彼女はそうかと頷き、微笑んだ。
退院時 彼女は既に旅立っていた、去年よりは短い滞在だが義父母との再会で、来年は孫を連れて一緒にね、とせがまれていたかも・・・。
わたしの晩酌は、奄美産黒糖焼酎「八千代」(25度)のお湯割り、サ トウキビが原料のすこし甘みのあるところがいい、いつも現地のなじみの店から六本単位で取り寄せる。昨今はこれで三カ月はもつが、数年前までは30度を月三本ペースで飲み干していた。
しかし 正月は、純米大吟醸で寿ぐ。
数年前から宝塚市の西谷地区(北部)の「山田錦」を酒米に、伊丹の小西酒造で醸造の「乙女の舞」(16度)で酒杯を上げることにしている。
地元限定販売の由だが、そのネーミングがいい、観劇のあとはこれで会食もいい、 「地産地消」の、宝塚らしい大吟醸酒である。
(@www.tca-pictures-net)
新年 好!(シンニエン ハオ!)
あけまして おめでとうございます
(2019年12月23日 記)
☆ 写真のUpが少々難ありですが、はらだ氏 申し訳ありません