「火付盗賊改方の女密偵・おまさが新宿(にいじゅく)の渡口(わたしぐち)へさしかかったのは、明け六つ(午前六時)ごろであったろう」
(『鬼平犯科帳6 狐火』)
新宿の渡しは、水戸街道の亀有と新宿を結んだ中川の渡し船。
密偵のおまさは下総の佐倉に住んでいた叔母の葬儀の帰り。
帰りは松戸の遠縁の者の家に一泊し、朝暗いうちに松戸を出発したらしい。
季節は梅雨明け。
東京都の梅雨明けは例年7月19日ごろ。2023年7月19日の夜明けは、東京都は日の出が4時39分、日の入りは18時55分とのこと。当時のことだから、矢切の渡しも夜明けとともに運行を開始したのだろう。松戸宿から矢切の渡しまで水戸街道で約3キロ、矢切の渡しを渡った柴又から新宿まで約3キロ。空が白み始める4時過ぎに親戚の家を出て、5時過ぎに柴又に着き、6時ごろ新宿に差し掛かったという感じだろうか。
亀有といえば『こちら亀有公園前派出所』の両さん、柴又といえば『男はつらいよ』の寅さんである。実はこの二人は、中川(『こち亀』の登場人物の名前でもある)をはさんでお隣さんである。
中途半端に東京にいたせいで、亀戸(かめいど)と亀有を混同していた時期があった。亀戸について調べたとき、噂に聞いた両さんのモニュメントがない。「おかしいぞ」と首をかしげたが、両さんが亀戸にいるわけがない。亀戸は総武線で江東区、亀有は常磐線で葛飾区。亀戸は『鬼平』の時代にはすでに本所向島の江戸ニュータウンだったが、亀有は下総国葛飾郡で、当時は完全に郊外である。
まあ、本所向島も、半七老人にいわせれば、幕末になっても獺(かわうそ)や狐や狸の出る鄙びた場所だったそうだ。
「むかしはここらに河獺(かわうそ)が出たそうですね」
「出ましたよ」と、老人はうなずいた。「河獺も出れば、狐も狸も出る。向島というと、誰でもすぐに芝居がかりに考えて清元か常磐津の出語りで、道行(みちゆき)や心中ばかり流行っていた粋(いき)な舞台のように思うんですが、実際はなかなかそうばかり行きません。夜なんぞはずいぶん薄気味の悪いところでしたよ」
(岡本綺堂『半七捕物帳 広重と河獺』)
本所に育った芥川も、死の直前のエッセイ『本所両国』で似たようなことをいっていた(本所七不思議の置いて堀や狐や狸の回想)。永井荷風も、終の地になった市川の町が、昔の向島を思い出させると語っている。亀有は本所向島よりさらに北東の郊外だった。
さて、佐倉に通じる成田街道を利用した諸藩は、参府のときは千住宿、帰城のときは船橋宿で一泊するのが決まりだったらしい。しかし佐倉藩の場合、中川下流の逆井の渡し(亀戸と小松川を結んだ中川の渡し。逆井は「さかい」。武蔵国と下総国の国境ということだろう。小松川は小松菜の名の由来)を利用すれば、江戸城までほぼ直進の最短ルートで50キロ弱。その日のうちに江戸城に到着することも可能だった。佐倉藩は幕府に対して再三コースの見直しを陳情したという。
成田街道に関する資料を読んでいて、はたと気がついた。なぜおまさは、わざわざ松戸の親戚の家に立ち寄ったのだろう? つまり、おまさは成田街道でなく水戸街道経由で帰ってきたことになる。
作者はさらりと一行で流しているだけだが、その松戸の親戚とは、ほど親しかったのだろうか。父親である元盗賊の鶴(たずがね)の忠助を早くに亡くしてからは、おまさは諸方の盗賊一味の引き込み役を務めていた。親戚付き合いが盛んだったようには見えない。
江戸幕府の関所や番所は、「入り鉄砲と出女」に厳しく目を光らせたというが、時代が下ると、中川番所のチェック体制は、形式的なものになっていたようだ。
銚子に荷揚げされた諸国からの廻米・干鰯をはじめとした物資は、利根川・江戸川を経由して、行徳川(新川・小名木川)で江戸に運び込まれた。江戸100万人の消費を支える物流の大動脈である。いちいち荷を開けさせて検査していたら大変なことになってしまう。
また江戸後期には、成田山詣でが盛んになり(成田講はミニ伊勢講のような位置づけだったらしい)、成田街道は庶民の身近な観光ルートになった。ソースが見つからないのだが、ピークには1年で100万人の参詣客があったというページも見かけた。これではいちいち取り調べをしていたら大変である。「中川は同じあいさつをして通し」と川柳に詠まれたように、中川番所の取り調べは形だけのものになっていた。
成田街道は本来は「佐倉街道」だったのだが、成田山詣でが盛んになったため、成田街道と呼ばれるようになった。鬼平の時代は、佐倉道が成田道といわれるようになって間もない頃である。この時代には成田詣も幕末ほどではなく、関所や番所もそれなりに機能していたのかもしれない。佐倉藩が望んだ逆井の渡しを経由するルートは、江戸城への最短コースで、警戒も厳しかった可能性はある。
つげ義春の『隣りの女』に、ヤミ米をトラックで運ぶアルバイトのエピソードがあるけれど、米を仕入れたのは佐倉周辺と思われるのに、帰りはおまさと同じ水戸街道ルートで帰ってきているのも興味深い。江戸城に直結する湾岸部の警察の検問は厳しく、内陸はそうでもなかったということか。今はおかみの御用に就いているとはいえ、密偵という闇の仕事のおまさは、この取り調べを嫌ったのかもしれない。
しかし作者は、たんにおまさに逆井の渡しを渡らせたくなかっただけではないかと私は思う。いや、逆井の渡しというより、おまさを船橋宿に泊まらせたくなかったのではないか。そのためには、松戸の遠縁の家にわざわざ立ち寄らせて一泊させ、水戸街道で帰って来させる必要があった。
成田山には男女二人連れでお参りしないほうがよいという巷説があったという。これも男女二人連れにお参りしては、男が船橋宿で遊ぶことができないため、男の都合からこうした言い伝えが生まれたようである。
船橋宿とはこんな場所である。
船橋宿といえば旅籠屋が抱えていた遊女が有名である。旅籠屋の遊女は、一般には食売女や飯盛女などと呼ばれ、旅人と一夜を共にしたわけだが、船橋宿の飯盛女は“八兵衛”の名称で知られていた。一説によると、彼女たちはべーべー言葉を使い、旅人に対し、しべー・しべー(四べー+四べー)で八べーとなったと言われている。しかし、「しべー」とはあまりにも直接的表現である。
十返舎一九の『諸国道中金の草鞋』の船橋宿では、
上総には 七兵衛景清あるやらん
爰(ここ)にしもふさ八兵衛めしもり
と詠まれている。
十返舎一九の『諸国道中金の草鞋』の船橋宿では、
上総には 七兵衛景清あるやらん
爰(ここ)にしもふさ八兵衛めしもり
と詠まれている。
落語の「紺屋高尾」の枕にも、船橋の妓はお客がくると「しべえしべえ」なんてことをいうので、はちべえという名をつけたとある。
(山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林)
うむ。「しべえ」とはすごいね。
鯛よし百番の宴席の帰り、飛田遊郭を通り抜け、駅まで歩いた夜のことを思い出す。女性メンバーに向けるおばちゃんらの敵意と憎悪は激しいものがあった。「見るな!」と激しく吐き捨てるおばちゃんもいた。
鯛よし百番の宴席の帰り、飛田遊郭を通り抜け、駅まで歩いた夜のことを思い出す。女性メンバーに向けるおばちゃんらの敵意と憎悪は激しいものがあった。「見るな!」と激しく吐き捨てるおばちゃんもいた。
江戸時代は女性が一人旅ができるほどいわゆる治安がよかったといわれるけれど、男たちの悪所である船橋宿で、女性客は歓迎されなかったのではないか。
「池波文学の母親の不在」という興味深い論文を読んだ。よくわかる。しかし池波の女性観は昭和の男性のそれで、男は、また女はかくあるべしという古い因習や観念に囚われていた嫌いもある。昭和の男のダンディズムは、今も少女の心のまま平蔵を一途に慕うおまさを、男たちの野卑な笑いと遊女たちの嬌声に満ちた船橋宿に立ち寄らせたくなかったのであろう。
それならそれで、次の八幡宿に泊まらせたらいいのだが、当時の八幡は宿としての機能は失っていたようである。
「池波文学の母親の不在」という興味深い論文を読んだ。よくわかる。しかし池波の女性観は昭和の男性のそれで、男は、また女はかくあるべしという古い因習や観念に囚われていた嫌いもある。昭和の男のダンディズムは、今も少女の心のまま平蔵を一途に慕うおまさを、男たちの野卑な笑いと遊女たちの嬌声に満ちた船橋宿に立ち寄らせたくなかったのであろう。
それならそれで、次の八幡宿に泊まらせたらいいのだが、当時の八幡は宿としての機能は失っていたようである。
と……。
『鬼平』の話に絡めて、篤実な歴史家である山本光正氏の『房総の道 成田街道』の話をもう少し広げたかったのだが、就寝時間を過ぎてしまった。また機会を改めて。
摩耶山青龍寺でのれんちゃん。今週もできたら摩耶山登りたいね…!