にゃんこの置き文

行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず

人生の終わり方

2011年05月11日 | 日記
 曽野綾子の本を読んでいて、面白い一節があった。
 
 老人が小金を使いきった後にまだ命があって、社会からも子供からも見捨てられたらどうするか。

 「その時私は、着たきり雀で、歩き出すだろう。目的はなく、ただ、これと思った方向に力つきるまで歩くのである。途中で雨にあい、力つき、病気になったりしても、老人ならば、そうそう長い間、辛い目にあわなくても、カタがつくというものである。この最後の行進は、本当に最後のものだが、昆虫の死のようで、そう悪くはないような気がする」
 ようするに野垂れ死にのすすめってわけだ。

 私も今まで生きてきた年月より、残りの時間の方が少なくなったわけで、それなりに老後のことを考えざる得ない。
 しかも子供なし頼れる身内なしの身なので、自分の身は自分で処さなくてはならない。
 で、この一節に目が留まったわけだが、これってホントになかなかよいのではなかろうか。

 「昆虫の死のようで」というのが気に入った。
 死を悟ったネコが、いずことへもなく姿を消す様にも通じるものがある。
 しかも私は歩くのが得意である。
 街中ではなく、山を目指せば、かなり奥深くまで入れると思う。
 秋か冬を選んで途中で雨でも降れば、一発で疲労凍死の完成じゃん。
 
 章の最後はこう締めくくられている。
 「この最後の行進の後の野垂れ死にを決意さえすれば、それ以上、怖いものはなくなるはずである」

 確かに、細々と取り越し苦労はせず、働けるだけ働いて、生きられるだけ生きて、いよいよとなったら、「行進、出発~!」といけばいいんだもんね。
 人生ってのは捨てたものではないけど、そんなに必死こいてしがみつくほどのものでもないと思ってるから。
 よし、老後はこれでいっちゃろ。