にゃんこの置き文

行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず

右往左往

2020年01月15日 | 小説
人間というのは誠に欲深いもので、最初の頃は「とにかく予選を通りたい!」とだけ願い、通過者100名以上の小さな文字の中に自分の名前をみつけただけで、本屋の中で万歳三唱してしまうほど喜んでいたのに、次第に名前だけでは飽き足らなくなって「最終に残って批評が欲しい!」と切望し始め、いざそれも叶うと「絶賛されて受賞したい!」という身の程知らずな願望を抱くようになった。

それでも初めて候補になった時はまだかわいかったよね。
「あこがれのプロ作家に私の作品を読んでもらえた」というそれだけで感動してたんだもん。
けれど三度目の正直がならず、これまでにない酷評を食らった今は、無我夢中で突き進んでいた道が消えたような気分。
この先どうすればいいのかさっぱりわからん。

努力で伸ばせるのは文章力に限られる。そしてその方面はどうやらクリアしているらしい。
これまでの批評でも、「最後まで飽きずに読ませる筆力を高く評価する」と言われ、前回は「筆力だけなら受賞作より上」とまで言ってもらえた。
なのに何がダメなのか。

今回の総評で今野敏先生が述べている新人に求めているのは整った綺麗な文章ではない。定まった円の中に収まっているのではなく、その円から何かが飛び出しているような作品だという一文が答えなのだろう。
きらめき、センス、感覚。
どれも努力で身につくものではなく、もし欠片くらいは持っていたとしても、磨くには時間がかかる。それだけの時間が自分にあるかどうか。

ここらで一度小説から離れてみるのも手かもしれない。マンガを描いていた時も、しばらく描くのをやめると絵柄がガラッと変わったりしたから。
・・・などと言いつつ、この3日間で小説のプロットを1つまとめてしまったのだ。
だってしゃあないよね。もうご飯を食べたり息をしたりするのと同じレベルで、書くのが当たり前になってるんだもん。
「数十年前の冒険小説を読んでいるようだ」という酷評にへこみつつ、だったらいっそ昭和を舞台にして書いちゃろか。そうしたら陳腐さはリアルさに化けるかもしれんぞなどと頭の隅で思ったりしてる懲りない私です。

これはもう、寿命がある限り突っ走るしかないな。



限界かな

2020年01月12日 | 小説
今日、「大藪春彦新人賞」の選評を読み終えた。
前回のブログで、「ダメだった理由は年齢か」というようなことを書いたが、失礼しました。一にも二にも十にも百にも、作品と資質の差でした。

受賞作は「奥行きがあり、今は粗削りだがいずれいい作品を書けるだろうという可能性がある」という批評。私の作品は「悪趣味で陳腐で作者の限界を感じる」だと。しかも「応募の度によいところが少なくなり、悪いところが強調されてきている」とまで言われちゃったよ~。
もちろん自分に傑出した才能などないことはわかっている。それでも努力でなんとかならないかと思ってたけど、プロの世界はそんなに甘いものではないらしい。

小説を書き始めた時は、「5年応募を続けて、手応えが得られないようならやめる」と決めていた。幸い2作目で予選を通過し、5年目には最終まで残れるようになった。そして8年目にして、自身の限界を突きつけられたわけだ。
というわけで、この先どうしよう。
懲りずに今年も応募し続けるか。それともこれからは趣味として楽しむか。
しばらく悩みそう。

それはさておき、選評を読んでて面白かったのは、選考委員といえどそれぞれ好みがあるんだなぁ、ってこと。
前々回の作品に対しては、今野先生はけっこう好意的で、馳先生はボロクソだった。
今回は逆で、今野先生は丸ごと否定、馳先生は「前半はおやっと思わせるものがあった」と部分的評価。
まあ「悪趣味すぎる」と言われるほどにえぐい設定だったから、健全な思考を持つ人だったら読むのすら苦痛だったろうなぁ。そう思うと申し訳なさでいっぱい。でもこの作品を、私が目標としている平山夢明先生が読んだらどんな感想をくれただろう。
ちょっと興味があったりして(^^)