レジェンド葛西がやってくれました。
悲運のオジサンジャンパーが・・
俺が
今回の葛西と共に注目していた、
フライングイーグルのニックネームを持つ。
フィンランドのスキージャンパー ヤンネ・アホネン
早くからその才能を見込まれ、
1994年のリレハンメルオリンピック代表に16歳の若さで選ばれる。
また、1993年と1994年のジュニア世界選手権で個人・団体2年連続2冠を成し遂げた。
ワールドカップでは史上第3位の通算36勝(2位44回、3位28回)、表彰台合計108回は史上最多。
2003/04シーズンと2004/05シーズンの2年連続総合優勝。
ほかに総合2位が2回総合3位が4回。
2004/2005シーズンは史上最多(当時)のシーズン12勝と最多タイの6連勝を記録。
2005年にはプラニツァのフライングで240mの史上最長飛距離を記録。
世界選手権では1997年のノーマルヒルと2005年のラージヒルでともに優勝。
通算で10個のメダルを獲得。
伝統あるスキージャンプ週間では史上最多、5度の総合優勝を成し遂げている
(1998/1999、2002/2003、2004/2005、2005/2006、2007/2008)。
しかしながらこのアホネンでさえオリンピックではその実力を発揮できず、
1998年長野オリンピックではノーマルヒル4位、ラージヒル37位、団体5位、
2002年ソルトレイクシティオリンピックではノーマルヒル4位、ラージヒル9位、団体銀メダル、
トリノオリンピックではノーマルヒル6位、ラージヒル9位、団体銀メダル、
オリンピックの個人種目の金メダルはない。
試合後の勝利者インタビュ-などで表情をあまり変えずに応対することから、
マスコミからは「鉄仮面の男」とも。
しかし、
それはジャンプへの人一倍真摯な姿勢の裏返しでもあるのか?
その反面最愛の息子の話になると饒舌になり、笑顔を。
2008年3月26日に一旦現役引退を表明
同年7月9日には地元ラハティのノーマルヒルで引退試合が行われ、
各国からともに競ったライバルたちが集い、
偉大な選手の現役引退に花を添えた。
3ヶ月間ジャンプのトレーニングをしていなかったが、
2本とも最長不倒を記録して優勝。
当にフライングイーグル
しかし、
2009年3月9日にバンクーバーオリンピックに向けて現役復帰を表明、
年末のジャンプ週間では2位が2回、3位が1回と3度表彰台に登り、
復活を印象付けるなか、悲願の金メダルを狙った
2010年バンクーバーオリンピックはノーマルヒルでは五輪3度目の4位、
ラージヒルは1回目16位のあと2回目を膝のけが悪化のため棄権し31位、
団体戦は欠場と不本意な成績に。
その後もフィンランド代表として活動を続けたが、
2010/2011シーズンをもって再び現役を引退した。
しかし、
2013年1月10日、ソチオリンピックで悲願の個人メダルを獲得することを目指し、
再び現役復帰を表明。
一方・レジェェンド葛西にもこんな秘話が・・
オジサンジャンパー葛西には難病を抱えていた妹がいる。
冬季五輪で金メダルという目標も、
当初は妹を勇気づけるのが目的だったという。
また自身の心の支えとなった歌としてかぐや姫の「妹よ」を。
ジャンプ時の空中姿勢は、
身体をスキー板より前に出るほど深く前傾させる。
その独特のフォームはジャンプの本場・欧州で人気があり、
ワールドカップ総合3位に入った1992/1993シーズン頃から
「KAMIKAZE・KASAI」(カミカゼ・カサイ)と呼ばれている。
2010年のバンクバーオリンピック競技終了後には、メ
ダルを獲得したわけでもないのに海外数十人の記者による取材の輪ができた。
その長年の競技実績と人気から
各競技会場では葛西が登場すると観客から大きな拍手が起こる。
40歳を越えて第一線で競技を続ける姿は海外の選手からも尊敬を集める存在で。
今年1月11日にワールドカップ史上最年長優勝を達成した際には、
日本以外の多数の選手・コーチから、
とりわけワールドカップ史上最多勝記録を持つ
グレゴア・シュリーレンツァウアーからは脱帽しての最敬礼での祝福を受けたほか、
競技会場・オーストリアの地元紙は複数が1面トップでこれを報じ、
ドイツの公共放送ARDは、
「「驚異」という言葉はこれからは「カサイ」にすべき」と賞賛したという。
レジェンド葛西の活躍に
どれほどのオジサン達が元気をもらったことか・・