彷徨う普代村民

普代村の一村民、
彷徨う村からの貧民の呻き声

自己責任

2020年03月13日 | Weblog

 昨年台風19号で被災した住民有志から、村長と議会議長あて連盟での要望書が来たことは以前載せました。

3月議会中にその回答文書が控室で議員に示されました。

「早急に改善するように、当局にも働きかけていく」という内容で、議会の回答としてはこんな所だろうと思います。

しかし、議会としての回答だけだったので、連盟ではないのか? と尋ねた。

議長が言うには、「村長は1月に公報の新年あいさつで言っているので出さないそうだ。」と言う。

え? でも要望書はそのあとに出されたものです。

「出した方がたは、村との連盟で出したのに返事は議会だけ?と思わないですか?」

「村長がいいと言うのだから、村長が良ければいいんじゃないのか?」という意見もありました。

「いや、出した人の気持ちを考えればショックじゃないですか? それが気になるだけです。」(そこに愛があるのかい?)

といった一幕がありました。

我々は、たまたま選挙で当選させてもらい、村民の立場を代表して「いいよ」と付託を受けた立場です。

当選して行政側の人間になったわけではありません。普通に住民立場で考えたのでした。

議長は、再度村長には確認するという事で終了しました。

しかしですが、なぜに正式な陳情、意見書等の手続きを踏まないのか、心に引っかかっています。


 先日、村内で久しぶりにお会いした方と20分ぐらい話しをしました。

会話前の前置きですが、定例会で台風被害関連の一般質問をしたのですが、「コンパクトシティー」について少し触れました。

簡単に言えば、離れ離れの民家を集約して、効率的なまちづくりをする意味でしょうか。

今はまだまだ現実的ではないですが、人口減少で、以前から国の考え方として出ています。

人口減少もですが、危険地域からの移動という考え方としてもありではないかと思います。

住み慣れたところを動くのは到底受け入れられないことですが、選択肢の情報として提供しておいてもいいと思います。

心の準備です。

初めて聞いた時は、自分も「国は住民の気持ちも感がえず、また勝手なことを言っている」と思いました。

で、その前提の考え方があって、いつも被災している人々の救済策として、「代替地を用意して家を建てて、国で面倒見るくらいのことをしないと解決は無理でしょうねぇ。」と言いました。

「そこまでする必要はない。そこに家を建てたというのはそんなことも見越したことで、それは自己責任でやることだ。」と言います。

「確かにそれも運命ですからねぇ。」と返しました。

根底には、「税の不公平」 とか 「国民や村民の借金」という考え方もあるようでした。

国民や村民は借金はしていないのですが、そんな洗脳された「罪悪感」を持っている人は少なくありません。


 「自己責任」「自業自得」という言葉は、厳しすぎる考え方だなあと思っています。

自分で責任を取れない人は、もれなく自業自得です。誰からも手を差し伸べてもらえず救われないことになります。

自己責任の前提には、自己ですべて完結でき、人の助けを必要としない完璧な人という感じがあります。

神に近い存在です。そんな人間が果たしているのかは疑問です。

自分でやったことは確かに自分で責任を取るものですが、その人では解決不可能な問題までをも手を差し伸べないのは、人としての責任はどうなのかな?と思う次第です。

貧乏も自己責任と思っている人もいますが(自分がそうです(笑))、意外と社会の仕組みだったり、政策だったり、不可抗力である場合も少なくないといいます。

最近大学入試問題で萩生田文部科学大臣が、「身の丈に合った」という発言で炎上しました。

地方と都心の格差、金銭的な格差で明らかに学力・学歴には差が出ます。

これは「貧困の連鎖」という問題につながっています。

「子どもの貧困問題」が日本は先進国という割に極めて高いことがデータとしてあります。

スタート地点が違います。「身の丈」とはそういった作られた格差を運命なんだから諦めろという事です。

結果、差がついても自己責任です。これは国の政策責任であり、自己で解決できるものではありません。

しかしみんな100%自分の責任だと思っている人がほとんどではないですか?

 

 


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