彷徨う普代村民

普代村の一村民、
彷徨う村からの貧民の呻き声

「こころ」のケア

2018年03月21日 | Weblog

 自分のこころが「弱い」ことを自分でよく知っているつもりです。

その「弱さ」を隠すために、無表情だったり、むきになったりするような、抵抗をします。

弱いことがばれることが恥ずいこと(笑 だと思ってしまいます。

本来は、自分に恥じるべきで、他人にかっこつけてもバレバレなんですけども。

で、「心の弱さ」は悪いことでしょうか?

自分でも心の弱さによって、他人に迷惑をかけることがあります。いいことではないのでしょう。

いつも弱音を吐いたり、愚痴を言ったりすることは、周りの人にいい影響を与えないという意味では「悪」です。

気持ちの弱さから、やるべきことをきちっとやらない(やれない)ことも人に迷惑をかけます。やっぱり「悪」です。

楽な方、自分にだけ都合のいい方を優先、あるいは誘導することも「弱さ」から来るものだという気がします。仕事の手抜きをしてさぼってばかりいる人、またいつも強引で自分勝手な人も「こころの弱さ」が起因しているのではと思います。

財務省の文書改ざんも心の弱さ。

安倍さんが、妻のご乱交を認めないのも弱さ。

相手の弱さに付け込んで、追い打ちをかけて叩きのめそうとするのも弱いが故に優越感を得ようとするこころの弱い行為ですかね。

 

 ひるがえって、高齢になって、身体の自由が利かなくなってくると気持ちが弱くなったように見えたりします。

それもあるのでしょうが、「弱い自分を受け入れる」というか、自分でできることとできないことが分かってくるからでしょうか。

他人に迷惑をかける「弱さ」とはまた違うような気がしています。弱いのではなく、心の部分では強いのかも知れません。

赤ちゃんも、自分でできることというのはほとんどありません。

それを、人に手をかけさせてばかりで、だから、「弱いやつ」とは言いません。

こころから来る弱さのケア、身体的なケアをするという役割は健全な人にはわからない、しかし重要な役割があります。

仕事柄、その弱さと対峙してわかった人でなければ、そのケアは不可能です。

 

 人は、心が弱っているとき(病気など)は気力も出ませんが、折れそうな心を隠そうともします。

久慈地域では、平成15年から官民一体となったこころのケアや自殺対策に取り組んでいます。

今年も1月25日に「生きる支援セミナー」がアンバーホールで開催されました。

住民一人ひとりに寄り添った活動を目指した取り組み」と題して、

①久慈市保健推進課 ②洋野町健康増進課 ③野田村住民福祉課 ④久慈地域傾聴ボランティア「こころ」 ⑤岩手県久慈保健所 

の保健師さんが中心となった活動報告がありました。

保健師不足で、普代の活動報告が気になり、今年初めて見に行きました。

上記のように、普代村からの報告だけありませんでした。

 予算委員会の質問では、保健師不足による影響を聞きました。

やはり、不足していなかった時のような、住民のこまめな保健師対応はできなくなっているという回答です。

住民一人ひとりに寄り添った活動ができていないことです。

医師はどちらかというと、病気になってから対応してくれる立場で住民の皆さん誰もが助かっています。

一方、保健師は医師のところまで行く前に、それを食い止める役目があります。予防に重点を置きます。

それによって、医師もじっくりと患者と向き合う余裕が出ます。

保健師の活動によって、未然に病気を予防することが、普代村の医療費を抑制でき、しいては健康保険料にも反映されることになります。

 昔ですが、岩手県の藤沢町という町では、町長が予防に力を入れて日本一医療費が少ない町、健康な町として有名になり、他町村からの視察が押し寄せたと言いいます。

やっぱり、予防は大事だと思います。

地味で、住民にとってはよくわからない分野、目に見えない分野ですが、住民の健康度は村の元気度となります。

目に見える建物とか金だけの問題ではなく、公の役割は、「住民福祉の充実と幸福感」です。

なぜこの状態になるまで手を打てなかったのでしょうか。辞めてしまった人がとどまっていなかったのでしょうか。

そんな対策にも問題があるのではないでしょうか。

まだ保健師の応募がありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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