午前11時、マンモス・レークを後に395号線をロサンゼルスに向かって走ります。どんどん標高が下がってくると、気温は一気に30度を越えてきました。
ビショップから約1時間ほど、砂漠の真ん中にこの建物は現れます。
これは第二次大戦の時の収容所の監視兵が詰めていた建物です。
ここはカリフォル二ア州マンザナ日系人強制収容所跡・・・・・・。
砂漠の真ん中のこの場所は、お昼過ぎの今の気温42℃です。
ここにはピーク時1万人を越える日系人の人たちが収容され暮らしていたのです。
現在はアメリカ国定史跡に指定され、保存されています。
隣には資料館が建てられ、その歴史が語られていますが・・・・・・。
幕末の戊辰戦争で、会津藩は1868年に敗戦し、28万石の領地を失った会津藩士たちは苦しい生活から逃げるため、1869年にカリフォルニア州エルドラド郡ゴールドヒル移り住み、若松コロニーを作ったのがアメリカ本土への最初の移民といわれています。(これは1年ほどで失敗します)これは『おけいの墓』の逸話で有名ですね。
1870年(明治3年)にワシントンDCに日本公使館、サンフランシスコに領事館が開設した。その後、一般の移民が始まり、1880年後半になり日本が凶作に見舞われると明治政府は不況対策として移民を推奨し、多くの日本人がカリフォルニアで鉱山、鉄道敷設、道路建設、農場の労働者として働いていて、その結果1895年ではアメリカ本土で日本人が6千人を越えていたようです。
1900年代に入り日本や中国人のの移民が増え始める、1913年にはカリフォルニアやワシントン州など9州で『外国人土地法』が成立、土地所有を禁止したのです。
そして1924年には日本からの移民を完全に禁止した『排斥移民法』が成立する事になります。
1941年12月7日、パールハーバーに押し寄せた日本海軍の攻撃によりアメリカの日系人には最大の苦難が待ち受けているのでした。
このニュースは直ぐに全米に流れ、『アメリカの国益にとって危険な敵性外国人』とされ、翌日から新聞にも『JAPS、ジャップ』の見出しがトップを飾り、FBIによる主だった日系人の検挙が始まったのです。
この法令はすべての「敵性外国人」(ドイツ、イタリア、日本)に向けたものではあったものの、実際に行使されたのは日系アメリカ人に対してのみでした。
開戦後4日目で1291人が検挙され、危険分子としてニューメキシコ州のサンタフェ拘置所に送られたのです。
1942年2月ルーゼルベルト大統領が大統領命9066に署名。これは日系人を強制収容所へ入れることを認めるものであり、当然のごとく彼らは何の補償も得られず、家や会社を安値で売り渡し、全米10ヶ所在った「戦時転住所」と呼ばれる強制収容所に入れられることになった。
しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一時的にアセンブリセンターに集められましたが、そこは主に競馬場が利用され、ロサンゼルスではサンタアニタ競馬場が使われ、人々はなんと馬小屋に収容されたのです。
アメリカ西海岸12万の日系人のうち、8828人がまずマンザナに送られました。
夏は酷暑、冬は極寒の砂漠気候の中「ゴーグルが必要なほどの砂嵐と、サソリや蛇にかまれないよう、丈夫なブーツ」が必要だったといわれているほどです。
これは当時の居住用バラックが建っていた模型ですが・・・・・。
鉄条網で囲まれた1平方マイルのなかにあまりのも多くのバラックが建っていたのに驚きますが、一番辛いのは、有刺鉄線のトゲも監視兵の銃も、常に収容所の内側を向いていたのでした。
住居用バラックは4部屋に仕切られ、殆んどは1部屋に1家族で入っていたそうで、部屋には軍用ベット以外何もなく、ベットで寝ると屋根の隙間から星空が見え、そして朝には隙間から入る砂が体を白く覆っていたと聞きました。
電気や水道は供給されていましたが、全ての食事は食堂で行い、強制収容所内の農場で獲れた作物を使い、基本的には自給自足だったと聞きました。
ここに書かれていたことは・・・・・・・
この子のの遊んでいた玩具がこの中に入っていますが、これは彼女が持って来たものではないのです。
日系人はこの収容所に入る際、2つの手荷物しか認められていなかったので、子供の玩具類を持ち込む余裕はなかったのでしょう。
そのためここには子供達にアメリカの玩具を貸し出してくれる所があったのです。
飾られていた本や玩具は、勿論全て英語のものでした。
43年2月、アメリカ政府は日系人の忠誠を確かめる為”ロイヤリティー・クエスション”と呼ばれる質問状を送り始めます。
「Q27:アメリカ軍の命令で戦地の場所に関わらず、兵役につくか?」
「Q28:アメリカに無条件の忠誠をちかい、日本国天皇及び外国政府の忠誠を否定する事を誓うか?」
これは俗に『Yes/Yes』『No/No』といわれているもので、『No/No』の人はツールレーク収容所に転送され、日本へ送還された人も少なくありません。
これにより日本生まれの1世とアメリカ生まれの2世の間で意見の違いがあり、対立が起きたリ家族がバラバラになった例もあるようです。
太平洋戦争の前の年の1940年、アメリカは徴兵制度を再導入します。
そしてハワイの防衛軍もアメリカ軍に編入されたのですが、その半数が日系人兵士だった為戦争開戦後は、ハワイに日本軍が侵攻した場合を想定し、敵兵と見分けがつきにくい日系人部隊をアメリカ本土のミシシッピー州の訓練所にに送ったのでした、これが有名な『第100歩兵大隊』「ワン・プカ・プカ」です。
しかし彼らが前線に出る可能性は、その時点ではゼロだったのです。
アメリカ軍部では『日系人の忠誠を信用できないので、前線には出せない』といわれていたためです。
しかしその不信感を変えたのが、『第100歩兵大隊』の優秀な訓練成績でした。
彼らはアメリカ軍の重機関銃の組み立て平均が16秒だったものを、わずか5秒という驚異的な記録を残し、その上普通は行軍スピード1時間4キロのところを、1時間5.3キロで8時間休まず歩いたのです。
またハワイ大学の学生必勝義勇隊が嘆願書を出したり、道路工事などのボランティアに精を出し、忠誠心を示していたのです。
その頃、本土でも2世の日系市民協会が日系人部隊編成にロビー活動を必死に行い、その甲斐あって1943年2月、ルーズベルト大統領は日系志願兵からなる”第442連隊”を編成します。
これが『アメリカの為に死ぬ事が出来る権利』の獲得だったのです。
日系2世は積極的に兵役を志願し、アメリカ合衆国への忠誠を示そうとしました。
しかし442部隊はハワイの日系人兵と、本土の日系人兵の混成だった為いさかいが絶えなかった。ハワイでは日系人はその数の多さからか、収容所に入れられることはなかったのです。
そのため軍上層部はハワイ兵を日系人強制収容所に見学に行かせることにするのですが、彼らの帰リ道は無言だったそうです、そして彼らは同じように胸の中で『もし自分は収容所に入れられたとしても、その国に対して忠誠を誓い、志願できるだろうか?』と考えていた。
1943年9月8日、ついに第100大隊がイタリアに上陸するのです。
『前線で決して後ろを振り返らない兵士』と賞賛を得た彼らでしたが、イタリア戦線の激戦地”モンテ・カッシーノ”の戦闘が終わった時、上陸時1300人いた第100大隊は半数以下になっていました。
第100大隊の部隊モットーは『Remember PearlHarbor(真珠湾を忘れるな)』、これは日本軍の真珠湾攻撃を目の前で見て、祖国日本から裏切られた思いだったに違いない彼らの無念さが凝縮されていると考えられています。
また第442連隊もイタリアに派兵されるのですが、白人の部隊から『ワン・プカ・プカ』と手を振って歓迎された事で、先陣の第100大隊がどれだけ勇敢に戦ったかを知る事になるのです。
有名な日系人部隊の合言葉"Go for broke!(当たって砕けろ)"は、元来は有り金全部つぎ込むことを意味するハワイのギャンブル用語だと云われています。(ハワイの移民プランテーションでは、賭博が盛んに行われていた)
そして各地で勇猛果敢に戦った第442連隊の最も有名な逸話は・・・・・
ドイツ国境に近いフランスの小さな町”ブリエアで、敵陣地に奥深く侵攻したテキサス部隊がドイツ軍に包囲され、『失われた大隊』」(Lost battalion)として全米に知られることなるのですが、1944年10月25日ルーズベルト大統領自身からの命令により、これを第422連隊が救出に向かうのです。
炸裂する砲弾の中を6日間駆け抜け、ついに同じテキサス連隊でも助けられなかった212名のテキサス兵を救出するのです。そして・・・・例えば出陣した442部隊の第3大隊I中隊185人が最後の地雷を突破し、「失われた大隊」にたどり着いた時に残っていたのは、わずか8人だったなど・・・・・・・・この時第442連隊全体では、212名のテキサス兵を助け出すために、約800名近い兵士が死傷しています。
このときの戦いで、日系兵士が絶叫しながらドイツ軍に突撃する「バンザイ・チャージ」が登場したと言われています。
その声は近隣の村々に響き渡ったそうで、壮絶な突撃が行われていた。
442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、ある白人兵が「なんだジャップか」と吐き捨てると、442部隊の兵士は「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と迫ったという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。
その後11月11日の閲兵式でダールキス第36師団長少将が集合した442部隊の兵隊を見て、「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に怒った時、「目の前に並ぶ兵が全員です。」と答えたという話が残っている。これは編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。
日系部隊はアメリカ戦史上、1部隊として最も多くの死傷者を出し、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれ、そして最も多くの勲章(1万8043個)に輝いていますが最高勲章は一人だけでした。戦後55年たった2000年、それが人種差別であったと認められクリントン大統領から20名の元日系人兵士が最高勲章を受勲されました。
終戦の翌年、第442連隊はホワイトハウスでトルーマン大統領から感謝状を受けるのですが、そのときこの言葉がスピーチされたのです。
『諸君は敵だけではなく偏見とも戦い、勝ったのです』
アメリカの歴史の中で強制収容所に入れられたのは”アメリカインディアン”と”日系人”だけなのです。
第442連隊が帰還したとき、編成時の兵隊は殆んど残っていなかったといわれるほど死傷者を出した日系人は、戦後その功績によりアメリカ社会の中で信頼を得ていったのです。
私は『前線で決して後ろを振り返らない兵士』の話を聞いて、何故か知覧の特攻基地から飛び立っていった1036人の若者の話をを思い出してしまいます。
強制収容所から家族を解放するために、彼ら日系2世は進んで自分の身をアメリカに委ねそれにより忠誠心を示す、この道しか残っていなかったのでしょう、そして彼ら日系兵士は『ヤマト魂』を信条にしていたのです。
戦死した日系人部隊の兵士の最後の言葉は、ほとんどが日本語で『おかあさん・・・』だったということを聞くと・・・・・・・・。
ここに強制収容された方々の名前が記されています。
その中にいつもお世話になっている2世の方の名前を見つけたときは、なんとも云えず、胸が詰まる想いでした。
ご夫婦とも、いつも笑い顔で私達を迎えてくれる方々です。
戦後、我々がアメリカでこのような環境に恵まれているのは、多くの日系2世の方々の犠牲の上に成り立っている事を忘れないようにしようと誓ったマンモス・レークからの帰り道でした。