GHQ案反対からGHQとの共闘へ―幣原内閣の方針転換
GHQ案は2月13日、幣原内閣に手交された。しかし、幣原首相はこれを閣議にかけることを躊躇し、閣議は2月19日になって漸く開かれた。幣原首相はGHQ原案反対論であり、一方、芦田均厚生相は、もしこれが公表されたならば世論はこれを支持し現内閣は責任をとらざるを得ないと主張するなど、議論が紛糾し結論を得なかった(上掲、古関)。しかし、2月21日の幣原・マッカーサー会談で、マッカーサーはFECの天皇制廃止圧力に抗し天皇制を守るためには、この憲法草案の受諾以外にはない旨を主張し、恫喝した。この会談の結果、翌22日の閣議は一転して、GHQ案の受諾を決定した。押し付け憲法論者はこの事実をもって、押し付け憲法と称しているのである。
確かに、日本が置かれている国際情勢も日本ファシズム敗北の世界史的意味を持全く理解できなかった頑迷固陋な明治憲法維持論者にとっては、GHQ案は押しつけであった。しかし、GHQ原案の中に体現された民主的・平和的条項は客観的には、国際的な反ファシズムの力が、無自覚で反動的な天皇制日本政府に押し付けたものであることをも意味した。一方、芦田がいみじくも主張したごとく、GHQ案が公表されたならば、日本国民はこれを支持するであろう、というのが真実であった。日本人民にとっては、GHQ案は決して押しつけではなく、歓迎すべき贈り物であったのだ。このことは、GHQ案を基礎とした現行憲法が公布された際には、90%前後の世論の支持があったことによってもはっきりと証明されていることである。
幣原内閣が、GHQ案がFECに対抗して天皇制を守る唯一の方策であることを理解した途端、これを一大転機として、内閣とGHQとの共闘が開始される。最早この時点では、GHQ原案は、内閣にとっては「押しつけ憲法」ではなく、「守るべき憲法草案」に根本的に転化したのである。このことは、幣原首相の枢密院における説明にもよく表れている。「(極東委員会が)日本皇室を護持せんとするマ司令官の方針に対し容喙の形勢がみえたのではないかと想像せらる。マ司令官は之に先んじて既成の事実を作りあげんが為に急に憲法草案の発表を急ぐことになったものの如く・・・此等の状勢を考えると今日此の如き草案が成立を見たことは日本の為に喜ぶべきことで、若し時期を失した場合にはわが皇室の御安泰の上からも極めて懼るべきものがあったように思われ危機一髪とも云うべきものであった」(1946.3.20、上掲、古関)。(岩本 勲)
(つづく)