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改憲の危険シリーズ 押しつけ憲法論批判(7) マッカーサーの「改憲三原則」と天皇制

2016-04-01 | 改憲反対

マッカーサーの「改憲三原則」と天皇制

 マッカーサーは、このような差し迫った状況の下では、もはや日本政府に改憲草案作成を委ねる余裕はなかった。したがって、彼はFECの第1回会合までに、FECも承認し得る草案を、表向きはGHQではなく日本国政府の草案として作成すること、同時に日本国民も納得しうる原案の作成を急いだのだ。そこで、マッカーサーは、日本政府による改憲原案作成方針を転換し急遽2月3日、以下の改憲三原則を示し、GHQ自身が改憲原案を作成することにした。
()天皇の地位は、国の最上位(at the head of the state)。皇位継承は世襲。天皇の職務・権能は憲法の規定による。
()国権の発動たる戦争は廃止。国際紛争解決及び自衛の手段としての戦争の放棄。日本は、今や世界の心を動かしつつある、より崇高な理想に依拠して自衛を図る。陸・海・空軍の保有を禁止し、交戦権もこれを廃止する(下線は筆者)。
()封建制度の撤廃。貴族の権利は、皇族の場合を除き、当該現存者一代に限り容認。華族の特権は、政治権力をともなわず。 

 この3原則の最初に掲げられた天皇制存続問題は、「ポツダム宣言」の作成はもとより、日本占領統治に関して最大の問題であり、日本側にとっても宣言受諾条件を巡る中心問題であった。これらの意味でこの問題は、日米両国間の最大の懸案事項であった。アメリカ政府内部では、天皇制の存続を巡って意見の鋭い対立があり(たとえばバーンズ国務長官は廃止論、スティムソン陸軍長官は存続論)、さらに「ポツダム宣言」に天皇制廃止を明記した場合、日本が「本土決戦」を呼号して徹底抗戦をする恐れがあったため、同宣言には天皇制の問題については明記されなかったのである。

 一方、日本国内では、「ポツダム宣言」が発せられた1945年7月26日の2日後、鈴木首相はこれを黙殺することとした。なぜなら、7月にソ連に対米講和の仲介を依頼していた天皇と政府は、同宣言にはソ連の署名がないことに着目し、同国に一縷の望みを託していたからである。原爆が8月6日、広島に投下されされても、この事情は変わらなかった。だが、ソ連が8月9日未明、米・英・ソのヤルタ対日秘密協定(1945年2月)に基づいて、満州国境を越えて侵攻を開始した。天皇と政府は思いもよらぬ事態に驚愕した。支配者階級にとっては、まさに「全く寝耳に水」(近衛文麿)であった。彼らの最後の頼みの綱は切れたのだ。天皇と政府は急遽、「ポツダム宣言」受諾可否を決定する最高戦争指導会議(天皇・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長・陸軍大臣・海軍大臣・首相・外相)を同日に開催した。

 最高戦争指導会議では、この日の午前11時2分、原爆が長崎に落とされたにも拘わらず、このことなどは全く話題にも上らず、もっぱら同宣言受諾によって国体が護持されるのか否かの一点をめぐって議論が著しく紛糾し、漸く翌10日未明、国体護持の1条件で同宣言の受諾を決定するに至った。この条件をアメリカ側に打診したところ、回答は、上に示した通りであった。中華民国とソ連とはこの条件づけに反対したが、アメリカはそれには従わなかった。そこで「終戦の詔書」(「敗戦の詔書」ではない)は「国体は護持」されたとして、「ポツダム宣言」受諾が8月15日正午、国民に公表されたのである。(岩本 勲)

(つづく)


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