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「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

改憲の危険シリーズ 押しつけ憲法論批判(6)マッカーサーの最初の改憲方針②

2016-04-01 | 改憲反対

(B)民間の改憲諸案
 民間でも、知識人、政党、マスコミの間で憲法改正の機運が生じた。日本共産党「新憲法の骨子」(1945.11.11)、高野岩三郎・鈴木安蔵らの憲法研究会「憲法草案要綱」(1945.12.26)、高野岩三郎「改正憲法私案要綱」(1945.12.10、公表は翌年2月)等が公表された。これら諸案はいずれも国民主権を基本としているが、共産党案には天皇についての言及はなく、憲法研究会案は天皇を国家的儀礼を司る機関とし、高野案は天皇制廃止・大統領制を提唱した。日本社会党「新憲法要綱」(1946.2.23)は、主権は国家(天皇を含む国民共同体)にありとし、統治権は君民分割とする全くの天皇主権と国民主権との折衷案であった。
 保守諸党では、鳩山一郎、吉田茂らをリーダーとする自由党の「憲法改正要綱」(1946.1.21)は天皇主権を掲げ、大日本帝国憲法と基本的内は変わりはなかった。最も保守的な日本進歩党の「憲法改正問題」(1946.2.14)は共和制反対・国体護持を標榜した。

 新聞紙上でも1945年10月ころより、改憲問題が論じられるようになっていた。「朝日新聞」(1945.10.13)は近衛改革案を報じ、改憲の重要性を主張しているが、天皇主権問題には触れていない。「毎日新聞」社説(1945.10.13)は幣原内閣の線にそって明治憲法で十分としている。「読売報知新聞」(1945.10.14)は、やや議会や臣民の権利義務の拡大に積極的ではあったが、「万民一君制」を唱えた。
 天皇制に関しては、日本の国内世論も圧倒的に天皇制支持であった(支持95%、不支持5%、1945年12月、竹前栄治「象徴天皇制への軌跡」(『中央公論』1975年3月号)。
 近衛案、松本案、保守2党の憲法改正案、主要新聞の論調等は、ニュアンスの差はあるが、いずれにしても日本ファシズムが敗北した世界史的意味も、GHQによる民主化政策の意義も全く理解しないことを、特徴としていた。

  このような状況の中で、松本案(甲)が1946年2月1日、「毎日新聞」によってスクープされた。この旧態依然たる松本案に対しては、日本国内世論はもちろん、GHQも驚きを禁じえなかった。だが、このような案では同月26日に予定されている、第1回「極東委員会」(FEC=Far East Commission)の同意を得ることは、とうてい不可能であった。
実は、日本の憲法問題の最高決定機関は建前上、FECであったのだ。FECは1945年12月、米英ソの3か国外相会議で日本管理のための最高機関として設置され、その構成国はこれら3か国に加えて、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドの合計11か国(1949年にはビルマとパキスタンが参加)であった。同委員会は日本の新憲法草案の最終採決には委員会の承認が必要であることを決議した。この構成国から分かるとおり、中華民国、オーストラリア、ニュージランド、フィリピン、オランダ(植民地インドネシアの宗主国)などは日本軍にさんざんに痛めつけられた国々であり、ソ連は天皇制に批判的な国であった。したがって、もし松本案が日本政府改憲草案として提示されたならば、それはFECに否決され、改憲草案の主導権はFECに移ることは火を見るより明らかであった。一方、反共主義者のマッカーサーは日本統治に関して、共産主義ソ連が参加するようなFECの容喙をできる限り防ぎ、自らのイニシャティブの下にこれを行う強い意志を持っていた。

  同時に日本国内では、1945年の10月以降、復員軍人の大量失業、ハイパーインフレ、食糧危機等が重なり、労働運動が燎原の火のごとく燃え上がっていた。各地で労働組合が結成され、早くも「読売新聞社」では、共産党や社会党の応援を得て、生産管理を含む大争議が開始された。翌年5月には大規模な食糧メーデーが実施されるに至ったのである。このような嵐のごとき人民運動の高揚もまた、マッカーサーの憲法制定のイニシャティブを脅かす恐れが濃厚であった。(岩本 勲)

(つづく)


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