だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、
善い行いをし続けて、真実であられる創造主に
自分の魂をゆだねなさい。
ペトロの手紙一/ 04章 19節
新約聖書 新共同訳
つつましい仕事から離れてはいけません。
こういう仕事はだれもしようとしないからです。
仕事が小さすぎるということはありません。
わたしたちはとても小さいので、
小さいやり方で物事を見ているのです。
たとえ、わたしたちがだれかのために、
ちょっとしたことをしたとしても、
全能の神は、すべてを偉大なこととして見てくださいます。
偉大なことができる人たちは、世の中にたくさんいます。
けれど、つつましい仕事をする人たちは、
ほんとうに少ないのです。
マザーテレサ
(マザーテレサ『日々のことば』より)
★マーシャル諸島の海岸浸食で遺骨20体出現、
旧日本軍兵士か
■AFPBB news 2014年06月09日 17:34 発信地:東京
http://www.afpbb.com/articles/-/3017178

マジュロ環礁(Majuro Atoll)の
海岸沿いの墓地(2008年12月撮影、資料写真)。
(c)AFP/GIFF JOHNSON
【6月9日 AFP】
(一部更新)気候変動に伴う海面上昇による海岸浸食が問題となっている太平洋の島国マーシャル諸島で、海岸沿いの小さな墓地が海水に浸食され、第2次世界大戦中の旧日本軍兵士のものとみられる約20体分の遺骨がむき出しになっている。日本とマーシャル諸島の政府高官が9日、明らかにした。
日本政府高官によると、マーシャル諸島政府からエニブール(Enniburr)島の海岸で約20人分の人骨が見つかったと連絡があった。遺骨は日本人兵士のものと思われ、海岸沿いの墓地が波に浸食されたため土中から出現したという。
この高官は、日本から調査団を派遣することになるだろうが、エニブール島は米軍管轄下にあるため具体的な計画はまだできていないと述べた。
■しょうゆ瓶や日本の貨幣も
一方、マーシャル諸島政府歴史保全局(Marshall Islands Historic Preservation Office)のマイケル・ターレップ(Michael L. Terlep)考古学室長は、AFPの取材に「見つかった遺骨は18~40歳の男性のもので、アジア系の遺伝的特徴が強いようだ」と語った。
同室長によれば、遺骨が発見された場所ではしょうゆ瓶や軍服のボタン、日本の貨幣などが見つかっているほか、米軍がエニブール島北部で旧日本軍の兵士と戦ったことを示唆する史料もあるという。
20を超える環礁からなるマーシャル諸島は、国土の大半が海抜1メートル程度しかなく、海面上昇の影響が深刻だ。以前は安全だった陸地が海岸浸食の脅威にさらされており、近年は海面が最も高くなる2月~3月に海岸が大きく削られ、墓地や家屋が損壊する被害が相次いでいる。
国連(UN)の「気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change、IPCC)」は3月、「島しょ国が多い太平洋南西部では1993~2009年に海面が世界平均の4倍のペースで上昇した」との報告書を発表し、海岸浸食の進行に警鐘を鳴らしていた。
マーシャル諸島は、第1次世界大戦中の1914年から第2次世界大戦末期まで日本の統治下にあった。その後、米国の統治を経て1986年に独立したが、今回遺骨が見つかったエニブール島があるクエゼリン環礁(Kwajalein Atoll)など一部は今も米軍の管轄下にある。(c)AFP

▲竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記.
2013年8月15日、毎日新聞に広告
★68年ぶり慰霊「安心した」=母の眠る平壌訪問-日本人遺族
■時事通信2014年6月29日
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201406/2014062900132

▲29日、平壌郊外の竜山墓地を訪れ、
手を合わせる後藤忠衛さん(左端)
【平壌時事】
終戦前後に現在の北朝鮮地域で亡くなった日本人の墓参訪朝団に参加した宮城県登米市の自営業、後藤忠衛さん(78)は68年ぶりにつらい思い出のある平壌を訪れた。満州からの引き揚げ途中、約1年間滞在し、ここで母を亡くした。埋葬地とされる平壌郊外の竜山墓地で29日に線香を上げた後藤さんは「この地名がずっと頭から離れなかった。安心した」と語った。
後藤さんは軍属だった父に連れられ終戦直前まで満州の新京(現中国吉林省長春)で暮らした。軍務のため父が新京を離れた後、ソ連が1945年8月9日に参戦。後藤さんは母と2人の妹と共に「着の身着のまま」新京を脱出し、引き揚げ途中の平壌で終戦を迎えた。都市ガスが配備されるなど比較的裕福だった新京の暮らしとは一変、約1年にわたる「地獄の生活」が始まった。
満州から脱出した約200人が製鉄所の労働者宿舎に集団で生活。食べ物はジャガイモやコーリャンの重湯ぐらいしかなく、靴は食料と交換した。発疹チフスや栄養失調のため、亡くなる人が相次ぎ、「隣で寝ていた母娘3人が朝起きたら死んでいた」こともあったという。
後藤さんの母も「骨と皮だけ」になり、厳冬の中で息を引き取った。「亡くなる前に周囲の大人に『子供たちを頼む』と言っていた。自分が息絶えることがどれだけ残念だったか」と振り返る。
46年8月に平壌を集団で脱出し、10歳だった後藤さんは2人の妹とはだしのまま歩いて北緯38度線を越えた。「内地に帰りたいとの一心で歩いた。道中に行き倒れた日本人を何人も見た」。何とか帰国を果たした妹はいずれも栄養失調などで間もなく相次いで亡くなったという。
「私だけ残った。妹も連れて来たかったが、仕方がない」。北朝鮮側によると、竜山墓地は2回移転し、遺骨が現在の場所に移され、約2500柱の日本人遺骨が埋葬されているという。後藤さんは「持ち帰った石を日本の母の墓に納めたい」と語った。
(2014/06/29-16:46)

▲『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』
(So Far from the Bamboo Grove)
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ (写真)