空飛ぶ自由人・2

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映画『ボレロ』

2024年08月13日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

モーリス・ラヴェル「ボレロ」作曲を巡る秘話
と聞かされて、興味を覚えないクラシックファンはおるまい。
私もその一人で、公開初日の第1回を観に行った。

1928年、アメリカ演奏旅行を成功に収めたラヴェルは、
深刻なスランプに苦しんでいた。
(事実、帰国後のラヴェルはわずか4曲しか作曲をしていない。)
その前年、ダンサーのイダ・ルビンシュタインから
バレエの音楽を依頼されていたのに、
一つの音符も書けずにいた。
失った閃きを追い求めるかのように、
過ぎ去った人生のページをめくる。


ピアノコンテストに応募しながら、
何度も落選し続けた昔。
戦争に出て味わった痛み、
叶わない恋、
最愛の母との別れ・・・
それらの過去の記憶に責めさいなまれながら、
全てを注ぎ込んで傑作「ボレロ」を作り上げるが・・・

というわけで、時系列がくるくる変わり、めまぐるしい。
スランプの原因は
後で発覚する病気なのかもしれない。
とにかくラヴェルを憂鬱が包み、
作曲の手が鈍る。
しかし、行きついたのは、短調なリズムが続く中、
たった二つの旋律が、
楽器を変えながら17回繰り返されるという
斬新な新曲だった。

映画の中で、工場の機械音の繰り返しに着想した、
と出て来るが、これは定説なのだろうか。
たとえば、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」の
第4楽章が、鉄道オタクであったドヴォルザークが
蒸気機関車の音から着想したというような。

リズムから始まり、
二つのメロディーを生む過程は
なかなかていねいに描かれて興味深い。
それを家政婦に褒められて喜ぶ様子など。
バレエ曲として依頼されたが、
そのリハーサルで舞台のダンスに違和感を感ずる。
実際、あんな舞台だったのだろうか?
私の眼から見てもヘンテコだと思うが。

総じて、フランス映画だな、と感ずる。
過去と現在の交錯は、
気分が優先して分かりにくい。
アメリカ映画なら、
こういうところはすっきり描くだろう。

「ボレロ」後の病苦は、
ネクタイも結べず、サインするのもままならず、
コーヒーカップを取り落としたり、
人と会っているのを別人と認識したり、
今で言う認知症のような症状だが、
病気のせいというより、
心の問題ではないか。
(実際、ラヴェルの弟は脳腫瘍や脳内出血を疑って、
 高名な脳外科医の執刀で開頭手術を受けるが、
 腫瘍も出血も発見されなかった。
 ただ、脳の若干の萎縮が見られたので、
 生理食塩水を注入するなどしたため、
 手術後、11日で死亡している。)

というわけで、ラヴェルの生涯をからませて
創作の秘密に迫る、
といいながら、
あまり見事とは言えない出来上がりだった。

最後のラヴェル自身の指揮による幻影の
あのダンサーは何だろう。
意味不明。
むしろ、演奏の最中に
それまでのラヴェルの生涯の数ページを織り込む方が
すっきりしたと思うが。

ラヴェルの生涯について、
少し予習してから見たほうがわかりやすかもしれない。

冒頭、タイトルバックでの
「ボレロ」の様々な演奏が面白かった。
編中、「亡き王女のためのパヴァーヌ」を始め、
ラヴェルの曲が多用されている。

映画には出て来ないが、
最後に取り組んだオペラ「ジャンヌ・ダルク」は、
叶わぬ夢となった。
「このオペラを完成させることはできないだろう。
 僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、
 今の僕はそれを書くことができないから」
と述懐したという。

監督はアンヌ・フォンテーヌ
ラヴェルを演じるのはラファエル・ペルソナ


外見はぴったりだが、
何を悩んでいるのかはっきりしない。

5段階評価の「3.5」

TOHOシネマズシャンテで上映中。

以前、音楽イベントで、
国際フォーラムのホールAで
「ボレロ」を聴いたことがあるが、
最終盤の大音量で
反響がものすごく、
会場の空間が音楽のぶつかり合いになり、渦を巻いた。
音響的には良く設計されている会場のはずだが、
その想定を越えた音楽と思い、興味深かった。

私の世代には、「愛と哀しみのボレロ」(1981) の
モーリス・ベジャール振り付けによる
ジョルジュ・ドンの踊りが印象に残っている。

今も世界のどこかで15分毎に演奏、または踊られているのだとか。