空飛ぶ自由人・2

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私の映画体験

2023年01月26日 23時00分00秒 | 映画関係

それでは、昨日の映画紹介「エンドロールのつづき」で予告した、
私の映画体験を。

私の最も古い映画の記憶は、
「バンビ」だったと思う。
といっても、森の火事のシーンが憶えているくらい。

幼少期住んでいた伊豆の町から
電車で行く三島には、
5つの映画館があり、
私は三島大社の脇にあったエトアールという映画館で、
東映の三本立て映画に夢中になった。
「笛吹童子」とか「三日月童子」といった類の映画。
当時人気の中村錦之助より、東千代之介の方がお気に入りだった。

狩野川を渡った古奈には、
あやめ座という、映画館があり、
そこで、「七人の侍」を観た記憶がある。
座席ではなく、畳敷きの映画館で、
満員の中で「七人の侍」を観た。

小学校2年か3年の時だったと思うが、
父親が三島からおみやげを買って帰って来た。

それがおもちゃの映写機
60ワットの白熱球を入れて、
フィルム(ちゃんとした35㎜のもの)を装填し、
手廻しで回すと、
壁に映画が映った。
ディズニーのアニメで、
ミッキーマウスが輪の中を出たり入ったりした。
光源とフィルムとスクリーン
ああ、映画というのは、こうやって映しだされるのか、
と子供心に衝撃だった。
(あの機械、980円だったというが、
当時の貨幣価値では高価ったのではないか) 

しかし、近所に映写機など持っている家はなく、
唯一、持っていた同級生の家から
フィルムを借りてきて、
壁に映した。
海に浮かんだ水兵が泳いでいた。

フィルムが、ほとんど手に入らない。
では、作るしかない
紙を切って糊で貼り、
長いテープ状のものを作って、
それを一コマずつに線で区切り、
そこに馬の足の駆ける様を
少しずつ動かして描いた。
ただ、紙で、フィルムではないから、
映写することは出来ず、
想像の中で動かすだけだった。

やがて、本当にフィルムを作ることが出来る時がやって来る。
中学1年の時。
友達の家に8ミリカメラと映写機がやって来た。

それを借りて、フィルムを買い、
仲間と一緒に8ミリ映画を作った。
当時のヒット映画「地下鉄のザジ」(ルイ・マル監督 1960)を真似した
トリック撮影専門で、
レンズを半分隠して撮影し、
フィルムを巻き戻して、反対側を隠して撮影、
一人二役の合成画面を作ったり、
カメラの天地を逆にして撮影し、
フィルムを逆につないで、
食べ物が次々と口から皿に戻る映像などを作っていた。

中学の自由研究発表は、
映画の方式について。
シネラマやシネマスコープ、ビスタビジョンなどを
フィルムの実物付きで説明した。
同級生の父親が東洋現像所に勤めており、
フィルムの断片をもらうことができたのだ。

シネマスコープのフィルムを見た時の衝撃は忘れられない。
3台の映写機で投映するシネラマに対抗して発明されたシネマスコープ。
横長の画面を、普通の35㎜のフィルムにどうやって収めるのか。
撮影カメラの前に特殊なレンズ
(アナモフィック・レンズという)
を取り付けて、左右を縮小して記録し、
上映時、レンズの前に、同様のレンズを付けて、
左右を拡大して上映。
すごいことを考え、実用化したものだ、と感心した。

話を8ミリ映画に戻す。
当時のは16ミリフィルムの片側だけに撮影して、
終わるとこれを逆に入れ替えて、
残りの片側に撮影、
現像所に出すと半分に裁断してつなげた8ミリの形で戻って来た。
フィルムを送る穴(パーフォレーション)が片側にしか付いていないのは、そのため。
片側2分強で、一旦カメラを開けて逆転しなければならないから、
露光の危険があり、
黒い袋の中での手さぐり作業で
うまくフィルムを通すことが出来ず、
失敗の原因となった。

この操作をなくし、
どんな人でも撮影可能にしたのが「スーパー8」「シングル8」の登場で、
最初から8ミリの形でマガジンに入っていて、
カメラに装着すればよく、反転の必要がなくなった。また、フィルムの送り穴を小さくし、
画面の面積を1.5倍にして、
コマ数も1秒間に16コマから18コマにして画質を向上させた。
スーパー8はコダック社が開発。(1964年、昭和39年)
翌1965年にフジフィルムから発売されたのがシングル8。
カメラに装着すればすぐ撮影でき、
女優の扇千景(後の国会議員)がコマーシャルで言った
「私にも写せます」
が流行語になり、主婦層が8ミリカメラを手にした。
「マガジン、ポン! フジカ・シングルエ~イト」
というCMソングを覚えている方も多いことだろう。

その後、お金の続く限りフィルムを買って撮影し、
頼まれて学生団体の行事の記録映画を2本作ったことがある。
一つは山中湖畔で行われたセミナーの記録。
フィルムを巻き戻して「第1日目」「第2日目」などの文字を
映像に重ねるなどの凝った作りをしていた。

学園祭の様子を記録したものも作った。
この映画は、トーキーだった。

まだフィルムに磁気コーティングされるのが始まる前で、
8ミリ映画は基本、サイレントだった。
しかし、やはり音が欲しくなるのは自然だ。
テープレコーダーと連動させればトーキーにはなるが、
次第に音と映像がずれていくのが泣きどころだった。
オープンデッキテープのテープ駆動部分に
縞模様を張り付けてシンクロさせる方法など、
いろいろな工夫があった。

私のトーキーもテープレコーダーを使うのだが、
上映時、音と画像を見事に一致させた。
どうやったか?
語学学習用テープレコーダーの2チャンネルのテープの片側に
映像説明とカットの信号(舌打ちの音)を入れ、
もう一つのチャンネルにナレーションと音楽を入れる。
上映時は、
音楽や実音の音声をスピーカーから再生、
もう片方の説明の音をイヤホンで聴きながら、
映写機のスピード端子を微調整しながらシンクロさせる、
という方法。
音は速度を変えるとへんな音になるからそのままで、
誤魔化しの効く映像のスピードを調整したのだ。
舌打ち音とカットを一致させるのがミソ。

ついでに書くと、
テープレコーダーにまだステレオ音声がなかった時代、
ステレオで録音する方法を編み出した。
テープ録音というのは、テープの半分づつに録音して
往復で使用する。
そこで、2台のテープレコーダーを並べて置き、
それぞれにマイクを設置、
テープが1台目を通った後、
テープをひねって2台目の機械のヘッドに通すと、
テープの上下半分ずつに録音される。
つまり、2台の機械で2チャンネル録音。
再生するとちゃんとステレオになった。
おそらく世界で誰もしたことのないステレオ方式
(ただし、実用性なし)
を編み出した。

更に関連話題は続く。
昔、ラジオでステレオ放送があったのはご存じだろうか。
今は映画もラジオもテレビもステレオが当たり前だが、
昔(50年前)はモノラル放送しかなかった。

では、どうやってステレオ放送をしたか。

夕方、ラジオを2台用意して、
左のラジオを文化放送、
右のラジオをニッポン放送に合わせると、
ジャズやクラシックがステレオで楽しめた。
要するに、二つの放送局が提携して、
左チャンネル、右チャンネルに音を振り分けて放送したわけだ。
確かスポンサーはサンスイだったように記憶している。
我が家では、ラジオが同じ機種でなかったので、
音質が微妙に違ったが、
音が立体的に聞けることに、子ども心に興奮した。

いにしえの時代の技術者たちの工夫の産物だ。

話を8ミリ映画に戻すと、
そのうち、現像に出す時希望すると、
フィルムの端に磁性体を塗ってくれるようになって、
サウンドトラックを獲得。
録音再生が出来る映写機で、トーキー映画が出来るようになった。

それはさておき、
子供の頃の紙製フィルムは更に発展し、
架空の映画のクレジットタイトルを沢山作った。
あの巻物は引っ越しの繰り返しで無くしてしまったが、
残っていれば、宝だったろう。
ついでに書くと、
架空の映画上映会社を作って、
都内に多数の映画館を所有。
その1年分の上映スケジュールを作って悦に入っていた。
映像方式もシネラマかから360度映画
最後は全天周映画も作った。

1970年の大阪万博で360度映画や
1985年の、筑波万博の富士通館が全天周映画が登場する
遥か前に私の想像の世界では、
多数の映像実験をしていたのだ。


どうやら、私は職業の選択を間違えたようだ。
今でもアイマッククスや4DXやSCREENXなど、
新たな方式が出ると、すぐに行ってしまう。

やがてビデオ・テープレコーダーが登場し、
家庭用ビデオカメラが出来、
当初カメラと録画部分が別で
大重量に苦労した時代から
カメラと録画部分が一体となり、
8ミリビデオやVHS-Cの登場で軽量化が進み、
今は内蔵メモリーに録画する時代になった。
ビデオの編集もソフトの充実でお手軽に出来るようになった。
今ではデジカメやスマホで録画をする時代だ。
映像の保有もビデオテープからDVD、ブルーレイと進み、
今では配信で映画が見られる
こんな時代が来ることを誰が予想しただろうか。

それでも8ミリ愛好家は今でもおり、
さすがに撮影機は新しいのは出ないが、
フィルムの方は売られているという。

私の家には、映写機はないが、
編集機は残っており、
それで昔のフィルムを見ることは出来る。

というわけで、子供の時からの
私の映画体験。
「エンドクレジットのつづき」を観てて、
思い出したので、
ひさしぶりの「思い出ポロポロ」として掲載。

 



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