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カエサルの世界

今年(2019年)1月中旬から「休載中」ということになっているのだけど、まあ、ときどき更新しています。

・50年前の話(その2)

2014年06月26日 | ☆その他いろいろ 

 昨日、「50年前の話」というのを書いたわけだけど、けっこう面白かったわけです。じゃあ、「40年前の話」を書いてみようと思ったのだけど、40年前というと1974年ということになって、カエサルは高校2年だったわけです。その頃の話を書くとなると、たいへんです。恥ずかしすぎます。何もこの歳になって恥ずかしがることなんかないと思うのだけど、心の準備ができません。
 まあ、50年前の話(その2)ということで、小学校の3年生くらいまでのことを書いてみたいと思います。
 基本的な執筆方針としては、できるだけ都合のいいことだけを、できるだけ都合のいいようにして書く、と、そういうことにしたいと思います。間違い、勘違い、記憶違いのオンパレードということになるかも知れませんが、気にしないことにします。

 今回も、画像は本文の内容とは関係がありません。
 今回も、長いです。


 小学校に入学するとき、入学式だったのか、その前の予備登校みたいなのだったのか、教室に入ると、机の上に名前が貼ってあったのです。カエサルは、自分の名前をひょいと見つけて、ひょいと座りました。「カエサルちゃん、自分の名前が読めるんだ、すごいね」と言われたのを覚えています。「あたりまえじゃん」みたいな平気な顔をしていたと思いますけど、嬉しかったんですね。
 当時と今とでは教育事情が違うわけだけど、当時は、小学校入学の時点でひらがなを読むことができたというのは、けっこうすごいことだったんだと思います。カエサル、ひらがなは読めましたね。

 いつ頃のことかがよくわからないのだけど、兄とYちゃんとカエサルの3人で漫画雑誌を買っていたんですよ。Yちゃんというのは、新しい家の隣に住んでいた、兄よりも年上の、遠縁にあたるおにいちゃんです。Yちゃんが少年マガジン、兄が少年サンデー、カエサルが少年キングを買って、3人で回し読みしていたわけです。
 なかなか効率的なシステムであるとも言えるし、小学生たちが幼稚園児のおこづかいを有効活用していたと言うこともできると思います。でも、絵を見ているだけでも楽しかったというのは間違いないですね。それに、漢字にはルビが振ってあるので、ひらがなさえ読めれば、なんとかストーリーを理解することができるのです。結果として、ひらがなは読めるようになりました。これは、もうちょっと後の話になるけど、漢字も読めるようになっちゃいました。ただし、書けなかったんですけどね。

 これもおぼろげなんだけど、父から字の書き方を教わったという記憶があるんですよ。たぶん、母とかからは何度となく教わっていたと思うのですよ。でも、空気みたいな感じで、記憶がないんだと思います。「おとうさんもたまにはカエサルの勉強を見てやってくださいよ」みたいなことだったと思うんだけど、めったにないことだけに、印象に残っているんでしょうね。ひょっとしたら、一生涯でそのときだけだったかもしれません。
 教わったのは、ひらがなの書き方です。基本的には、すべての文字を書けたんだと思います。でも、間違うんですね。左右を反対に書いちゃったりすることがある。教われば直せるんだけど、そのうちに、また間違う。いったん間違うと、間違い続ける。と、そんな感じでしょうかね。まあ、子供として、あたりまえのことだったんじゃないかな。父も、ひらがなの書き方くらい教えられると思って、「どれどれ・・・」なんて感じで始めたわけですけど、つきあいきれなくなってしまったみたいです。その後、二度と教えてくれることはなかったんじゃないかと思います。


 子供が、自分一人で買い物に行けるようになるのは何歳ぐらいからでしょうか。たぶん、小学生くらいからだと思うんですけどね。10円玉を出して、5円のおつりをもらうという、そんな買い物でした。
 「ふーるや」という駄菓子屋がありましたね。そう読んでいました。面白いので「フール屋」ということにしましょう。店先には誰もいないので、買物をするときには店の人を呼びます。そのときの声のかけ方が「かあだ」というんですよ。「買うのだ」といったような意味だと思うんですけど、とにかく、「かあだ」と言っていました。この習慣はけっこう残ってしまって、けっこう恥ずかしい思いをしたことがあるような気がします。

 買い物の話で忘れられないのは、万引き疑惑をかけられたということです。これは、フール屋とは別の駄菓子屋ですね。
 10円のアイスクリームをとって、店の奥にいたおじさんのところに行って、10円玉を渡そうとしたのだけど、おじさんは誰かと話をしているところだったので、「ここに置くよ」と言って10円玉を置いてきたのです。店を出るときに、おばさんから「お金はどうしたの?」と聞かれたので、「おじさんに渡した」と言ったのです。
 その後、家に帰って、ゴロゴロしていたわけだけど、なんか、世間が騒がしくなってきたんですよ。なんと、「カエサルちゃんがお金も払わずにアイスクリームをとっていってしまった」ということになっているのです。おじさんに言った「ここに置くよ」も、おばさんに言った「おじさんに渡した」も、聞こえなかったみたいなんですね。置いたはずの10円玉も、どうなったのかわかりません。
 誰かに連れられて店に行って、泣きながら説明して、「わかった、わかった」ということになりました。でも、一度かけられた疑いというのは消えないですね。しばらくの間、「あの子、アイスクリームをドロボーしたのよ」みたいなことを言われ続けたような気がします。面と向かっては理解してくれたり、かばってくれたり、慰めてくれたりしたんだけど、そういう陰口が聞こえてきてしまうんですね。辛い日々を送りました。


 小学1年のときの担任は、シモカワ先生という女の先生でした。子供の目からすれば、ということですけど、年格好が母と同じなんですよ。容姿まで似ていたというわけではないのだろうけど、似ていなかったということでもないと思います。学校で、シモカワ先生を見ていて、「この人、おかあちゃんなんじゃないだろうか?」と思ったことがあります。家に帰って、「シモカワ先生って、おかあちゃんなんじゃないの?」なんて聞いて、笑われたという記憶があります。
 このとき、6歳でしょうね。6歳児の「人を識別する能力」って、どんなもんなんでしょうか。カエサルは、そういうのが劣っていたという気がするんですけどね。まあ、そうしたことの分析を試み始めるとキリがないので、やめておきましょう。

 この頃、誰と遊んでいたのかというと、記憶が混濁しています。兄やYちゃんに遊んでもらったという記憶はあります。
 杉鉄砲の作り方を教わって、上手くできなくて、悲しかったということがありますね。あれは、小学校の校庭だったような気がします。
 カナヘビを何匹もつかまえたこともありました。あれは、自宅(新しい家)でしたね。カエサルんちも隣の家も建てたばかりで、あるいは建てている途中で、境目とかがはっきりしていなくて、けっこう広い空間があったような気がします。
 兄たちの野球の試合に入れてもらったんだけど、ルールがわからなくて、ランナーを力尽くで止めてみたことがあります。兄の友人であるランナーは困ってしまって、兄から叱られました。どうして叱られているのかがわからなくて、悲しかったです。あれは、近所の旅館の広大な庭に入り込んで遊んでいたんだと思います。
 「道路」で遊んでいたこともありました。当時、アスファルトで舗装された道路というのは少なくて、舗装されているのが「道路」、舗装されていないのが「道」なんだと思っていました。あるいは、広いのが「道路」で、狭いのが「道」というイメージもありましたね。そうした道路にも、交通量の多いところと少ないところがあります。「道路で遊んじゃいけません」と言われてはいたんですけど、めったに車の来ないような道路はかっこうの遊び場だったわけです。

 そうしたことと相前後して、小学校の友達と遊んだという記憶もあるのですよ。何年生のときだったのかがよくわからないのだけど、下手をすると中学校のときの記憶と混同してしまったりもするのだけど、A君とか、B君とか、C君とかの家に遊びに行っていたことは覚えています。特に、自転車に乗れるようになってからは、毎日誰かの家に集まって遊んでいましたね。でも、自転車に乗れるようになったのは2年生くらいからかなという気がします。
 まあ、常識的に考えてみると、小学校に入るまでは年上の子供たちに遊んでもらい、小学校に入ってからは同い年の子供たちと遊ぶようになった、と、そういうことなのかな。


 小学2年のときの担任は、コミネ先生という女の先生でした。ベテランの先生でした。2年生になるとき、誰かから「コミネ先生は恐い」という話を聞いて、恐かったという記憶があるのですよ。誰から聞いたのかな。同級生かな。たしか、1年と2年ではクラス替えがなく、担任の先生だけが替わったんだと思います。普通なら替わらないはずなのに、転勤か何かで替わったということなのかもしれません。
 その「恐い」と言われたコミネ先生ですけど、叱られたという記憶はないのです。厳しい先生だったから、叱られるようなことはできなくて、叱られることはなかったというようなことなのかもしれません。あるいは、ちょっとやそっと叱られても気にしないような悪ガキになっていたという可能性もあります。その可能性も低くないと思います。
 学校の成績は、悪かったですね。いや、悪くはなくて、ふつうだったと思うんですけどね。兄は成績が良かったらしくて、それに比べると、カエサルは悪かったわけです。当時の小学校は5段階評定だったわけだけど、5はなし、4もあまりなし、ほとんどが3で、たいいくだけが1だったという気がします。兄は、5と4ばかりだったんじゃないかな。そういうことを面と向かって言われたわけではないけど、そういう話をしているのが聞こえて来たりはします。まあ、楽しくはありません。
 「遊んでばかりで勉強しない」ということは言われ続けたような気がします。でも、「勉強しなさい」とは言われなかったような気がします。言われていたんだけど気にしなかったのかもしれません。


 小学3年のときの担任は、ナカザワ先生という女の先生でした。ナカザワ先生、ごめんなさい・・・と、まず謝らざるを得ません。さんざん迷惑をかけてしまったんですよ。
 まず、最初に、Sちゃんのことでしょうね。3年になって、クラス替えがあって、同じクラスになった女の子です。同じように、3年になって同じクラスになった男の子たちと話をしていたときに、彼らがSちゃんの悪口を言うわけです。どのような話だったのかは覚えていませんけど、その話を聞いているうちに、カエサルも頭にきてしまったんですね。そこで、どうしたのかと言うと、いきなり、Sちゃんを殴ってしまったんですよ。
 放課後の、掃除の時間でした。カエサルは雑巾を持っていたのだけど、その雑巾というのは、雑巾として縫っていない、古い手拭いか何かをそのまま雑巾として使っていたもので、濡れています。その濡れ手拭いを、鞭のように振って、ピシャリと叩きつけてしまったのです。それが、ものの見事にSちゃんの顔に当たってしまいました。
 どうしてそのようなことができたのか、今でも不思議なんですけど、やってしまったものはやってしまったわけです。やりすぎてしまったと思ったし、悪いことをしたと思いました。周りにいた女の子たちや悪口を言っていた男の子たちからも白い目で見られました。もちろん、先生からは叱られたと思います。謝られさせられたと思います。謝ったと思います。その結果としてどういうことになったのかと言うと、表面的には、何事もなかったかのようなことになったわけですけど、「カエサルっていうのは乱暴な男の子だ」みたいな評判が定着したのではないかと思います。

 カエサルっていうのは、子供の頃から、身体が大きかったわけです。身長順に並ぶときは、いつも一番後ろでした。しかも、デブです。巨漢だったわけです。本人の意図にかかわらず、同級生たちからは一目もニ目も置かれてしまうわけです。
 でも、幼稚園では、おとなしい子供だったと思うのですよ。内弁慶というか、人見知りをするというか、そういう傾向が強かったと思うんですね。幼稚園のときに女の子からつばを吐かれたりしたのも、そんな「身体は大きいくせに、いくじなし」みたいなところをからかわれたんじゃないかという気もします。
 そういうのが、小学3年になったときに、イッキに、突然の暴発をしてしまった・・・というわけではないんだと思うのです。記憶に残るような事件にはならなかったけど、1年や2年のときにも、それなりに、そうしたことがあったんじゃないのかな。
 ケンカとか、イジメなどということになる前に、何となく、上下関係みたいなものができてしまって、表面的には何事もなくモノゴトが進んで行く・・・と、そういうことがあると思うのですよ。子供の世界だけのことじゃなくて、大人になってからも、どのような世界でも、そのようなことがあると思います。
 小学校に入ってからのカエサルは、そうした上下関係において、わりと上の方にいることができたんだと思うのですよ。そうしたところで3年生になって、クラス替えがあって、新しい上下関係が築かれようとしているときに、強がって、ムチャをしちゃったんじゃないかという気がするのです。あくまでも、思いつきの仮説です。このときのことは、その後の40年、何度となく思い返すことがあって、その度にいろいろなことを考えたりもするのだけど、基本的に、自分自信のダーティな面からは目を背けたいという思いがあって、まともに考えたことはないのです。ここでも、あえて結論めいたことを書くつもりはありません。やってしまったことはやってしまったことなわけで、思い出す度に罪悪感にさいなまれ続けるしかないんだと思います。


 なんか、まいりましたね。いったん書き始めたら、いろいろなことを思い出してしまうわけで、思い出したくないこと、忘れてしまいたいことが次々と出てきます。思い出しても書かないことにすればいいわけだけど、でも、あれだけは書かないわけにはいきません。
 小学3年の夏です。暑かったのです。直射日光が当たっていたからなんだけど、寒暖計が40℃以上になったこともあるんですよ。「先生、おんどけいが40度を超えちゃったよ」などと言いに行った記憶があります。そのような会話はふつうにできる、というか、むしろ積極的にできる子供になっていたような気がします。
 そんな、ある日。あまりにも暑いので、教室で机に向かって座っていることができなくなっちゃったんですよ。それで、ふらふらと立ち上がったんだと思います。教室の後ろの方で、床の上にゴロンと寝転がってみたら、ちょっとは涼しかったりしたわけです。授業中なんですけどね。
 「カエサルくん、席に戻りなさい」みたいなことを言われたと思います。「だって暑いんだよ」みたいなことを言い返したんだと思います。このへんは、まったくの想像です。そのまま想像を続けると、そのときは席に戻ったんだと思います。でも、その翌日か、数日後なのか、また暑い日があって、また授業中に勝手に席を離れて床の上に寝転がるということをしたわけです。そういうことを何度も繰り返すようになってしまったわけです。何回くらいやったのでしょうか。毎日のようにやっていたような気もするし、数回だけだったのかもしれないという気もします。
 暑かったんですね。デブのカエサルにとっては、特に厳しかったわけです。と、まあ、そういう状況はあったわけですけど、そのこと以上に、そうした行動が容認されてしまうという状況があったわけですね。
 転機になったのは、休み時間か、放課後か、上級生からそのことを言われたということです。「お前、授業中に床で寝ているんだって?」みたいなことです。上級生とは言っても、身体はカエサルよりも小さかったんじゃないかと思います。恐い上級生ということではありませんでした。むしろ、バカにしていたような上級生でした。この頃、こうした上級生たちとはときどきケンカをしていて、見下していたんですね。それだけに、なんか、ショックだったんですよ。自分がバカだと思っている相手からバカだと思われている・・・ということですね。しかも、言い返すことができません。バカよりもバカであるという事実を認めざるを得ないわけです。
 それで、床にゴロリというのをやめたのか、涼しくなってきてゴロリする必要がなくなったのかはわかりません。まあ、とにかく、やめました。


 その他にもいろいろと悪いことをしましたね。問題児だったと思います。でも、基本的な執筆方針に戻って、カエサルにとって都合のいいことだけを書きたいと思います。
 その頃、ということになると思いますけど、ずがこうさくの時間に絵を描いたんですよ。「はたらく人」というタイトルだったと思います。道路工事か何かをしている人をクレヨンで描いて、背景を水彩で描いたんだと思います。その絵が、県の展覧会で入賞しちゃったんですね。成績が悪かっただけではなく、問題児だったカエサルくんとしては画期的な出来事でした。
 図画工作で5をもらいました。それが生まれて初めての5ということではなくて、その前に、社会で5をもらったという気がします。やっぱり、嬉しいですよね。
 級長にもなったんですよ。それは4年生になってからかな。うん、そうかもしれない。1学期に教室の床で寝ていた問題児が、その年の3学期に級長というのはちょっとドラマチックすぎますよね。どこまでが3年生のときのことで、どこからが4年生のときのことなのかというのは、非常に曖昧模糊としています。クラス替えもなかったし、担任もナカザワ先生のままだったんですね。

 えーと、3年生のときにウルトラマンが始まって、4年生のときはウルトラセブンだったと思います。ちょっと調べてみましょう。
 えーと、1966年1月というのは小学2年の1月で、ここでウルトラQが始まって、小学3年の7月まで続いています。ウルトラマンはその7月から小学4年の4月まで。ウルトラセブンは小学4年の10月から小学5年の9月まで、ということのようです。いずれも、夢中になって見ましたね。
 ちなみに、ウルトラマンはカラー放送です。カラータイマーが変化するところを見てみたいと思って、友達の家に行って見せてもらったことがあります。カエサルんちにカラーテレビが入ったのは、小学6年くらいのときだったと思います。
 ついでなので、遡ってみましょう。鉄腕アトムのテレビアニメは1963年1月からということですから、小学校に入る前から始まっているんですね。鉄人28号のアニメも1963年10月から始まっているようです。ふーん、そうなのか。テレビのない家も多かっただろうから、子供たちの間でのマスト的な話題にはならなかったんでしょうね。アトムや鉄人の話をしたのは小学校に入ってからという気がします。あるいは、幼稚園のときは、そうした話のできる友達がいなかったのかもしれません。
 スーパージェッターは1965年の1月から、宇宙少年ソランは1965年5月から、オバケのQ太郎は1965年8月から・・・だそうですよ。調べ始めるとキリがありませんけど、いずれにしても、小学1~2年生のときの人気アニメで、3年以降はあまりアニメを見なかったんじゃないかな。「子供っぽい」と思えるようになってきたんだと思います。
 代わりにみるようになったのがウルトラシリーズであり、「青春とはなんだ」ですね。青春ドラマです。1965年10月から1966年11月の放映ということで、カエサルたちが小学2~3年のときということになるのだけど、大人気でしたね。ちなみに、原作は石原慎太郎さんです。ああいうドラマを書いた人が・・・と、そういう話はやめておきましょう(笑)

 カエサルの記憶にあるいろんなできごとがいつのことだったのか、テレビ番組から推し量ろうとしてみたのだけど、ちょっと無理ですね。だいたいはわかるんだけど、2年生のときなのか3年生のときなのか、3年生なのか4年生なのかまではわかりません。


 歌謡曲、流行歌は、よく歌いました。家や、学校で、その行き帰りなんかにも、人目をはばからずに大声で歌ったりしていたと思います。そういう子供だったと思います。
 城卓也さんの「骨まで愛して」という歌があります。1966年の1月にリリースされたんだそうです。この曲を歌っていて、子供が歌うものじゃない、なんて叱られたことがあります。たしか、小学校で歌謡曲を歌うことが禁止されたりしたこともあったと思います。表現の自由の侵害ですね。でも、先生のいないところで歌ったりするのは楽しかったですね。近くにいた友達から「あー、いけないんだぁ」なんて言われたりするのも楽しかったです。たしか、歌っていい歌とダメな歌があったりしたのだけど、その基準があるはずもなく、そのうち曖昧になっちゃったという気がします。
 この頃のヒット曲(ベスト10)というのを調べてみたんですけど、1960年~1964年あたりの曲は、たいてい歌えるとは言うものの、知らない歌もあります。1965年以降になると、すべて歌えますね。いずれの場合も、リアルタイムで覚えたんじゃなくて、ナツメロとして聞いて覚えたというのがあると思います。生まれる前の曲でも、けっこう歌えたりします。それでも、1964年までと1965年からでは、ちょっと違いますね。カエサルは、小学2年くらいから歌謡曲を歌うようになったと言って間違いないと思います。
 せっかくなので、1960年代の1位と2位を並べてみたいと思います。

1960年 ズンドコ節(小林旭)、霧笛が俺を呼んでいる(赤木圭一郎)
1961年 君恋し(フランク永井)、東京ドドンパ娘(渡辺マリ)
1962年 いつでも夢を(橋幸夫・吉永小百合)、琵琶湖周航の歌(ペギー葉山)
1963年 こんにちは赤ちゃん(梓みちよ)、見上げてごらん夜の星を(坂本九)
1964年 明日があるさ(坂本九)、君だけを(西郷輝彦)
1965年 君といつまでも(加山雄三)、涙の連絡船(都はるみ)
1966年 霧氷(橋幸夫)、星影のワルツ(千昌夫)
1967年 ブルーシャトー(ブルーコメッツ)、夜霧よ今夜もありがとう(石原裕次郎)
1968年 天使の誘惑(黛ジュン)、三百六十五歩のマーチ(水前寺清子)
1969年 いいじゃないの幸せならば(佐良直美)、夜明けのスキャット(由紀さおり)

 ちなみに、1970年代のベスト10はすべて歌えます。
 1980年代のもだいたいいけるんだけど、よく知らないのが混じってきます。
 1990年代は、かなり厳しいです。知っている曲もあるのだけど、カラオケで若い人たちが歌っているのを聞いて覚えたという感じですね。
 2000年代になると、もう無理・・・という感じですね(笑)


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