カエサルの世界

今年(2019年)1月中旬から「休載中」ということになっているのだけど、まあ、ときどき更新しています。

・青空文庫(4)ロハ台

2014年06月21日 | ☆読書とか    

 青空文庫を読んでいると、知らない言葉がたくさん出てきます。ちょっとやそっとの言葉は無視して読み進めることができるし、そもそもが難しい「漢語」などについては諦めるしかないわけですけど、時代とともに「死語」になってしまったような言葉にはなかなか面白いものがあります。
 たとえば、「省線」です。「線を省く」と書くわけですけど、前後の文脈からは意味がとれません。何のことだろうと思って調べて見ると、鉄道省(というのがあったらしい)の鉄道線が「省線」なんですね。後の「国鉄」で、現在の「JR」ということになります。
 あるいは、「ロハ台」です。公園などにあるベンチのことなんだけど、茶店などの席料を必要とするものに対して、無料(ロハ)の台ということで、そう呼ばれたんだそうです。面白いですよね。


 ここで、カエサルは考えてしまったわけです。どうして「ロハ台」という言葉がなくなってしまったのか、ということですね。そんなこと考えなくてもいいだろうという方もいらっしゃるだろうと思いますが、カエサルっていうのはそういうしくみになっているんですね。
 で、考えてみたわけですけど、たぶん、公園のベンチとかが無料であるということはアタリマエになってしまったので、「ロハ台」などという言葉がなくなってしまったのだと思うのですよ。
 ・・・ということは、当時は、公園のベンチが無料であるということがアタリマエではなかったということですよね。
 そこで、さらに、カエサルは考えてしまうわけです。


 松尾芭蕉は、その旅の途中で、「おい、曾良。そこのロハ台で休んでいこう」なんてことは言わなかったと思います。
 江戸時代には、「ロハ台」のようなものはなかったんですね。まったくなかったというわけではないだろうけど、一般的なものではなかったのだと思います。
 このことについては、ちょっと自信があります。時代小説で「ロハ台」という言葉を見たことはないし、そういうなものが登場する場面を読んだことがないわけです。休むときは茶屋・茶店で、座るだけで有料です。もしくは、地べたに座り込むということになります。


 そもそも、江戸時代には「公園」というものがなかったのですね。同様の機能をもつものとして「寺社の境内」があり、「馬場」というものもあったそうですが、そういうところに「ロハ台」のようなものはなかったんだと思います。
 公園(都市公園、造営物公園)というものができたのは、明治になってからなんだそうです。たぶん、このときに「ロハ台」が設置されるようになったんだろうと思います。
 一般人が無料で入れる公園があり、一般人が無料で座れるベンチがあるというのは、当時として、驚異的な出来事だったのだろうと思います。


 カエサルが自宅から歩いて行ったことのある公園というものを考えてみると、5つくらいあります。確認したわけじゃないですけど、どの公園にもベンチがあります。もちろん、無料です。
 このような公園の整備が始まったのは、戦後になってからのことだそうです。どこにでもあたりまえのように無料では入れる公園があり、無料で座れるベンチがある。そうなると、「ロハ台」などという言葉は消えていかざるを得なかったのだと思うのです。


 江戸時代 → 無料で座れるベンチのようなものはなかった。
 明治以降 → 無料で座れるベンチができて、みんなびっくり。
 戦後 →→→ 無料で座れるベンチがあるのがアタリマエになっちゃった。
 ・・・と、まあ、そんなところでしょうか。


 ある本でたまたま出てきた言葉ということであればともかくとして、いろんな作者の、いろんな作品に出てくる言葉ということになると、それでいてカエサルが知らなかった言葉ということになると、さすがに気になります。この記事では、その代表選手として、「ロハ台」に登場してもらいました。
 こういうのをきちんと調べたりしたら、りっぱな「研究」になるんじゃないかと思います。「ロハ台」という言葉が最初に出てきた作品、最後に出てきた作品。パソコンで検索をかけたりしたら、わりと手軽にできちゃうんじゃないかな。今、ひょいとやってみたら、夏目漱石(1867生)、芥川龍之介(1892生)、太宰治(1909生)なんて人たちは「ロハ台」を使っています。


 今回の記事、間違いとかも少なくないだろうと思うのだけど、「日本における公園およびベンチの研究」をやろうというわけじゃないので、勘弁してください。
 青空文庫を読みながら、そういうことを考えてみた、ということ。青空文庫を読んでいると、そういうことを考えてしまう、ということを言いたかったわけです。

 青空文庫に限ったことではないのだけど、小説などの中に出てくる些細な言葉に引っかかってしまって、本筋とは関係のない空想というか夢想というか妄想というか、そういうものが始まってしまうことがあります。よくあります。
 青空文庫の場合は、世相というか、庶民の生活の変遷というか、そうしたことについて、いろんなことを考えてしまうんですよ。

 学校とかではいろんなことを教わってきて、それなりに「現代史」についてのイメージをもっているわけだけど、そういうのが覆されちゃう・・・とまでは言わないけど、あれ、なんかちょっと違うな・・・みたいな、そんな感覚を味わったりするのは、けっこう楽しいです。


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