カエサルの世界

今年(2019年)1月中旬から「休載中」ということになっているのだけど、まあ、ときどき更新しています。

・東京時代

2013年12月11日 | ☆東日本大震災  

 「東京時代」というタイトルにしました。
 聞き慣れない言葉だと思いますけど、カエサル自身も聞いたことがないような気がします。まあ、奈良時代・平安時代・・・江戸時代に続いての東京時代という程度の意味なんですけどね。
 昨今の世の中の動きを見ていると、そういう視点からモノゴトを考えなくちゃいけないんじゃないかと思い始めているわけです。


 画像は、岡本綺堂先生です。
 先生は1872(明治5)年の生まれで、1939(昭和14)年に亡くなられた方です。戯曲・小説に数々の名作を残された方ですけど、『綺堂むかし語り』という随筆集があるんですよ。時代・世相の遷り変わりに関わる随筆を集めたもので、かなりのボリュームがあります。書かれている内容にしても、書かれた時期にしても、かなりの幅があります。そうした中に、「東京」の時代区分をしている文章があるのですよ。
 綺堂先生は「東京」について、関東大震災の前を「旧東京」、震災の後を「新東京」とすべきだとしています。さらに、旧東京を前期と後期に分けられるものとしています。意外にも思い、なるほど・・・とも思いました。
 旧東京の前期は、いわゆる「御一新」「明治維新」の時期で、江戸時代との混合期であり、混乱期と言っていいと思います。旧東京の後期は、江戸時代から独立し、新しい日本が確立していく時期ということになるでしょうか。カエサルは歴史とかに詳しい人ではないのだけど、そう言われてみれば、そうだったんだろうという気がしました。そのへんのところが、なるほど・・・です。
 でも、関東大震災の前後で旧東京/新東京とするというのは、ピンと来なかったんですよ。関東大震災が筆舌につくしがたい大災害だったということは理解しているつもりですが、その前後で世の中が変わったということについては、なんか、わからないのです。
 ひょっとしたら、水道とか電気とか道路とか、そういうインフラ整備が進んだということなのかな。そうしたことと相前後して、たとえば「サラリーマン」のような存在が出現したり、とか、いろいろなことを想像してみたりするわけですけど、詳しいことはわかりません。それだけに、「新東京」という言葉が印象に残ったんですよ。奇異に思ったりもしたけど、新鮮だったわけです。

 綺堂先生の時代区分をなるほどと思い、奇異に感じたりしたのは、それまでのカエサルの時代区分が「戦前」と「戦後」しかなかったからだと思います。
 カエサルは戦後の生まれなんだけど、その頃(カエサルが子供だったころ)の大人たちは戦前生まれの人だったわけです。そうした感じが、綺堂先生が言うところの旧東京の前期/後期と似ているなと思ったのです。
 カエサルは、戦前・戦後を「大日本帝国の時代」「日本国の時代」と呼ぶことがあります。たとえば、「終戦記念日という言い方はおかしい、敗戦記念日と呼ぶべきだ」なんて言う人に対して、「大日本帝国にとっては敗戦、日本国にとっては終戦」などと言ってきました。
 大日本帝国は明治維新から始まったわけですけど、「戦前」が明治維新から始まったわけではありません。じゃあ、いつから始まったのか・・・と考えてみることなんかなかったわけですけど、考えてみると、綺堂先生の言うところの「新東京」に一致するんじゃないかと思ったのです。
 つまり、「戦前」は、関東大震災から始まったことになるんじゃないかと思ったんですよ。話がちょっと先走りしちゃいますけど、それと同じことが東日本大震災から始まったんじゃないかと思ったのです。

 念のためにもう一回言っておきますけど、カエサルは歴史とかに詳しいわけではありません。政治とか社会とかについても同様で、安易に「戦前」などという言葉を使っていますけど、具体的にどういうことなのかを説明することはできません。軍国主義とか、治安維持法とか、言論統制とか、まあ、そういうこと・・・という程度の話しかできません。あえて言うならば、「ものすごく嫌な時代」ということになるでしょうか。
 その「ものすごく嫌な時代」は、関東大震災から始まったんじゃないかと思ったわけです。そして、強烈な暗合を感じてしまったのです。東日本大震災から、「ものすごく嫌な時代」が始まっているんじゃないか・・・ということです。


 関東大震災の後、第二次世界大戦がありました。大日本帝国にとっては敗戦、日本国にとっては終戦がありました。その戦前を「新東京」と呼ぶのであれば、戦後は「第二東京」と呼ぶべきだろうと思います。以下、この呼び方を用います。
 第二東京も、さらに細分することができると思います。たとえば、高度経済成長が始まるまでを初期とし、バブル崩壊の前後を前期・後期とする・・・みたいな感じですね。
 いずれにしても、第二東京は、平和で、自由で、豊かな時代であったと言ってよいと思います。もちろん、新東京や旧東京、江戸時代や平安時代に比べれば・・・という話ですけど、素晴らしい時代であったと思います。でも、そういうのが終わりつつあるのかもしれません。

 第二東京も、数々の天災に襲われました。関東大震災と同様に「大震災」という名称を冠せられたものだけでも、阪神淡路大震災と東日本大震災の2つがあります。いずれも、比類のない、筆舌につくしがたい、悲惨なできごとでした。しかし、その前後で国全体の構造が変貌した(しつつある)という意味で、関東大震災に匹敵するのは東日本大震災だと思います。
 震災があり、津波があり、原発事故がありました。被災地での惨状が伝えられ、復旧・復興が叫ばれました。復興の在り方についての議論は続いており、復興のための制度を悪用するなどという話が伝えられるものの、被災地での努力や助け合い、ボランティアによる支援などの話にも事欠きません。
 そうした中で、何か他のことが始まっているのではないかと思うのです。


 東日本大震災では、民主党政権が崩壊し、自民党政権が成立しました。
 このことは、大震災とは無関係で、時間の問題だった・・・と言えば、その通りかもしれません。でも、それを大震災が加速させたということも間違いがないと思います。
 あのとき、与党には、震災の復旧・復興がうまくいっていないという「実績」がありました。その一方、野党には、復旧・復興などがうまくいくという「可能性」があったわけです。そうしたときに、与党は民主党で、野党は自民党だったわけで、それだけのことだと思っていました。
 まあ、このへんについてはさまざまな見解があるだろうし、カエサルとしてもくちばしをつっこむつもりなどありません。ただ、民主党政権の崩壊はあまりにもみっともなかったし、自民党政権の成立は実に見事であったと思うばかりです。
 自民党も民主党も「寄り合い所帯」といったような意味では同じような体質をもつ政党だと思います。大政党のもつ宿命と言っていいかもしれません。しかし、東日本大震災という有事にあって、与党だった民主党がバラバラになってしまったのに対し、野党だった自民党は「一枚岩」と言っていいほどの体制をつくりあげました。あまりにも対称的でした。

 政権交代が行われたということ自体はよいことだと思っているんですよ。「意味のない政権批判」がなくなりましたからね。
 たとえば、アベノミクスと呼ばれるような経済政策があるわけですけど、評価する人がいてもいいし、批判する人がいてもいいと思うのです。でも、アベのやることはみんな悪い・・・みたいなのはまずいと思うんですよ。
 原発問題にしても、震災後の混乱しきった状況を考えるのであれば、落ち着いて議論をできる状態になりつつあると言っていいと思います。カエサル個人としては「絶対反対」なのですが、この記事ではそのことに触れないことにします。
 消費税の増税については、これもカエサルは反対なのだけど、自民党のやり方は見事だったと思います。結論を出さずに議論をさせておいて、世論が賛成に傾くのを待ちました。民主的なやり方だったと思うのですよ。
 しかし、そうした中にあって、「軍国主義への回帰」と言うべき流れが強まりました。今後、ますます強まりそうな気配です。このことは看過できないと思っているのです。


 具体的な話をしましょう。「特定秘密保護法案」です。
 突然言い出して、ろくに審議もせず、強行採決、強行採決の繰り返し。あまりにも酷いと思いました。法案自体の問題もさることながら、その進め方。いくら何でもこれはないだろうと思いました。
 パブリックコメントで8割が反対、公聴会では全員が反対、公私のいろんな団体が反対を表明し、賛成しているのはネトウヨさんだけと言ってもいいような状況。修正協議で賛成したはずの野党も退席するという中での強行でした。唖然とするしかありませんでしたね。
 そうした中で、自民党・公明党は「一枚岩」の結束を堅持したのです。あの人は反対してくれるだろう・・・と期待した人もいたわけですけど、ダメでした。これは、怖いことだと思いました。

 たぶん、あくまでも「たぶん」ですが、このようなこと(数の力を頼ってのごり押し)は、そう何度もないと思います。今後は、国民のみなさんの意見をよく聞いて、野党の皆さんとも十分に協議を重ねて・・・という姿勢を見せてくれるんじゃないかと思います。
 特定秘密保護法案の場合、与党の予想を超えて、反対の声が強かったのだと思います。時間をかければかけるほど反対の声が高まり、修正に修正を重ねて骨抜きにされてしまうか、廃案に追い込まれるかだという判断があったのだと思います。そうした状況での、刹那的な強行だった思うのです。最初から、世論も野党も敵に回して強行しようというつもりだったとは思えません。
 だから、こういうことは、二度とない・・・わけではないだろうけど、そう何度もあるわけではないと思うのです。
 たぶん、あくまでも「たぶん」ですが、本人たち自身が「今回はちょっとしくじったな」なんて思っているんじゃないでしょうか。反省していると思います。
 実に、恐ろしいことです。

 自民党・公明党は・・・という言い方は適切ではないかもしれません。採決の際には退席したものの、修正協議に応じた政党なんかもありますからね。「自民党や准自民党」という言い方をした方がいいのかな。その中にも心ある人はいると思うのだけど、でも、党議に拘束されて反対できないなら同じことだな。この言い方を使ってみましょう。
 自民党や准自民党の打ち出している方向性は、かなり明確です。目標は「改憲して軍隊をもつこと」と言っていいと思います。究極的には、徴兵制を施行して、他国を侵略する・・・なんてことがあるのかもしれないけど、そんなことは言わないはずです。あくまでも、防衛のため、国民の生命を守るため・・・などという言い方になると思いますけど、そういうオタメゴカシはどうでもいいですね。彼らは、この日本国を、軍事力を有する「ふつうの国」にしたいと考えているのです。
 改憲、解釈改憲による集団的自衛権、日本版NSC、武器輸出の解禁、教科書検定の強化・・・などなど、次から次と打ち出して来ています。この後も続くでしょうけど、今回の秘密保護法みたいなのは特例で、行けると思えば進み、無理だと思えば引っ込み・・・というのを繰り返すはずです。
 彼らは、2年や3年でケリをつけようなんて思っていないはずです。次の選挙でも勝つつもりでいるはずなんですよ。そのための対応をとってくるはずだし、それこそが怖いところです。


 「ふつうの国」という言い方は、ステキだと思います。アメリカやロシアのことですね。国際紛争を解決するための手段としての戦力を用いている国、用いることのできる国ということになると思います。そういう国になりたい・・・という人がいても、不思議ではないと思います。
 でも、カエサルは嫌ですね。絶対に嫌ですね。
 この国は、日本国は、そうした戦力をもつことができない「美しい国」です。「ふつうの国」などではありません。
 それが、日本国民としての誇りというものではないでしょうか。そうした国であるということを守るのが、この国を愛するということ、「愛国心」というものなんじゃないでしょうか。

 まあ、このへんの話は、言葉の綾にすぎません。そういうことをわかっていながら、あえて、「愛国心」なんてことを口にする人たちに逆らってみました。
 「愛国心」という言葉を口にする人たち、怖いんですよ。本当に嫌だなと思います。でも、彼らはしたたかなんですよね。
 ネトウヨさんとか街宣右翼の方のことを言っているわけではありません。この国には思想信条の自由があり、表現の自由があるわけですから、彼らは彼らでいいのです。カエサルのことも放っておいてもらえばいいと思います。でも、自民党や准自民党の人たちに対しては、そういうわけにいきません。
 彼らは、震災前に与党だったとき、教育基本法の改正を行いました。あの美しい法律に「愛国心」という言葉を挿入したのですね。それは、それで、誰からも文句がつけようがなかったわけです。大きな反対もなく、すんなりと通ってしまったわけです。カエサルとしても、ただの言葉の綾と思っていたわけです。
 それが、今回の教科書検定の強化に関して、「教育基本法の改正の趣旨を理解していない出版社がある」などと言い出してきたわけですよ。改正したのは2006年のことなんですけど、それから7年を経て使い始めたわけです。正直なところ、凄いな・・・と思いました。こういうのが、彼らのやり方なんですね。


 こういうこと、政治的なことっていうのは、このブログでは書きたくなかったんですよ。
 複数の人がいて、何かをしようとすれば、誰かは得をして、誰かは損をするわけです。それを調整するのが「政治」というものだと思うんだけど、誰かが得をして、誰かが損をするというのは避けられないわけです。
 カエサルとしては、カエサルが得をするようなことには賛成だし、カエサルが損をするようなことには反対なんだけど、そうじゃない人もいるわけだし、そんなことを書いたりしても、お互いに嫌な思いをするだけだと思っているんですよ。
 でも、今回の「特定秘密保護法案」に関しては、本当に唖然としたし、本当に怖いと思いました。かつ、彼らが「次の選挙でも勝つつもりでいる」ということを考えると、いてもたってもいられない思いになってしまったわけです。そういうことを一切書かないで、動物園やYOSAKOIのことだけを書き続けるというのも苦しくなってしまったのですよ。
 まとまりのない文章だということは十分に承知しています。でも、この「第二東京」が「新東京」みたいになってしまうのは絶対に嫌だ・・・ということだけは書いておきたいと思ったのです。
 
 
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