13年前の私と今の私は微妙に違う。前文を読み直して、これが所謂ストーカーの心理についての考察であった、と思い出すのに少し時間が掛かった。言葉遊びだったのだろう。ブログを始める時に感じた躊躇いは、自分の文章が世間に広がる事で自分の裸を世界に晒すかのような驕りが有ったからなのだが、自分のブログが何万人ものブログ作成者達の中にあっという間に飲み込まれていくのをブログサイトで目にすると、個人的な、或いは家族的な環境を個々に持っていれば良いのだな、とも思える。何万人、何十万人ものブロガー達が存在すれば、消えてゆく何千人、何万人のブロガー達も居るかも知れない。書くのに飽きてしまったり、インターネットが使えなくなってしまったり、実際のところ急死した人のブログが誰も知らない遺書となって存在していたらどうなるのかと考えると眠れなくなってしまう私なのである(ウソ)
日記を書く習慣は無かった。今も毎日書けると思っていないが、こんなメモのような物が残っていると過去の自分が少し客観的に見えるような気もする。92.3.28 他所の人とは家族以外の人であり、他人とは自分以外の人である、として自分を位置付けると、世間は狭い。同じ町内に住む人達、同じ会社で働く人達、仲が良くても他人、理解し合えるのは顔と名前程度、何を考えているのか解らない。見る事、聞く事、読む事で自分も共感できると思った時、その誰かと理解し合えると錯覚する。複数の人間と会話を繰り返して世間が広がったような気になる。テレビタレントなどの露出度の高いマスコミ業界人は多数の人間から支持され、理解されるのが商売だが、それも人間ひとりの錯覚の延長である。