続き薄茶が終わると、止め炭です。これまた夜咄ならではの趣向となります。
箱炭斗を持ち出し、釜を上げ、直して炭をつぎ、香をたく。これは、茶事は終わりに近いですが、連客にどうぞごゆっくりとの心遣いからつぐものです。一方、客はその心遣いを有り難く思いながらも、長居することなく席を辞することを考えなければならないので、客側からは立ち炭になると言われます。席の最後に煮え立つ釜を拝見して、楽しかった時間に思いを馳せる、なんとも贅沢なひとときです。
席の最初に前茶として普段は水屋でしか見ない道具を持ち出すことで客を温かくもてなすという趣向、最後に止め炭として客をごゆっくりと楽しませひきとめる趣向、よく考えられているなと思いました。
夜咄茶事について、疑問点はたくさんあり、先生がお元気になられたら伺うべく書き留めました。
今回も勉強の為、記録に残したいと皆様にお断りして写真を撮らせて頂いたのですが、懐石の途中で電池がきれてしまいました。これも夜咄のよさをフラッシュなどたかないで味わいなさいという神様の思し召し、残念ではありましたが、お蔭で漆黒の夜の幽玄のひとときを堪能しました。古の茶人はもっと寒く、暗い中、この夜咄茶事を楽しんだのでしょう。気楽な仲間で集まり、冬の夜長を心行くまで堪能する贅沢。きちんとした道具が揃わなくとも、気のおけないメンバーで和ろうそくの光だけで冬の夜を過ごす空間を作ってみたいと思いました。ネオンに慣らされた現代人には新鮮な一瞬となること間違いなしです。
ここのところ先生に定期的に茶事を経験させて頂いたお蔭で、少しずつ様々なものをみる余裕も感じられるようになり、それと同時に、普段のお稽古の大切さもつくづく感じるようになりました。やはり普段のお稽古を丁寧に行うこと、本番の場数を踏むということは大切なことと思います。弟子の成長に合わせて勉強の場、気づきの場を作って下さる先生に感謝しています。
夜咄茶事は普通の茶事よりもお道具も必要、和ろうそくを使う為、火にも十分気をつける必要があり手間がかかります。京都の高台寺では冬の間、気軽な形とお値段で夜咄茶事が楽しめるようです。本格的な懐石ではなく点心ですが、私もいつか気の置けない友人と参加してみたいと思っています。今年はもう終わってしまいますが、来年、お近くの方は夜咄の雰囲気だけでも楽しみに出かけられてはいかがでしょうか。
高台寺の夜咄茶事
http://www.kodaiji.com/event/yobanasi2006.html
それにしても“夜咄”って、“話”でもなければ“噺”でもない。この3つの漢字の差はなんなんでしょうねぇ。ご存知の方、教えて下さい。
箱炭斗を持ち出し、釜を上げ、直して炭をつぎ、香をたく。これは、茶事は終わりに近いですが、連客にどうぞごゆっくりとの心遣いからつぐものです。一方、客はその心遣いを有り難く思いながらも、長居することなく席を辞することを考えなければならないので、客側からは立ち炭になると言われます。席の最後に煮え立つ釜を拝見して、楽しかった時間に思いを馳せる、なんとも贅沢なひとときです。
席の最初に前茶として普段は水屋でしか見ない道具を持ち出すことで客を温かくもてなすという趣向、最後に止め炭として客をごゆっくりと楽しませひきとめる趣向、よく考えられているなと思いました。
夜咄茶事について、疑問点はたくさんあり、先生がお元気になられたら伺うべく書き留めました。
今回も勉強の為、記録に残したいと皆様にお断りして写真を撮らせて頂いたのですが、懐石の途中で電池がきれてしまいました。これも夜咄のよさをフラッシュなどたかないで味わいなさいという神様の思し召し、残念ではありましたが、お蔭で漆黒の夜の幽玄のひとときを堪能しました。古の茶人はもっと寒く、暗い中、この夜咄茶事を楽しんだのでしょう。気楽な仲間で集まり、冬の夜長を心行くまで堪能する贅沢。きちんとした道具が揃わなくとも、気のおけないメンバーで和ろうそくの光だけで冬の夜を過ごす空間を作ってみたいと思いました。ネオンに慣らされた現代人には新鮮な一瞬となること間違いなしです。
ここのところ先生に定期的に茶事を経験させて頂いたお蔭で、少しずつ様々なものをみる余裕も感じられるようになり、それと同時に、普段のお稽古の大切さもつくづく感じるようになりました。やはり普段のお稽古を丁寧に行うこと、本番の場数を踏むということは大切なことと思います。弟子の成長に合わせて勉強の場、気づきの場を作って下さる先生に感謝しています。
夜咄茶事は普通の茶事よりもお道具も必要、和ろうそくを使う為、火にも十分気をつける必要があり手間がかかります。京都の高台寺では冬の間、気軽な形とお値段で夜咄茶事が楽しめるようです。本格的な懐石ではなく点心ですが、私もいつか気の置けない友人と参加してみたいと思っています。今年はもう終わってしまいますが、来年、お近くの方は夜咄の雰囲気だけでも楽しみに出かけられてはいかがでしょうか。
高台寺の夜咄茶事
http://www.kodaiji.com/event/yobanasi2006.html
それにしても“夜咄”って、“話”でもなければ“噺”でもない。この3つの漢字の差はなんなんでしょうねぇ。ご存知の方、教えて下さい。
冬の京都は寒くてなかなか出かける気にならないのですが、こういう楽しみ方もあるのですね。
一般的なのは”話”ですよね。
”噺”は国字で音読みはないそうです。物語とかいった意味で使われている感じがありますね。
”咄”って私の中では”噺”よりは短い物語、というイメージがあります。「口から出た」って書きますし、即興で出たイメージです。
”咄”って中国では叱る、という意味なんだとか。
これを話とするのは日本だけのようですね。
こちらのページを見ると、心事を放つ意味で「放す」を話の語源とする説があるとか。
こういう意味であえて”咄”が使われているのなら素敵だなと思いました。
http://gogen-allguide.com/ha/hanashi.html
冬の京都は特別拝観もあり、寒いだけに味わいもあり、大好きです♪
高台寺の茶事は2年前ほどに知ったのですが、まだ未体験です。
咄の由来、ありがとうございます。心事を放つ、確かに夜長に自分の心に思うことを仲間と語り合うという意味で繋がる気がします。
咄 トツ【漢】
しかる
{解字}形声。出が「こら」と注意を呼び起こす音声表す。トツは出の転音。
{字義}①しかる。したうち。またその声。②やぁ。呼びかける声。③おや。驚き怪しんで発する声
〈国訓〉はなし。はなす。
噺 はなし(国字)
{解字}会意。口と新から成り、新奇な話をする意を表す。
{字義}はなし。ものがたり。説話。
なるふぉど 落語家だから 噺家というのですね
話 ワ【呉】
はな(す)
{解字}く古が古い字形で右は舌(ゼツ)ではなく形声 辛(かつ)が正しい。 カツの転音が音を表し、良いの意の語原(佳)からきている。佳言、古来伝わる善言の意。はなしの意に用いるのは、昔話は良い教訓のことばであるところからきている。
{字義}①はなし。「談話」②はな(す)。かた(る)。つげる。③ものがたり。④よいことば。
なんとなく 頷ける。
広辞苑とか 漢和辞典 意外とおもしろい
調べて書いて下さってありがとうございます。
本当になんとなく頷けます。
咄には身近な気軽な話というような雰囲気を感じますね。
そういえば、止炭をした後に、わが仏、隣の話、嫁姑、戦(政治)、人の良し悪しは話してはいけないと、茶事をして下さった場所のご主人が教えて下さいました。折角いいお茶事をして最後に下世話な話をしないように、ということでしょう。
身近で気軽、つい口から出てしまう話であっても節度を持って夜咄を楽しみたいものです。
蝋燭の揺らめきはタマリマセンね。今秋には頑張らなくてわ! と思うのですが田舎では一から全部自身で用意しなくてはならずおつくうの原因なのです。そういう点都会の方は羨ましいです。
お稽古の間とも呼ばれ 松の太い床柱は 家元柱 と呼ばれ お稽古を家元に見ていただく時 家元がこの床柱を背にして座られる
「こらこら」と優しく ご教授下さる
そんな気がいたします
初めての夜咄は感動の連続でした。
本当に、私達は懐石や道具の準備は全てお店の方がして下さるので楽です。これを全部最初からとなると気が遠くなりそうです。
あの和蝋燭の世界は病み付きになりそうな美しさでした。
そうですね、ご宗家には咄々斎。
それぞれの家元の名前の由来もゆくゆく知りたいと思っているところです。
>「こらこら」と優しく ご教授下さる
いいですね。
私もそんな瞬間をいつか体験したいものです。
夜咄に 塗蓋の水指は 好まれない
黒い塗りが 一層暗さを招き 魔を呼ぶと
北海道では 又違った雰囲気があるのかなぁ
ハイ お家元 丁度今時季ですと 雪原に月が反射して文字が読めるほどです
おぉそうかぁ~~
なるほどぉ ここは入側も在るからなおさら暗い
それなら 塗りの蓋使ってもイイかもしれないね
なぁこうして 稽古すると皆さんからそこの土地のこと聞くことが出来る いい勉強が出来る
と
夜咄では 黒いのは あまり好まれないようですね
床に払子下げる のもやはりそんな心が働いてるのかもしれませんね
>夜咄に 塗蓋の水指は 好まれない
>黒い塗りが 一層暗さを招き 魔を呼ぶと
そうなのですか。それは知りませんでした。
教えて頂きありがとうございます。
ただでさえ、席が暗いので黒い道具は見えづらいというのもあるのかもしれませんね。
>なぁこうして 稽古すると皆さんからそこの土地のこと聞くことが出来る いい勉強が出来る
お家元がそのようなお考えをなさるのは嬉しいことですね。確かに土地によって様々な自然現象や趣があるでしょうから、お道具にも一定の決まりはあっても使い方は働きで如何様にも変化していいのでしょうね。
時間や光の具合、季節で異なる茶事、様々な楽しみ方を知るほどにもっと色々知りたくなります。