高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」37

2022-10-07 14:26:22 | 翻訳
124頁

(ヴィオレット) マダム・ルプリユールは間違ってらっしゃらないと思うわ。

(ジェローム、大袈裟すぎる様子で。) この同盟は何ということだ? (立ち上がって。) それに、突然思い出したんだが、ぼくは明日までにスペイン舞踊に関する論説を提出する約束があるんだ。それを仕上げなくちゃ。失礼します、マドモアゼル。(出てゆく。



十一場

アリアーヌ、ヴィオレット

(ヴィオレット、乾いた声で。) はっきり申します… それは出来ません。

(アリアーヌ) 何が出来ないと? 

(ヴィオレット) 自分でもどうしてだか解りません、突然。あなたがすべてをご存じであることを、わたし、彼に言いませんでした。

(アリアーヌ) あなたは約束を守らなかった、と。それはとてもいけないことでしたね。


125頁

(ヴィオレット) それでも、わたし、そうしていたら… でも、分かりません… わたしは何も解決させなかっただろうと、わたし、感じているのです… 反対に。

(アリアーヌ) それはほんとうね。

(ヴィオレット) どうして、そう思うことができますの?

(アリアーヌ) あなたの直観は私の直観と一致するのです。

(ヴィオレット) まあ! わたし、直観などありません。意識がゆるんでいて。それだけですわ。

(アリアーヌ) その反対だと私は思いますよ。

(ヴィオレット) いやですわ。それで、あなたは… わたしには、あなたが解りません… ある時はわたし、あなたを誰よりも讃嘆しますが、ある時は… 

(アリアーヌ) え?

(ヴィオレット) 言葉がありません。当惑します。そう、まるで、わたし、倒れたみたいに。ぞっとします。どんな説明もしてくださる必要はありません。それどころか、あなたはどんな説明もわたしにしてくださることは出来ないと、わたし、思います。でも… ほとんど信じられないくらいのこの寛大さは… それから、あなたが強いたこの約束… そしていまのこの静けさ、すくなくとも表面的にはあるこの晴朗さ、これをあなたは守ることができていらっしゃる。わたしのほうは、自分のことを思うと… そう、このすべて、そしてほかの多くのこと… (つづく)


126頁

(つづき) わたし、あなたに決して充分に言えません、どれほどわたしが、あなたとお近づきになったことだけでも、分に過ぎると感じているか。あなたを裏切ったこのわたしが… それでも、どうかわたしにお情けを…、わたしにお教えください。

(アリアーヌ) 私を讃嘆してはいけません。そして、もうひとつの、あなたが名づけることができないでいらっしゃる感情にも、ご自分を委ねてはならない、と私には思えます。いいですか、先ず、あなたが気を付けておられない事実があります。私は何年もの間、身体上の試練を忍ばなければならず、その試練を通過してきましたが、私の思うに、そういう試練を通過したなら、生というものを熟考しないことは不可能なのです… 言葉が正確ではありませんが、生をまったく新しい仕方で評価しないことは不可能なのです。ええ、そうです、さまざまな価値が違ってしまうのです。私が言おうとしたのは、道徳上のある種の取り決めは、健康を享受している人々によってしか、受け入れられ承認されることは出来ない、ということなのです。病気は、ヴィオレット… まあ! 私、勿論、どんな意味でも、病気がひとつの特権だとか、私たちに少しの免除でも与えるものだとか、言うつもりはありません。でも、私が私自身によって確かめることが出来たこと、それは、病気というものは、世界、つまり或る種の自然な秩序に対する、私たちの立ち位置を、変容してしまうものだ、ということなのです。それはまるで、私たちがそれまではうっすらと気づくことも出来ていなかった事物の一面に、はっきりと気づくようなものです。それは多分、世界のもうひとつ別の次元なのです。

(ヴィオレット) もしそれがほんとうなのでしたら、それは、それでも、特権ですわ。




















マルセル「稜線の路」36

2022-10-07 14:03:00 | 翻訳
121頁

(ジェローム、情熱的に。) ぼくは、思い上がりにはぞっとする。思い上がりは、ぼくが多分この世でいちばん嫌うものだ。ぼくたちは、自分に嘘をつくためにしか、他人に嘘をつくことを止めない ― そしてそういう嘘こそ、最も軽蔑されるべき嘘だ。

(ヴィオレット) あなたは公平ではないように、わたしには思えるわ、ジェローム。

(ジェローム) 生は公平だろうか? 

(ヴィオレット) 生… 生… それはひとつの作り話以外のものなの? 多分、けっきょく、生とは、わたしたちが生のなかでそれを見いだすのが、わたしたちに相応であるようなものでしか、決してないのよ。

(ジェローム) ぼくらに相応の… (不信げに。)アリアーヌの言葉みたいだな。


第十場

同上の人物、アリアーヌ

(アリアーヌ、少し用心深すぎるようにしてドアを開けたところである。) ごめんなさいね。あのソナタ集を見つけることがもう出来なくなっていたの。(つづく) 


122頁

(つづき)多分、私が貸して、返してもらっていないのね。(掃除婦が盆を持って入ってくる。)待って、エリーズ、この小円卓を片付けるから… ジェローム、手伝ってよ… いちばん困るのは、調律師が約束を守らなかったことね。私のピアノはほんとうに随分狂っているみたいだわ。あなたの処へ行くほうがよかったわね。あなたのプレイエルは素晴らしいわ。

(ヴィオレット) わたし、あのピアノを手放さざるをえないでしょう。

(ジェローム) 何だって? 

(ヴィオレット) 偶然にでも、買い手がいるかもしれないという話を、あなたがたがお聞きになられていたら…

(ジェローム) でも、ありえないことだ…

(アリアーヌ) あなたの伴奏練習のために… 

(ヴィオレット) わたしの処で練習することはほとんどありません。友人が、自分の使わないアップライト・ピアノをわたしに貸してくれるでしょう。それでまったく充分ですわ。

(アリアーヌ) がっかりしますわ。

(ヴィオレット) 必要なことなんです。悲劇でも何でもありません。

(ジェローム、失言して。) ぼくは慣れていたんだ、(つづく)


123頁

(つづき)あのピアノに。(ふたりの女性は、この失言に気づかないふりをする。

(アリアーヌ) ともかく、あなたの決意が揺るがないのでしたら…

(ヴィオレット) はっきり申し上げますが、ほかにどうしようもないんです。

(アリアーヌ) 私の周りでもそのことを話してみますわ。それに、もう或る当てがありそうな気がしています。

(ヴィオレット) どうもありがとうございます。ご親切ですわ。

(アリアーヌ、ヴィオレットに紅茶茶碗を差し出して。) お茶が濃すぎなければいいのですが。すこし水を足せますよ。

(ヴィオレット) ちょうどいいです。どうも。

(アリアーヌ) ねえ、あなたのほうは、不眠だと言うのだから、ごく薄くしたお茶をあげるわ。そのうち、お茶の代わりに… 例えばココアにするのがいいわね。

(ジェローム) 何というアイデアだ!

(アリアーヌ) オランダのトレードマークのものが最高よ。請け合うわ。

(ジェローム) お茶はぼくの眠りの妨げになったことはない。