高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」41

2022-10-09 16:23:46 | 翻訳
136頁

(つづき)他の人々が彼の立場なら、私の健康状態をもって、自分の義務から自分は解放されたと見做す口実にしたでしょうに、ジェロームは、私が病気になったその日から、それ以前よりもいっそう固く自分は私と結びついていると感じているのです。

(ヴィオレット) 当然ですわ。

(アリアーヌ) そうお思いになるということは、あなたはあまりよく男性というものをご存じないのでは?

(ヴィオレット) わたしなら、ジェロームと同じように感じるでしょう。

(アリアーヌ) あなたは女ですね。私が彼を解放しようとして、私に出来るどんな試みをしても、どんなにはっきりと白紙委任を彼に与えても、その結果は、一種の信任の感情が、いっそう威圧的に、いっそう破壊的になることでしかないでしょう…

(ヴィオレット、力を入れて。) でも、粗雑な良心も、威圧的なのではないですか?

(アリアーヌ) あなただけなのです、彼をそこから解放できるのは。それこそ、私がまさしくあなたから期待していることなのです。私は、おそくとも二週間後に再び山地へ発ちます。私たちは、あなたがジェロームと一緒に何週間か平穏な場所で過ごすための方法を見つけなければなりません。あなたがたのことを誰も知らない場所で。(つづく)


137頁

(つづき)それに、モニクちゃんのことも考えなければなりません。あの子のことについて私はあなたに、きょう、時間をかけて話すつもりでした。いま、深く掘り下げてみるべき考えが私に浮んでいるのです。グルノーブルの近くに、子供たちのために働いているひとりの男性がおりまして、私は彼が仕事を立ち上げるのに寄与しました。私は、あなたがあの子のそばのその地で、ひと月過ごすことができるようにします。これは普通では無いことですが、できないことではありません。そこから二十分で行ける処に、私の知っている立派な女性が経営している宿泊施設があります。ジェロームもそこでは穏やかでいられるでしょうし、彼の好む食餌療法を簡単に得ることができるでしょう…

(ヴィオレット) でもそれは不可能です… だいいち、そのような合流が、あなたによって欲され、前もって練られたものであることに、ジェロームがどうして気づかないことがあるでしょうか?

(アリアーヌ) あなたの言うことは多分正しいでしょう。この件は危なっかしいことです。よく考えてみなければなりません。

(ヴィオレット) ほかのこともあります。あなたがわたしたちに与えてくださる、こういう許しは、わたしを傷つけるものです。もし、この許しが、激励のおつもりなら、それは… そう、この許しはわたしを憤慨させます。

(アリアーヌ、威圧的な優しさで。) —— まるで、あなたは私を非難しているようですね…

(ヴィオレット) あなたは、わたしを理解しようとなさらない… ともかく、これらすべてのことには、間違った何か、不自然な何かがありますわ。


138頁

(アリアーヌ) 不自然な、ヴィオレット、ええ、そうであるかも知れません。でも、自然は公正でしょうか? 自然に慈悲があるでしょうか? どうして自然状態は、蛹が破って出なければならない繭のようではないのでしょうか? 

(ヴィオレット) もし、あなたがわたしを信用することにしてくださるのでしたら、わたしを指導するのをやめることにしてくださるのでしたら… 

(アリアーヌ) そのほかの望みは私にはありません。ただ、私にはあなたが充分に強いひとだとは、まだ到底感じられないのです。あなたは私に、ジェロームが苦しんでいる粗雑な良心のことを話されました。私は、そういう良心が活発でひとを苦しめているのは、とりわけあなた自身においてだと思います。そのこと、そのことだけを、私はあなたにおいて恐れます、愛しいひとよ。自分に信仰はない、と、あなたは私にはっきりおっしゃいました。間違ってはいないのですか? いずれにせよ、あなたを苦しめているのは、何か高次の法に背いたという恐れではないのですか?

(ヴィオレット) いいえ。

(アリアーヌ) では、あなたがご自分に罪があると判断することに固執なさるのは、私に向き合ってなのですか? 

(ヴィオレット) 分かりません。なにも説明できません。わたしに思えることは、あの嘘が…

(アリアーヌ) でも、よく考えてください。(つづく)

















マルセル「稜線の路」40

2022-10-09 16:01:14 | 翻訳
133頁

(ヴィオレット) あなたは、そのことを過去に向けて語るのを止められませんね。

(アリアーヌ) あなたは、どんなことにも、不安の種しか探さないのですね。

(ヴィオレット) わたしが不安の種を探すにはおよばないのです… それに、あなたは正しい。すべては過去のことです。あなたの信じられないほどの寛大さも、何も変えるものは無いのです。袋小路ですわ。この先… (ヴィオレット、泣き崩れる。

(アリアーヌ、優しく。) では、私のことをそんなにも悪く解されたのですね?

(ヴィオレット) とてもよく解りました。あまりにもよく。

(アリアーヌ) あなたは彼にまだ長い間必要でしょう。

(ヴィオレット、ぼんやりとして。) やがて乳離れの時が来たとき、それをわたしに告げるのはあなたなのですか?

(アリアーヌ) 何を言われたの? 乳離れ? 私、よく聞き取ったのかしら?

(ヴィオレット) あなたは分かっていらっしゃいます、わたしが理解したと…

(アリアーヌ) いいえ、ねえあなた、あなたの気位の高さが反抗しているのですよ。私が、あなたに与えられたと思える、彼の人生の中であなたが演じる役割のことで、あなたを羨まないとお思い? 私は、あなたの役割を深く羨みます。それでも、私は嫉妬していません。(つづく)


134頁

(つづき)なぜなら、この羨みのなかには、僅かの辛さも恨みも入っていないからです… それでも、ひとりの女にとって、運命から裏切られた自分を知ったことは、酷いことではありませんか?… 

(ヴィオレット) でも、あなたはご自分が最も優位の立場にあることを確信していらっしゃいます。

(アリアーヌ) 多分、実際には、私次第でしょう、その立場が最も優位のものであるかどうかは。それにしても、どんな条件で? 私の立場が最も軽蔑すべき立場になるには、エゴイズムか個人的意志の一かけらでもあれば、充分でしょう。

(ヴィオレット) わたしが、あなたに、自己犠牲という特権を許しておくつもりかどうか、お分かりになりますか?

(アリアーヌ) ヴィオレット、私は自己犠牲のことを話題にしたことは一度もありません。私は自己犠牲に不信感をもっています。自己犠牲を信じません。私たちは、私の許容しない不具化か、あるいは、私の忌み嫌う内面的な嘘によってのみ、幸福を放棄するのです。

(ヴィオレット) でも、それでは… 

(アリアーヌ) 私は、私の周囲に、自己犠牲をする人々を見てきました。その自己犠牲は、この自己犠牲から恩恵を受けるはずだった人々自身の上に、呪いのように重くのしかかりました。自己犠牲から生じることのできるような調和は、存在しないのです。

(ヴィオレット) 解りませんわ。


135頁

(アリアーヌ) もし、私があなたの愛のために自分を犠牲にしたならば、自分で知らないうちに何かの代償か褒美を私が期待しないことは不可能でしょう。この秘められた計算は、私たち三人の間に、曖昧さや嘘の空間をつくってしまうのに充分でしょう。そしてもし仮に、奇蹟的に私が自分自身の中の報酬への希望をすべて根絶するに至ったとしたら、多分、私は救いようのない悲しみに沈んでしまい、私がどんなに努力しても、ジェロームはすぐに、その悲しみの原因を見抜くことでしょう。

(ヴィオレット) 曖昧さ、嘘、それをあなたはひどく恐れていらっしゃって、ジェロームのことに言い及ぶことでしか、それを散らすことができないのですね…

(アリアーヌ) 分かりませんか? それは見かけだけでしか当たっていないのですよ。実際には、曖昧さや嘘は、その形を変えさせることしかしないのです… 真実は、譲れる事物でも、伝えられる事柄でもありません。私には、ジェロームに納得させることは出来ないでしょう、私は、彼に都合がいいような自己犠牲には同意しない、ということを。この自己犠牲についての彼の考えは、我慢のならないものなのです。

(ヴィオレット) あなたはわたしをも納得させていませんわ。

(アリアーヌ) 私たちを結びつけている関係のなかで、ここが難しくて痛々しいところなのですが、ジェロームはほかのことではやりたい放題でも、自分は私に恩義があると思うことは、けっして止めたことがないのです。(つづく)