下関から船で関門海峡に浮かぶ、巌流島(佐々木小次郎×宮本武蔵の世紀の決戦場)へと行きます
武蔵と決闘した「舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった
決闘が行われた当時の巌流島は現在の1/6、の17,000㎡ で、その後明治から大正にかけて埋め立て工事が
行われ、現在では103,000㎡ になったそうです
*左側の佐々木小次郎「旧名 岩流」は三尺の白刃を手にして決闘に挑み、右側の武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒したとある。
このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。
*宮本伊織の碑文によると、上記のように巖流島の決闘で小次郎は即死しているが、決闘の60年後の沼田家伝によると決闘で武蔵は小次郎を殺すに及ばず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに殺されたとある。小次郎の弟子らも決闘で負けたことを恨み武蔵を襲撃するが、沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとある。決闘に至った理由も、弟子らが互いの師の優劣で揉めたことが発端と記されており、過激な門人らの争いが一連の騒動を引き起こしたとされている。
*伝記により、内容も変わっている
小説やテレビなどで、今なお語り継がれている武蔵 & 小次郎、
実際に来て見ると、瀬戸内海に浮かぶ静かで小さな島で剣豪同士の戦いが繰り広げられたなどとは
想像もつきません
てな事で、剣豪たちのお話でした。