590『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代社会主義国の経済改革の実際
1961~65年からのソ連を初め、1960年代からソ連・東欧の社会主義国で、経済改革が取り組まれる。その前提と、改革の評価については、さまざまな観点から批評が寄せられてきたところだ。ここではまず。あまたある、それらの中から幾つかを紹介したい。
○社会主義経済論が専門の野々村一雄の見解から
「1966年1月から実施しました経済改革は、これまで上からの命令指標が三Oもあったものを八つに減らしました。真の分権化とは、中央から企業におろすあらゆる指標をなくすことであると考えますと、八つに限定したことは、いわば腰だめ式に分権化を実施したものと考えていいと思います。
一九六六年に三〇ぐらいから八つにへらされた指標は、一九七六年までにじりじりと八つから一三になっています。こうなりますと現在のソ連経済は完全に集権型の経済です。企業長は常に上を向いて歩けです。上のいう通りに生産するのが企業長で、そうすれば出世も致します。そこから政治的腐敗も起こってくると思います。」(野々村一雄「ソ連社会主義経済の問題点」:国際労働運動研究協会「国際労働運動」1984年8月号、No.157)
○ソ連の経済学者イェ・リーベルマンの見解から
「生産品の中央集権的計画化と計算価格の体系が、企業の収益性による刺激および褒賞といかに結合されるか。」(イェ・リーベルマン他著、園部四郎訳「ソ連経済政策ー利潤論争と工場管理」合同出版、1966)
「要約すれば、各種企業が「手を出す」必要がないときには、計画経済の最高のタイプへの移行がきずかれている。企業に道がしめされ、照らされる時には、企業はこの道にそって「市場の錯乱」につまづかないで、大胆に進めばよいので。(中略)ある程度、われわれの中央集権的計画経済は戦略であり、われわれの独立採算制は社会主義経済学の先述である。」(同)
○チェコスロバキアの経済学者W・ブルスの見解から。
「最も発達した社会主義諸国で発展の動態がもっとも強く阻害されたのも、偶然とは思われない。チェコスロバキアでは1961年~65年の年平均成長率は先行する5年間の7%に対し2%であり、ドイツ民主共和国では同様に、8%に対し3%であった。より高度な経済水準およびそれと関連するより複雑な構造のため、集権モデルの批判で通常あげられるあらゆる欠陥がとくに強くあらわれたのである。すなわち、企業において技術進歩をたえず促進するメカニズムが欠如していること、需要構造に対する生産構造の適応面での弾力性が不十分なこと、生きた労働と対象化された労働の支出の減少、質の向上に対する感応があまりにも少ないこと、などがそれである。」(W・ブルス著・佐藤経明訳「社会主義における政治と経済」岩波現代選書、1978)
○ハンガリーの経済学者コルナイの見解の紹介から
「ソビエト時代の経済を見ればわかります。財政は事実上赤字で通貨は増発され、物価は公定であるために、過剰需要が一般化しました。それが物不足、行列という形をとっていたことは、今ではよく知られています。ハンガリーの経済学者コルナイはこれを「不足の経済」とよびました。ソビエト崩壊のはるか以前です。計画経済のいう名のもとで、政治の恣意的経済支配は、おうおうにして大きな財政赤字をひきおこし、通貨膨張をひきおこがちです。」(伊東光晴「日本経済の変容ー論理の喪失を超えてー」岩波書店)
○丸尾泰司の見解から
「スターリン時代の計画経済では、生産物の一切が中央国営市場を通じて、公定価格で販売されていました。価格が改訂されないと、需給の均衡点への収束が起こらず、供給過剰(需要過少)のときは、資本移動がスムーズにいかないものです。また、供給が不足していても、価格が変化しないので供給意欲がそがれてしまいます。
これらは非効率は国民にとって耐え難いたえがたいものだったでしょうか。生産物を隠匿して値上がりを待ち受けたり、ヤミ市場に横流しして利益を貪ったりする者は重罰に処せられたので、こうした不正は少なかったのではないでしょうか。この非効率と、インフレや失業からくる非効率を天秤にかければ、価格の硬直性による非効率により国民経済が被る不利益は耐え難いものではなかったのではないでしょうか。
それと、当時はまだ生産物の差別化が進んでいない、少品種大量生産の下では消費者の嗜好によってそれほど売れ残るということはありませんでした。広大な国で資源も豊富であるため、社会主義共同体の中以外では、国際経済関係との調整をさほどに考えなくてもよかったのです。」(丸尾泰司「ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み」ブログ)
(続く)
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