232『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの独立(独立戦争から独立へ)
1775年4月18日、「レキシントンの戦い」と呼ばれる軍事衝突があった。5月にはフィラデルフィアで第2回大陸会議が開かれて、陸軍が組織される。最高司令官には、ジョージ・ワシントン(1732~99)が任命された。1776年1月、強い啓蒙思想を持った文筆家トマス・ペイン(1737~1809)はパンフ「コモン=センス(「常識」)」を発表し、アメリカの世論を独立の方向に向け、王政ではなく、共和国を作ろうと民衆に呼びかけた。1776年7月4日、大陸会議が開かれ、トマス・ジェファソン(1743~1826)は、本国からの独立に関する内容を起草し、「独立宣言」として発表した。イギリスの哲学者ジョン・ロック(1632~1704)による、全ての人は同等につくられているとの「自然権」の理念に裏打ちされた社会契約説の大いなる影響があった。極めつけは、暴政に対する革命権の正当性の主張であって、この後のフランス革命による「人権宣言」(1789)とともに、近代民主政治の基本原理となる。
すでに1776年に、独立勢力は、ベンジャミン・フランクリン(1706~90、後にアメリカ合衆国憲法起草委員)をフランスに駐仏大使として派遣しており、フランス政府(ルイ16世)から金銭・物資の援助を受けていた。1778年の独立勢力は、フランスと同盟を結ぶ。フランスはこれの独立を正式に承認し、イギリスに宣戦するに至った。翌年には、スペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦し、翌1780年にはオランダもイギリスに宣戦することになった。1781年、ヴァージニア州東岸の町ヨークタウンで、植民地軍とフランス軍はイギリス軍を包囲し、これを降伏させた。このヨークタウンの戦いで、独立戦争は終息に向かう。1783年のパリ条約で北米植民地13州と本国との間で平和条約が締結され、その第1条で「独立の承認」がなされた。
「英国国王陛下はアメリカ連合諸邦、すなわち、ニューハンプシャー、マサチューセッツ湾、ロードアイランドおよびプロヴィデンス・プランテーション、コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアが自由にして独立な主権国家であり、そのようなものとして扱い、自身もその世継ぎも継承者も、同諸邦およびそのいかなる部分についても、施政、財産、領土上の権利に対するいっさいの権利主張を放棄することを認める。」
ここに植民地の独立が承認され、ミシシッピ川以東のルイジアナをこれに割譲した。そして、ここにアメリカ合衆国が誕生し、初代の大統領には独立軍の指揮に功労のあったジョージ・ワシントンが就任した。
参考までに、このアメリカ建国に参集した13州の表記の意味するところについては、作家の三浦朱門氏の説明に耳を傾けたい。
「17世紀になると、フランスのルイ14世はパリを嫌って、郊外にベルサイユ宮殿を造り、貴族の生活を維持するために側近の従者をつれて移住してしまう。
王の存在が権威を示すものになる。彼の言葉といわれる「朕(ちん)は国家なり」は、現在からすると誤訳とはいえないまでも、当時は国家という意識はなかった。彼の言葉の「国家」はフランス語では「エタ」と言うのだが、英語でいえば「ステイト」である。
これは「状態」が本来の意味で、「現在の体制」「支配」とも解釈できる。18世紀の末に独立したアメリカ13州のうち10州は「ステイト」と称した。これは植民地とはいいながら、もはや英国が支配する地域ではなく、この土地として自立的な体制を作っている、といった宣言でもある。
他の三つの州は「コモンウェルス」と称した。これは共有財産という意味である。つまりここは英国の所有ではなく、この土地を開拓して都市と農地と牧場を開いた人々の共有、という宣言でもある。共和国を英語で「リパプリック」と言うが、これはラテン語の「レス・プブリカ」が訛(なま)ったので、「レス」は物、「プブリカ」は公共の、という意味だから、「コモンウェルス」というのは、このラテン語の直訳である。」(三浦朱門「老年の流儀」海竜社、2011、50~51ページ)
こうした強烈な自由への志向性があったからこそ、このアメリカ独立戦争が戦われ、その影響がやがてフランス革命となって、人類史が人民の、人民による、人民のための政治へとその歩を進めていけたのだと考えられよう。
(続く)
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231『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの独立(独立戦争前夜)
1765年、ヴァージニア植民地議会で「代表なくして課税なし」(No taxation without representation)が僅差で決議された。パトリック・ヘンリ(1736~99)が提唱した。ヴァージニアに課税する権限を持っているのはヴァージニア植民地議会だけである事、など7項目があった。1865年、イギリスはガラス・ペンキ・紙・鉛・茶の課税を定めた。しかし、これに関しても本国製品の不買運動などで茶税以外は撤廃となった。1770年、ボストン(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)で本国の軍隊と、ボストン市民が衝突し、5人の市民が虐殺された。1773年、本国議会は、茶税に関して修正し、自国の東インド会社に限ってアメリカ植民地へ輸出する茶の税を免除した(これを茶法(Tea Act)という)。これは、同社に茶の独占販売権を与えることに繋がる。
そして迎えた1773年12月16日、インディアンに変装した市民がボストン港に入港していた東インド会社船を襲撃した。茶の積み荷342箱を海中に投げ込んだ。これがボストン=ティーパーティー(ボストン茶会事件)として現代に語り継がれるものだ。イギリス政府は、報復としてボストン港封鎖・マサチューセッツ自治権剥奪・軍隊駐屯・移住制限などの4つの条例による抑圧で臨んだ。これで本国と植民地との争いは、いよいよ抜き差しならぬものとなった。1774年9月、かつてウィリアム・ペンが建設したフィラデルフィアに植民地の代表が結集し、第1回大陸会議を開く。イギリスに対して通商を断絶することを宣言した。
1775年3月には、パトリック・ヘンリが武装蜂起を呼びかける「自由か死か」演説を行った。以下はその演説の一部である。
「みなさん、事態を酌量してみても無駄です。みなさんは平和、平和と叫ぶかもしれません。しかし平和えはけっしてありません。戦争はもう実際にはじまっています。北方から吹きまくるきたるべき強風は、いまやわたくしたちの身に高鳴る武器のひびきをもたらすでありましょう。わたしたちの同胞はすでに戦場にあります。(中略)みなさんは何をしたいと思っておられるのでしょうか。鉄鎖と奴隷化の代価であがなわれるほど、生命は高価であり平和は甘美なものでしょうか。全能の神よ、(中略)わたくしに自由を与えてください。そうでなければわたくしに死を与えて下さい。」(今津晃『アメリカ独立革命』至誠堂)
(続く)
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203『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの絶対王制
中世から近代へのヨーロッパの歴史を顧みるに、「フランスの絶対王制」と呼ばれるものがある。その国名の表記の由来については、作家の三浦朱門氏に説明願おう。
「17世紀になると、フランスのルイ14世はパリを嫌って、郊外にベルサイユ宮殿を造り、貴族の生活を維持するために側近の従者をつれて移住してしまう。
王の存在が権威を示すものになる。彼の言葉といわれる「朕(ちん)は国家なり」は、現在からすると誤訳とはいえないまでも、当時は国家という意識はなかった。彼の言葉の「国家」はフランス語では「エタ」と言うのだが、英語でいえば「ステイト」である。
これは「状態」が本来の意味で、「現在の体制」「支配」とも解釈できる。18世紀の末に独立したアメリカ13州のうち10州は「ステイト」と称した。これは植民地とはいいながら、もはや英国が支配する地域ではなく、この土地として自立的な体制を作っている、といった宣言でもある。
他の三つの州は「コモンウェルス」と称した。これは共有財産という意味である。つまりここは英国の所有ではなく、この土地を開拓して都市と農地と牧場を開いた人々の共有、という宣言でもある。共和国を英語で「リパプリック」と言うが、これはラテン語の「レス・プブリカ」が訛(なま)ったので、「レス」は物、「プブリカ」は公共の、という意味だから、「コモンウェルス」というのは、このラテン語の直訳である。」(三浦朱門「老年の流儀」海竜社、2011)
こうした強烈な自由への志向性があったからこそ、アメリカ独立戦争が戦われ、その影響がフランス革命となって、人類史が人民の、人民による、人民のための政治へとその歩を進めていけたのでしょう。
(続く)
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37の3『自然と人間の歴史・世界篇』原始共産制
一説によると、長い人類の歴史のうち、「原始共産制」と名付けられる時期があった。原始共産制から奴隷制、それから封建制を経て資本制社会、さらに共産制社会(その低次示のものが社会主義社会といわれる)へと続くというのだ。旧石器時代とか新石器時代などという時代区分がまだ当てはまらない、そんな古(いにしえの)かつ未確認の人類世代が生きた時代のことなのであろうか。
ここでは、仮にそんな時代のアフリカ大陸を想像をたくましくして覗いてみたい。その一部は、人類の発祥地といわれている。そのため、今日でも時々新たな人類史の発見があるようで、例えば2012年春、次のような火の使用の始まりについての記事「100万年前に火を使用=原人が洞窟内で料理か―南ア」時事通信 4月3日配信(電子版)より引用」
「南アフリカ北部にある洞窟で、人類が約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べたとみられる跡が見つかった。カナダ・トロント大などの国際研究チームが2日までに灰や骨などを詳細に分析した成果で、米科学アカデミー紀要電子版に発表する。自然発火の山火事などの灰が風や雨水に運ばれて洞窟に流入したのではなく、人類が火を使ったことが確実な証拠としては最古という。
この洞窟はカラハリ砂漠の南端に近い場所にある。この人類は原人のホモ・エレクトスとみられ、石器も一緒に見つかった。歯や骨格の化石を詳細に分析した最近の研究では、ホモ・エレクトスが出現した約190万年前には火を使って料理していた可能性があるという。」
この記事を伝える英文記事の出所を探訪すると、次のとおりだ。
“Microstratigraphic evidence of in situ fire in the Acheulean strata of Wonderwerk Cave, Northern Cape province, South Africa
Abstract
The ability to control fire was a crucial turning point in human evolution, but the question when hominins first developed this ability still remains. Here we show that micromorphological and Fourier transform infrared microspectroscopy (mFTIR) analyses of intact sediments at the site of Wonderwerk Cave, Northern Cape province, South Africa, provide unambiguous evidence—in the form of burned bone and ashed plant remains—that burning took place in the cave during the early Acheulean occupation, approximately 1.0 Ma. To the best of our knowledge, this is the earliest secure evidence for burning in an archaeological context.”
(:http://www.pnas.org/content/early/2012/03/27/1117620109.abstract(この記事を伝える英文記事の出所))
(続く)
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