102『自然と人間の歴史・日本篇』武士の登場
追捕使(ついぶし、ついぶくし)、押領使(おうりょうし)そして検非違使(けびいし、けんびいし)は、日本の律令制下の役職であって、平安時代における武士の台頭と大いに関係があった。
932年(承平2 年)に摂政の藤原忠平が追捕海賊使のことを定めたのに始まる。令外官(りょうげのかん)の一つとして設けられたもので、主として、兵を率いて戦いに赴いたり、治安の維持にあたる。臨時の地方官であり、国司や郡司の子弟で武芸に秀でた者を中心に任じられていた。940年(天慶3年)に平将門の乱が勃発すると、東海・東山・山陽の3道にこの職がおかれた。代表的な追捕使に、「承平天慶の乱」で藤原純友の鎮圧に当たった小野好古(おののよしふる)がいた。世情が定まらぬ中、国司の管内にも設置されて次第に常置の官となっていく。常設されてからは、国司が追捕使を兼任したり、地方の豪族が任命されたりすることが多かった。12世紀末ごろになると、惣追捕使(総追捕使)として、一国の警察・軍事的役割を担う官職があらわれ、追捕使の職務は引き継がれた。さらに、1190年に源頼朝が日本国惣追捕使に任命され、惣追捕使の任免権が鎌倉殿に移り、守護に発展していった。
また、押領使というのは、朝廷の「領」を安んじる意味あいからの命名であろうか。当初は、令外官(りょうげのかん)として、国司・郡司・土豪などから臨時に任命したが、天暦年間(947~957)の頃から常置の官となる。令外官の一つで、警察・軍事的官職なのだが、元は795年、防人の移動に携わる。とはいっても、当初の職務は兵を率いたのみで、実際の戦闘には関わっていなかったという。やがて職務内容が、移動させる兵の戦闘等の指揮官へと変化していく。押領使は、基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が任命されていく。そういう成り行きで、地方の暴徒の鎮圧から盗賊の逮捕まで迄幅広くこなすようになっていく。
三善為康編『朝野群載』には、武士の起源の一つとなる、追捕使(ついぶし)、押領使(おうりょうし)について、それぞれにこうある。
「従五位下総守(しもうさのかみ)藤原朝臣有行誠に○れ、誠に恐謹んで言す。
特に天恩を蒙(こうむ)り、先例に因准(いんじゅん)し、押領使を兼ね行ひ、ならびに随兵三十人を給せられんことを請ふの状。右謹みて案内を検ずるに、当国隣国の司等、押領使を帯び、ならびに随兵を給はりて、公事を勤行(ごんぎょう)すること、その例尤も多し。近きは則ち前司従五位下菅原朝臣名明、天慶九年八月六日の符(ふ)に依りて、押領使を兼ね、ならびに随兵三十人を給はる。凡そ板東諸国の不善の輩(ともがら)、所部(しょぶ)に横行し、道路の間、物を取り、人を害す。かくの如き仏○(ぶっそう)日夜絶えず。・・・・・若(も)し凶党の輩有らば、且は以て追捕(ついぶ)し、且以て言上(ごんじょう)せん。有行誠に○れ、誠に恐謹んで言す。天暦四年(950年)二月二十日」(三善為康編『朝野群載』は平安時代後期の成立で、同時代の宣旨・官符・詩文などを含む)
吉田兼好は、鎌倉時代末期(14世紀前半)に世に出した随筆集の中で、「なにがしの押領使」に言及している。
「筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおおね)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。
ある時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来たりて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追い返してげり。いと不思議に覚えて、「日ひごろここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ。」と問ひければ、「年ごろ頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う。」と言ひて、失せにけり。
深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。」(吉田兼好『徒然草』六十八段)
この奇妙な寓話(作り話)をわざわざ披瀝している真意については、わからない。最後の「深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ」からは、その人物は、大根も加勢にする程の長年にわたり武力を誇示していたのだろうか。
さらに検非違使であるが、こちらは「非違(非法・違法))を検察する天皇の使者」の意で設けられている検非違使庁の令外官の役職である。京都の治安維持と民政を所管する要職であったが、平安時代後期には令制国にも置かれるようになっていく。
「院人・家人の闘乱」につき、『小右記』(平安時代の公卿藤原実資の日記であり、「小右」というのは、小野宮右大臣(実資本人)のものという意味)にはこうある。
「長徳三年四月条
十六日己酉、右衛門督示し送りて云く。宰相中将と同車し左府より退出するの間、華山院の近衛面数十人、兵仗を具して出で来たり、乍ちに□を持たしむる牛童を捕え篭む。また雑人ら走り来たりて飛礫す。その間の濫行云うべからず、者り。驚奇極りなし。
十七日庚戌、(中略)或者云く。検非違使ら、勅によりて華山院を囲み、去夕濫行の下手人を申すと云々。この間慥かな説を得がたし。院の奉為に太だ面目なし。積悪の致し奉るなりと云々。或いは云く。下手人らもし遂に出さしめ給わずば、院内を捜検すべきの由綸旨あり。この事左衛門尉則光(検非違使。また彼の院の御乳母子なり)。彼の院に通ずと云々。嗷々の説記すべからず。」
(続く)
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