595『自然と人間の歴史・世界篇』南北問題(プレビッシュ報告の帰結)
プレビッシュ報告はこうしたすう勢を踏まえ、発展途上国の一次産品に係る貿易の拡大を促すため、主に次のような提案を行いました。
その1として、先進国側の関税など貿易諸障壁の緩和、撤廃。その2として、一次産品の輸入目標の設定。その3として、一次産品の輸出・価格安定のための国際的商品協定の締結。その4として、発展途上国の製品や半製品に対する特恵関税制度の採用。その5として、交易条件の悪化によって輸出所得が減少した国に対し、その損失を補うための補償融資(救済資金の供与)制度の導入。その6として、先進国の援助額の増加と借款条件の緩和。その7として、国連の機関としての新しい貿易機構の設置。
要するに、この報告では発展途上国の一次産品輸出の停滞や交易条件の悪化と、そのことによる発展途上国の開発と発展の行きづまりを憂慮する姿勢を打ち出しています。この視点は広い意味での「南北問題」に通じるものです。すなわち、一次産品価格の暴騰現象が発生するまでの一次産品交易条件の推移を分析して、一次産品交易条件が長期的にかなり大幅な落ち込み傾向を示しています。
しかし、こうした世界市場での一次産品貿易改革を盛り込んだプレビッシュの名を乗せた提案は、その後の世界経済において、実質的にはほとんど進展させることができませんでした。1960年代から1970年代初頭にかけては、南北問題にかかわる沢山の国際会議が持たれましたが、先進国側は幾つかの譲歩のほかは自らの主張を曲げようとせず、発展途上国側の不満は募るばかりでした。
ここで一次産品というのは、概ね自然から採取されて高度の加工が施されていない天然産品のことをいい、具体的には、SITC(標準国際貿易分類)の第0~4類と第68類の食料・飲料類、非食用原料、油脂、鉱物性燃料、金属、鉱産物などが含まれます。例えば、同報告の後、砂糖やココアなどの若干の商品については国際商品協定の締結で需給と価格の調整が少しながらはかられました。ただし、1974年秋の第一次石油危機を契機に産油国の資源ナショナリズムが爆発的に強まってからは、この一次産品定義うちの鉱物性燃料を除いて一次産品とする考え方が一般的となりました。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
594『自然と人間の歴史・世界篇』南北問題(プレビッシュ報告の真実)
1964年3月~6月、プレビッシュ報告(Prebisch Report)が出されました。この報告は、ジュネーブで開催された第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)総会の討議資料として、R.プレビッシュ同会議事務局長が提出した『開発のための新しい貿易政策を求めて』を指しています。
そこで、この報告でいう交易条件に説明に移りますが、その国の輸出財の平均価格PXと輸入材の平均価格PMとの比、TOT=PX/PMをもっていい、この比率が上昇すると自国の貿易が改善に向かっているとみなすことができます。また、これに関連して 交易利得という言葉がありますが、こちらは、交易条件が変化することで生まれる貿易の利益(実質額)のことです。いま輸入物価に対して輸出物価が上昇(即ち交易条件が好転)すると、自国から同じだけの輸出を行った時、交換される海外からの財やサービスの輸入品の量は増加しますが、この増加分が交易利得となります。GDP統計では、実質GDI(国内総所得)と実質GDPの差が交易利得(マイナスの場合は損失)となる関係があります。
話を戻して、ここでは発展途上国の一次産品(輸出)価格と先進諸国の工業製品(輸入)価格との相対価格のことを指しています。1950年から1961年までの間の、低開発国向けに行われたあらゆる型の資金供給(借款・投資及び援助供与)の純流入は474億ドルでした。これから利子・利潤の送金を除くと残りは約131億ドルとなります。さらに、交易条件の悪化に伴う損失が約131億ドルと推計されています。
ところがここに第一次産品とあるのは、通常、石油を除いた、主として発展途上国産品のことをいいますが、1958年の世界的な景気後退期には第一次産品価格が低落しました。それは、低開発国(発展途上国)の主たる輸出品である第一次産品の大方は天然材料や食糧品は所得弾力性が高く、所得が減っても需要はあまり減らないのではないか、という予想とは異なった動きでした。宮崎義一氏は、同価格の低落の影響について、次のように述べています。
「所得弾力性の低いはずの第一次産品の輸出額を減少させたものは何か。それは、第6図から明らかなようにもっぱら輸出価格の低落によるものであって、輸出数量はやはり多少増加していたのである。しかし約3%の輸出額の減少は、その前年の1957年、すでに輸入増のため外貨準備を7億ドルだけ失っていた低開発国にとっては、重要な影響を与えた。1958年、ついに、やむを得ず少しでも多くを望んでいた開発資材の輸入を削減せざるを得ないはめに追い込まれた。事実その年の輸入額は6.7%減になった。低開発国にとって輸入が減少するということは、開発が止まることと同じである。このような大幅な輸入減は、1953年以来初めてのことで、低開発国に大きい衝撃を与えた。結局、輸入削減を行い、しかも国際機関などからかなりの経済援助と借款を受けたにもかかわらず、1958年は1957年に続いて、実に10億ドルの大幅な国際収支の赤字を低開発国は経験したのである。」(宮崎義一「現代の資本主義」岩波新書、1967)
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
346『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスによる平和の終焉
第一次世界大戦の前後で大きく変化したものに、イギリスの繁栄に陰りがさし始め、その一方でアメリカがのしてきたことがある。そもそもの話、第一次世界大戦は1914年7月28日のオーストリアのセルビアに対する宣戦布告に始まる。その開戦のきっかけは、同年6月28日、ハプスブルク帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォで暗殺されたのに始まる。
当時のサラエヴォは、同帝国の軍事占領下にあったことから、ドイツとしては我慢がならない。これにより、当時の三国同盟と三国協商にほぼ二分されていたヨーロッパの緊張した国際関係に一度導火線に火がつくと、あれよあれよという短い間にヨーロッパ全体の規模での戦争へと広がっていく。この大戦の主戦場は西ヨーロッパ全域であり、大規模消耗戦のため国土は荒廃していく。イギリスからも、軍隊が派遣される。イギリスの映画『チップス先生さようなら』は、その頃の大陸に兵隊を送る学園の姿を浮き彫りにしている。
さしもの大戦争も、1918年11月の休戦条約をもって終わった。両軍が最も激しく闘った、ドイツとフランスの国境にかけては、大地は廃墟と化していた。大戦後に、イギリスになりかわり世界の経済力にのし上がっていくのがアメリカである。イギリスにおいては、金融面からのショッキングな出来事も重なる。1925年(大正14年)、対戦前と同一の平価である1ポンド=4.866ドルで金本位制に復帰することをきめるのだが、その背景には、「投資収益の対ドル価値を維持するためには、イギリスの輸出競争力の弱体化をも辞さないイギリス政府の金利生活者階級擁護のドラスティックな措置であったといっていいだろう」(宮崎義一「ドルと円」岩波新書、1988、233ページ)とされている。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
345『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と第一次世界大戦(1916~1918)
1916年1月、ドイツで社会民主党の左派のローザ・ルクセンブルグらがスパルタクス団を結成する。ここにスパルタクスというのは、古代ローマの剣闘士奴隷による反乱の指導者の名前にほかならない。1917年1月、戦況の厳しくなったドイツが無制限潜水艦(Uボート)作戦を宣言するに至る。この頃の線状を描いた映画作品として、「西部戦線異状なし」がある。名も無きドイツの一青年が前線にいる間に、一個体の人間として成長していく姿を克明に描くとともに、塹壕と突撃を主体とした戦場のむごさ、悲惨さを余すところなく再現した、不朽の名作といえるのではないか。
1917年4月、アメリカの対ドイツ宣戦があった。当初のアメリカは、「14か条の平和原則」を言って、大戦に介入しない方針であった。1917年3月、ロシアで最初の革命が起こり、皇帝が退位する。続いての1917年11月、ロシアで、社会民主労働等の多数派のボルシェビキがソビエト政権が樹立される。翌年3月、ソビエトはドイツとの間にブレスト・リトフスク条約を結ぶ。これにより、連合国軍の戦線から離脱する。
1918年11月、ドイツ革命が起こる。水軍が、キール軍港を制圧すると、ヴィルヘルム2世の退位・亡命があり、これによりドイツ帝国が崩壊へとなだれ込んでいく。オーストリア・ハンガリ帝国では、皇帝カールが退位を余儀なくされる。ついにドイツが降伏、第一次世界大戦はここに終結する。この年の12月には、戦勝国となったセルビアを中心にモンテネグロ王国とドイツ帝国内の南スラブ地域が合わさって「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」(29年にユーゴスラヴィア王国と改称)をつくる。
明けて1919年1月、敗戦国のドイツで、ローザ・ルクセンブルクらが率いるスパルタクス団が蜂起する。1919年6月、パリで講和会議が開催され、すったもんだのあげく、ベルサイユ条約が調印される。この条約で、ドイツは、アルザス・ロレーヌをフランスに返還。多額の賠償金を負う。1919年6月、ドイツで、スパルタクス団のリープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが惨殺される。ワイマール共和国で国民議会が召集され、エーベルトが大統領に就任する。1919年7月、ドイツ共和国(ワイマール)ができ、ワイマール憲法が制定される。1919年には、コミンテルンが結成される。1820年3月には、カップ一揆が起き、共和制打倒を目指す。1920年には、国際連盟が結成される。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
344『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と第一次世界大戦(~1915)
1840年~1861年、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位する。
1844年、シュレージエン織工による一揆があった。1848年、マルクス・エンゲルスによる『共産党宣言』がだされる。この中で二人は、「労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級に高めること、デモクラシーを戦いとることである」とした。続いてかれらは、「先進諸国にとっては、しかし次のもろもろの措置が概して一般に適用されうるであろう」とし、10項目を挙げている。それには、「すべての子供を公共的に無償で教育する。今日の形体における子供の工場労働を廃止する。教育を物質的生産と結合する、等々」の文言も含まれる。
同年、フランスの二月革命が波及してドイツ(当時は、「プロイセン」といっていた)とオーストリアで民衆による革命運動が起き、ドイツ宰相のメッテルニヒが失脚する。12月には、オーストリアでフランツ・ヨーゼフ1世(~1916)が即位する。1848年にはフランスで「2月革命」が、1853年には「クリミア戦争」があった。後者は、衰退したオスマン帝国を食い物にしていたロシアと、これを嫌うイギリスやフランスとの戦いであった。1858年、プロイセン国王が発狂し、王弟ヴィルヘルムが摂政となる。1859年、オーストリアは、フランス・サルディニア連合軍に敗れてロンバルディアを失う。
1861年、プロイセンのヴィルヘルム1世(~1888)が即位する。1861年には、イタリア王国が成立する。1861年には、ロシアで農奴解放令がだされる。1862年、プロイセンでビスマルクが首相(~1890)に就任する。1864年1月、プロイセン・オーストリアがデンマークに宣戦する。10月、ウィーン条約が締結され、シュレスヴィヒ・ホルシュタインをプロイセン・オーストリアに譲渡することになった。1866年、プロイセンとオーストリアの間で戦争となる、これを「普墺戦争」という。ドイツ連邦が解体し、プロイセンの覇権が確立する。1867年、北ドイツ連邦が成立する。これは、プロイセンを盟主とする連邦であった。1871年、オーストリア・ハンガリー帝国が成立する。
1869年、ドイツで社会民主労働者党が結成され、アイゼナハ綱領が採択される。1870年、プロイセンとフランスの間で戦争が起こる。これを「普仏戦争」という。フランスは、アルザス・ロレーヌをプロイセンに割譲する。1870年には、イタリアがローマを併合する。1871年、ドイツ帝国が発足する。ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝になる。これでドイツ統一国家(~1918)が成立した。1871年、フランスで「パリ・コミューン」が起きる。パリ市民の蜂起があったものの、やがて崩壊した。1873年、ドイツ、オーストラリア・ハンガリー及びイタリアの間で三国同盟が成立する。1875年、ドイツ社会主義労働者党が結成され、ゴータ綱領が採択される。1877~78年には、ロシアとオスマン・トルコ帝国との間で戦争が起こる。1878年6月、ベルリン会議が開催される。
1878年10月、ドイツ帝国内で社会主義者鎮圧法が制定される。保護関税法も制定される。1879年10月、ドイツ・オーストリア同盟が結ばれる。対ロシア防衛の性格があった。1881年6月、ドイツ・オーストリア・ロシアの三国が同盟条約を結ぶ。1882年5月、ドイツ・オーストリア・イタリアの軍事同盟が成る。1884年、アフリカ大陸のトーゴ・カメルーンが、ドイツ保護領となる。ドイツ国内では、1888年、ヴィルヘルム1世没、フリードリヒ3世が即位となる。フリードリヒ3世没、ヴィルヘルム2世(~1918)と代わっていく。
1890年3月、ドイツでビスマルクが首相を辞任する。ビスマルクは、社会主義者鎮圧法でヴィルヘルム2世と対立していた。1891年、ドイツ帝国内の社会民主党(旧社会主義労働者党)の大会で、党内中央派のカウツキーの提案したエアフルト綱領が採択される。1898年、ドイツで第1次の艦隊法が制定される。1898年、ドイツが清国に圧力をかけ、膠州湾(こうしゅうわん)を租借するのに成功する。1900年、第2次艦隊法が制定される。1905年3月、第一次モロッコ事件が起こると、これに触発されたドイツ皇帝が、モロッコに示威的訪問を行う。1907年には、英仏露による三国協商が成立する。
1908年10月、オーストリア・ハンガリー帝国は、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合する。1908年のトルコでは、青年トルコ党による革命があった。1911年7月、.第二次モロッコ事件が起きる。そして迎えた1914年6月28日、同帝国のフランツ・フェルディナンド大公夫妻が、訪れていたボスニアの首都サラエボ(サラエヴォ)で暗殺される。当時のボスニアは、この帝国の軍事占領下におかれていた。帝国は、この占領に反対している「青年ボスニア」の背後で糸を引いているのがセルビアの秘密組織「民族防衛団」だとした。犯人の引渡しをセルビア政府に求める。セルビア政府は、この要求の中に帝国の機関の参加が含まれることに反発した。48時間の猶予期限が設けてあった。
セルビア政府が、その7月28日に至るまで手をこまねいている間に、この日、人口5千百万の帝国(その実体はハプスブルグ家)が、人口430万のセルビアに対し宣戦布告した。バルカンの局地戦であったものが、当時の二分された集団安全保障関係から、またたくまに第一次世界大戦へと発展する。大まかには、ドイツ、オーストラリア・ハンガリー及びイタリアの中央同盟が、ロシア、フランス及びイギリスの三国協商に相対峙した。オスマン帝国とブルガリアは前者に加わり、その他のバルカン諸国は後者の陣営に加わった。1915年、イタリアが三国同盟を破棄して、オーストリアに宣戦した。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆