530『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(チェコスロバキア)
9世紀、チェコとスロバキアの両民族による大モラビア帝国が成立しました。10世紀になると、ハンガリーがスロバキアに侵入しその支配下に入ったため大モラビア帝国が滅亡し、残ったチェコ地方はボヘミア王国という名の封建国家として構成されました。チェコ地方の国家は14世紀にはカレル4世が当時の神聖ローマ帝国の皇帝の座につき絶頂期を迎えました。
1620年、 勢力の伸張著しいハプスブルク家のオーストリア帝国の支配下に入るのを余儀なくされました。1918年の第一次世界大戦後、チェコスロバキア共和国として両地方は再び統一国家となりました。これは、同大戦中のマサリク博士らの独立運動が実った結果でした。
1938年、ミュンヘン協定により、ナチス・ドイツがチェコスロバキアに対し、「スデーデン地方を明け渡せ」と迫ったことで、チェコスロバキア共和国が危うくなりました。英仏がこれをのんだためにナチスは増長していくことになりました。1939年3月15日、ヒトラーのドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハに進軍させ、ボヘミア・モラヴィア地方をドイツの保護領にしてしまいました。
1940年、ドイツが、スロバキアを「独立」させ、ルテニア地方をハンガリーに与えてしまいました。それはミュンヘン協定の蹂躙にほかなりませんでした。ここに、チェコスロバキアは解体されてしまいました。1941年、共産党の提唱により、労働者、農民、手工業者、インテリゲンチャ、一部の反ファッショ的ブルジョア階級の人々を含めた反ファッショの統一戦線組織である「中央革命委員会」が結成されました。
1945年5月にはソ連軍に解放され、チェコとスロバキアの両民族地域の統合が成り、独立を回復しました。1948年5月9日、チェコスロバキア憲法が可決されました。しかし、ベネシコ大統領が署名を拒んだことにより、6月9日彼は大統領職を辞任しました。ゴトヴァルトが大統領職に就き、共産党のザーボトツキを首班とする新内閣が発足し、社会主義にもとづく国づくりをめざすことになりました。
(続く)
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528『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(ノルウェー)
ざっと、ノルウェーの歴史を振り返ってみよう。ノルマン人は、9世紀末に統一国家への歩みを始め、11世紀初めにキリスト教を受容して、この地域での国家をつくるにいたる。11世紀後半からは、デンマークのクヌート王の支配を受ける。そんな中でも、13世紀に自治が進み、首都オスロを建設するにいたる。おりからのハンザ同盟の一員となり、大西洋側のベルゲンは商業都市として栄え、ハンザ同盟の在外商館が置かれた。1380年からは、デンマークと「同君連合」を保っていく。
1397年~1523年は、北欧三カ国によるカルマル同盟を形成していく。とはいえ、実質的にはデンマークのマルグレーテの支配を受ける立場であった。そのカルマル同盟が1523年にスウェーデンが分離して実質的に解体した後だが、引き続いて宗主権をもつデンマークに頭が上がらず、ノルマン人の入植地で会ったグリーンランドもデンマーク領となっていく。1814年、デンマークがノルウェーをスウェーデンに割譲する。1905年には、スウェーデンとの同君連合を解消し、ノルウェーとして独立しました。政体は立憲君主制をとっていく。
1939年から第二次大戦中は、ナチス・ドイツに占領される。1940年6月7日、ノルウェー政府と国王ホーコン7世は国外脱出し、ノルウェー全土がナチス・ドイツ軍によって制圧される。ノルウェー国王と閣僚達は、イギリスの首都ロンドンに亡命政権を樹立し、あくまで抵抗姿勢をとり続ける。
第二次世界大戦での連合国の勝利により、ナチス・ドイツの占領下から解放される。1949年、伝統的な中立政策から転じ、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する。
(続く)
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527『自然と人間の歴史・世界篇』東西冷戦への道
1947年6月のアメリカによるマーシャル・プランの発表がありました。マーシャルとは、当時の国務長官の名前です。これを基に、1949年には同プランの受け入れ機関として欧州経済協力機構(OEEC)が設立されました。これに参加したのは、イギリス、フランスなど16か国でした。
この同じ1947年10月、米国のヨーロッパ復興計画マーシャル・プランに対し、社会主義陣営の側はコミンフォルムを結成して対抗しました。1939年からソ連共産党の政治局員であったジュダーノフは、その結成に際し、「ヨーロッパの多数の国をアメリカ資本主義の利益に従属させようとする意図を秘めている」としてマーシャル・プランを非難したのでした。
ここで強調しておくべきは、他の発展途上国や「低開発国」への資金散布的かつ紐付きの経済援助とは違って、ヨーロッパに対しては、被援助国へ計画へのイニシアチブを与えたことです。まず最初にヨーロッパ各国が復興に向けた計画を策定し、米国がこれを審査して承認の上、資金の割り当てが行われたことで、単に経済の安定だけでなく、経済成長への道が敷かれたといっていいでしょう。
米国のヨーロッパ復興優先の考え方は、1947年6月5日、マーシャルのハーバード大学での講演にも現れています。
「対ヨーロッパ援助問題に専念している間に、世界の他の地域でも恐るべき深刻な問題に悩まされていることを看過してはならない。しかし全体としての世界問題の規模が大であれば大であるほど、アメリカの援助を、最も速やかに効果を生ずるような危険をはらんだ地域に重点的に周到に振り向けることが必要となる。」
マーシャル・プランによる資金投下は4年間で約125億ドルを計上しましたが、その大部分が商品形態の贈与であり、返済義務の明確なクレジットは10%程度にすぎなかったこともヨーロッパの経済の復興と発展に貢献した、ということができるでしょう。
一方、社会主義陣営ではなかなかに一枚岩とはなっていきませんでした。1948年6月、コミンフォルムの「ユーゴスラヴィア共産党の内部事情に関する決議」中にでは、「ユーゴスラヴィアの指導者が「自国内における資本主義的諸要素の増大およびそれと結びついた農村における階級闘争の激化の事実を否定している」とあるのも、そんな一つのあらわれともいえるでしょう。
ソ連は、アメリカを中心とする資本主義国に対抗して1949年に経済相互援助会議(コメコン)を設立し、東ヨーロッパに影響力を及ぼそうとしました。これに対するに西側は、1950年11月、対社会主義国への戦略物資の輸出制限を旨とするココムがつくられました。1955年5月、当時の西ドイツのNATO加盟に脅威を覚えたソ連が主導する形で、それまでの2国間条約を超えた多国間条約を東ヨーロッパで取り結ぼうと考え、ポーランドののワルシャワに集まり、ワルシャワ条約機構を結成しました。この政治・軍事同盟に加盟したのはソ連、アルバニア、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの8か国とオブザーバーの中国でした。
1956年のソ連共産党第20回党大会におれるフルシチョフの演説に、こんなくだりがあります。
「社会主義の原則にもとづいて社会を改造する形態には、ソヴェト形態とならんで、人民民主主義の形態がある。この形態はポーランド、ブルガリア、チェコスロバキア、アルバニアその他ヨーロッパの人民民主主義諸国でうまれ、これらの国のそれぞれの具体的な、歴史的、社会・経済的諸条件と特殊性とに応じて活用されている。この形態は、10年にわたってあらゆる面からためされ、完全にその価値を実証した。」
(続く)
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420『自然と人間の歴史・世界篇』平和を夢み命をつないだ人びと
2012年10月23日、ポーランドからの報道によると、ナチス・ドイツによるホロコーストの舞台となったアウシュビッツ強制収容所で、「人体実験」の記録写真や収容者の顔写真の撮影を強要された元写真家ウィルヘルム・ブラッセ氏が23日、南部シビエツで死去(94歳)でした。彼は、オーストリア人の父とポーランド人の母を持ち、写真業を営んでいた。ナチスへの忠誠を拒み、ポーランド軍に入隊。1940年に捕まり、アウシュビッツに送られました。収容所では「死の天使」と呼ばれた医師ヨーゼフ・メンゲレによる人体実験の様子を撮影しました。1945年初めにオーストリアの収容所に移送され、同年5月に解放された、とのことです。
2012年10月22日のポーランドのからの報道によると、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の舞台となったポーランドのアウシュビッツ強制収容所の元収容者のうち、生存者としては最高齢とみられていたアントニ・ドブロボルスキ氏が21日、同国北西部デンブノで死去(108歳)しました。小学校教師だった同氏は、1939年にポーランドに侵攻したナチスが教育を制限した後も隠れて授業を継続。42年にゲシュタポ(秘密警察)に逮捕され、アウシュビッツに送られました。その後、別の収容所2カ所に移送された同氏は45年、終戦に伴い解放されました。
1944年8月1日のポーランドでは、ワルシャワ市民が市街各地で武器を手に一斉蜂起 しました。最初優勢だったのは蜂起軍の方でしたが、時間が経つにつれ蜂起軍は次第に力を失っていき、1944年10月10月12日、クラシンスキ広場にて、蜂起軍は武器を捨て降伏 しました。ワルシャワ蜂起でポーランド軍の敗戦が決定的となり、それまでの隠れ家生活も食料が底をついて、シュピルマンはぎりぎりの生活を送っていましたが、いつまでも隠れていられるわけではありませんでした。やがてふらりと現れたドイツ軍の将校にみつかってしまい、あわやこれで最後かというときに、ピアノの演奏をしたことで九死に一生を得たのでした。彼のことは、戦後、映画「戦場のピアニスト」として紹介されるに至りました。実際にそんなことがあったかどうかは証明ではていないのかもしれませんが、なかったともいえないような物語です。
オーストリア出身の心理学者ヴィクトール・フランクルの「夜と霧ードイツ強制収用所の記録」に、こうあります。
「囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェの「何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。」
「すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。」(八 絶望との闘い)
「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。」(八 絶望との闘い)
「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。」(八 絶望との闘い)
「人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。」(八 絶望との闘い)〔以上、すべて霜山徳爾訳〕
(続く)
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