♦️560『自然と人間の歴史・世界篇』イラク

2017-10-23 20:14:26 | Weblog

560『自然と人間の歴史・世界篇』イラク

 1939年9月、ドイツとの国交を断絶しました。1941年4月、ラシード・アリー・アル・キーラーニー(ガイラーニー)のクーデターにより、ドイツとの国交を回復しようとしました。1945年5月、イギリス軍のイラク通過を阻もうとしたことから、イギリスとヨルダンの連合軍が介入したことで、ガイラーニー政権が倒されました。1943年1月、その後に成立したヌーリーッサイード政権により、ドイツに対し宣戦を布告しました。
 そして、第二次世界大戦をくぐり抜けます。1958年、革命派が軍事クーデターを起こして、共和国政府を樹立しました。この時、満を持してか、アブドロ将軍は石油産業の国有化を宣言しました。
 これに対して、アメリカは直ちに反応し、直接イラクに攻め込むことはなかったものの、レバノンに5000人の海兵隊を派遣しました。石油利権でアメリカに負けてはならじ、とするイギリスも、ヨルダンに空挺部隊を派遣して圧力をかけました、これらの圧力により、生まれたばかりの共和国政権は石油の国有化の企てを放棄せざるをえませんでした。

(続く)

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♦️559『自然と人間の歴史・世界篇』イラン

2017-10-23 20:13:16 | Weblog

559『自然と人間の歴史・世界篇』イラン

 1908年、ペルシャ(現在のイラン)において、イギリスの手により、石油が発見されました。イギリスはここに国策会社をつくり、この石油の利権を全て手に入れようとしました。この会社は、やがてBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)として世界の石油市場を牛耳る七大石油メジヤーの一角に食い込むことになります。
 その後の1951年、イランのイギリス系石油メジヤーの基地アバダンにおいて、自国の本来の権益に目覚めた石油労働者たちがメジャーの国外追放を叫んでデモを起こし、それは暴動となって全国に波及する勢いでした。この事件をてことして、民族主義者であったモサデク首相は、石油産業の国有化を内外に宣言しました。
 ところが、イギリスはその後の対処に用意周到の体制で臨み、ほどなくペルシア湾を封鎖したことにより、シラン政府の石油の販路をふさぐ作戦にでました。その上、当時国外に亡命し脱出していたパーレビ国王を呼び戻す工作を行い、国王派を支援してクーデターを起こさせ、敗れたモザイク首相は死刑に処せられました。

(続く)

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♦️558『自然と人間の歴史・世界篇』サウジアラビア

2017-10-23 20:12:04 | Weblog

558『自然と人間の歴史・世界篇』サウジアラビア

 1902年、アブドゥルアズィーズ国王(サウジアラビア王国の初代の国王)が王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドでナジュド及びハッサ王国を建国しました。1927年5月20日、ジッダ条約によりイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナシュド王国が成立しました。1932年、主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が建国されました。初代国王のイブン・サウードの名前の由来については、三浦朱門氏によりこう説明される。
 「イブン・サウード(初代サウジアラビア国王。アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラハマーン・ファイサル・アール・サウード)という人がいるが、イブンはビンと同じ意味の方言で、息子という意味で、サウード家の支配するアラビア国ということになる。」(三浦朱門「老年の流儀」海竜社、2011)
 1934年、サウジ・イエメン戦争でイドリシ朝アスィール首長国を併合しました。

(続く)

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♦️644『自然と人間の歴史・世界篇』中国の四つの近代化路線

2017-10-23 09:38:50 | Weblog

644『自然と人間の歴史・世界篇』中国の四つの近代化路線

 1964年12月、周恩来(zhou1en1lai2)総理が第三期全国人民代表大会第一回会議における「政府活動報告」でこう述べました。
「あまり長くない期間内に中国を近代的農業、近代的工業、近代的国防、近代的科学技術をそなえた社会主義の強国に建設する」
 これを受けて、1965年1月、政府は「農業・工業・国防・科学技術」の4つの近代化を提起しました。1958年から推進された「大躍進」運動が失敗に終わった後の経済調整期を綾(あやど)るスローガンとして提起されました。
 この四個現代化(si4ge4 xian4dai4hua4)は、その後の文化大革命(1966年から1976年まで続いた政治運動のこと。略して「文革」(wen2'ge2)と言われる)などの党内政治闘争にかき消されていった感がありますが、1975年にまた政治の表舞台に登場します。
 1973年、毛沢東への周恩来(zhou1en1lai2)、の進言により、鄧小平が副首相になりました。1975年1月、第四期全国人民代表大会第一回会期において、周恩来(zhou1en1lai2)が「今世紀中に」と期限を明示して、「政府活動報告」の中で再びつぎのように唱えました。
「第一段階では15年の時間をかけて、すなわち1980年までに、独立した、比較的整った工業体系と国民経済体系をうち立てる。
 第二段階では、今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の近代化を全面的に実現して、我が国の国民経済を世界の前列に立たせる。」
 周恩来(zhou1en1lai2)は翌1976年1月に死去し、毛沢東(mao2ze1dong1)も同年9月に死去しました。
 この報告については、鄧小平(deng4xiao3ping2)は後に「毛沢東主席がわたしに責任をもって起草するよう指示した」(「鄧小平選集」第三巻)ものであったことを明らかにしています。このことは、当時の毛沢東(mao2ze1dong1)の頭の中が、一部で報じられているような「階級と階級闘争」一辺倒のものではなかったことを示唆しているのではないでしょうか。
 この四個現代化(si4ge4 xian4dai4hua4)が国家目標に据えられたのは、さらにその2年後、1978年12年の中国共産党大11期第3回中央委員会全体会議(三中全会)の場でした。

(続く)

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♦️643『自然と人間の歴史・世界篇』中国の文化大革命

2017-10-23 09:37:42 | Weblog

643『自然と人間の歴史・世界篇』中国の文化大革命

 1966年5月、中央文革小組が設置され、文化大革命(通説では1978年に終了)が始まりました。この年の5月4日から5月26日まで開催された党中央政治局拡大会議では、従来の各レベルの党組織の過半が機能麻痺の状態であることを認めました。そして1966年5月末には、陳伯達ら中央文革小組の工作組が「人民日報」に進駐して、同社を支配下に治めました。
 顧みて劉少奇(liu2shao4qi2)は、1958年の暮れには大量の餓死者が発生したことで、大躍進政策の失敗の責任をとり国家主席を辞任した毛沢東の後を受けて、1959年4月に国家主席に就任していました。ところが、それから数年後の1966年に毛沢東の肝いりで始まった文化大革命において、その彼が打倒されるべき政治勢力として攻撃の矢面に立たされました。彼は、農業生産活動面では、自留地(農民個人が占有し、自由な作付けで自分の所有物として収穫できる若干の土地)や農家が行う現金収入獲得のための副業、農村定期市といった創意工夫を復活させ、拡大させようとしていました。けれども、毛沢東からすれば、これは農業の個人経営と農村の市場経済を容認することから、これを拡大していけば、やがては中国は資本主義への道を歩むようになっていくであろうことを危ぶんだからにほかなりません。
 1966年8月8月1日から12日、中共8期11中全会(中国共産党中央委員会第11回全体会議)で、「プロレタリア文化大革命についての決定」がなされました。
 その中では、「無産階級文化革命の権力機構」として文化革命小組、文化革命委員会、 そして文化革命代表大会の執行部の選出に当たっては、「パリ・コミューンのように、全面的な選挙制を実行しなければならない」としています。
 この大会において選出された新人事では、急進左派の文革組の躍進が目立ちました。その一方で、それまで第二位の序列であった劉少奇(liu2shao3qi2)は第8番目へと降格した反面、林彪(lin2biao1)は党内第二位の地位を手に入れました。
 1966年12月16日、林彪(lin2biao1)は「毛沢東語録」再版の予言を執筆しました。そして、1969年4月12日から24日にかけて開催された共産党第9回全国代表大会において、林彪の党内における地位が法律で定まりました。
 1967年1月11日、党中央委員会、国務院、中央軍事委員会(林彪)、中央文革小組の4つの部門の連盟で、「上海労働者革命造反総司令部」等32の「造反派」組織に向け権力奪還を賞賛する祝電が発せられました。
 同年10月17日、この4者の連名で「系統別に革命的大連合を実行することに関する通知」を発表しました。
 翌1968年8月25日、この4者の連盟で、「労働者宣伝隊を派遣して学校に進駐させることに関する決定」を出しました。
 「実をいえば、党中央、国務院、中央軍委、中央文革小組の4部門のなかで、党中央と国務院の毛沢東、周恩来は架空の存在にすぎず、実際の権力は中央軍事委員会-林彪の手中に掌握されており、中央文革小組は単に世論の扇動工作を担当しているだけであった。中央と国務院には兵力がないが、林彪は数百万の大軍を操作ていた。この数百万の大軍は実質的にその当時すでに各レベルの地方行政工作に携わり、さらに地方の民兵を連合させることを通じて全国各戦線の権力を支配していた。」(加々美光行編集「現代中国の挫折-文化大革命の省察、アジア経済研究所、1985」)
 文化大革命のその後の歩みは、どうであったのでしょうか。第3次(1966年-1970年)、第4次(1971年-1975年)に加え、第5次(1976年-1980年)もあったいわれますが、毛沢東(mao2ze1dong1)の死後のものは、いわば幻の計画で、21世紀初頭の今日でも詳しい内容は公表されていません。そこで、文化大革命という政治運動は、1976年には政治の主役から降りていったというのが大方の見方となっています。
 第3次運動の時期としては、ソ連でいえば利潤導入の経済改革が実施された時期ですが、中国においてもリーベルマンらの影響を受けた孫冶方(sun1zheng4fan1)などの経済改革派の存在がありました。しかし、1966年から吹き荒れた文化大革命の洗礼を受けざるをえませんでした。
 これらのうち1967年1月が一番の高揚期でした。同年2月5日、上海人民公社成立宣言「偉大な一月革命万歳」が発表されました。しかし、これは中央政府の認めるところとならず、2月24日には革命委員会が設立しました。1月31日には黒竜江省(hei1long2jiang1)革命委員会が、2月3日には山東省(shan1dong1sheng3)、2月13日には貴州省(gui4zhou4sheng3)革命委員会(ge2ming4wei3yuan2hui4)がそれぞれ成立しました。
 そして、この過程で出されたのが、毛沢東(mao2ze1dong1)の一連の「最新指示」にほかなりません。
 「権力奪取を必要とする一部の地方や単位では、革命的な「三結合」の方針を実施して、革命的で、代表性があり、しかもプロレタリア的権威をそなえた臨時権力機構をつくらなくてはならない。この権力機構の名称は、革命委員会とするのがよい。」(毛沢東(mao2ze1dong1)
 「革命委員会の基本的経験には三つある。一つは革命的幹部がいることであり、一つは軍隊の代表がいることであり、一つは革命的大衆の代表がいることである。革命委員会は一元化された指導を実行し、重複する行政機構を打ち砕き、精兵簡兵をおこない、革命化され、大衆と結びついた指導グループを組織しなければならない。」(毛沢東(mao2ze1dong1)
 「「三結合」の革命委員会は今回の文化大革命における労働者階級と人民大衆の一種の創造である。」(毛沢東(mao2ze1dong1)(以上は、山内一男「中国社会主義経済研究序説」法政大学出版局、1971より訳文を引用。)
 1966年12月当時の人民日報社説はこの点について次のように述べています。
 「生産を発展させるわれわれの方法は、帝国主義や現代修正主義のそれとはまったく異なっている。われわれは、第1に強制にたよらず、第2に物質的刺激によらないで、毛沢東(mao2ze1dong1)思想による統制にたより、政治思想工作にたより、ヒトの思想の革命化に頼る。人々の政治的・思想的様相がかわれば、精神的力は巨大な物質的力に転化するようになる。」
 このような主体性を重視する考えからは、利潤率を企業の優劣をはかる唯一の指標としている、との批判を免れることはできず、改革派は批判の矢面に立たされました。当時は、社会主義の生産は社会主義政治活動の一部であり、政治的任務に服従すべきものとみなされていたのです。これに対して、周恩来(zhou1en1lai2)首相は、「四つの近代化」を掲げて、生産活動の重要性を強調し、人間改造の動きを牽制したことが知られています。
 1969年4月には中国共産党第9回代表大会が開かれ、つぎの党人事が決定されました。中央委員会主席:毛沢東(mao2ze1dong1)、中央委員会副主席:林彪(lin2biao1)、政治局常務委員:毛沢東(mao2ze1dong1)、林彪(lin2biao1)、陳伯達、周恩来(zhou1en1lai2)など。ここでは林彪の勢力が増進している一方、劉少奇と鄧小平(deng4xiao3ping2)が失脚しているのがわかります。

(続く)

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♦️642『自然と人間の歴史・世界篇』中国の大躍進政策

2017-10-23 09:36:23 | Weblog

642『自然と人間の歴史・世界篇』中国の大躍進政策

 1962年1月、共産党と軍の最高指導者であった毛沢東(mao2ze1dong1)が大躍進政策の失敗を共産党拡大中央工作会議(約7000人が参加)で表明しました。この会議において、1月26日には劉少奇(liu2shao4qi2)の書面報告が完成し、その骨子としては、代役新政策の誤りをのべつつも、「われわれは豊富な経験を得たのであり・・・・・、党中央と毛沢東同志の指導下にいっさいの困難を克服し勝利のうちに前進していこう」というものでした。
 続く1月30日には、毛沢東が「経験不足であった」という種子の発言で自らの指導の誤りを認め、自己批判を述べました。大躍進政策はここに、ようやく終止符を打ちました。
 これを受けて、大躍進政策による国民経済の疲弊を脱するための幾つかの措置がとられました。
①都市人口の削減(農民を農村に戻す)
②基本建設事業の縮小
③農業生産の回復と発展のための措置(人民公社における共有化の程度を下げ、農民の生産意欲の回復をはかる)④市場の安定のための措置
⑤赤字財政を緩和するための措置、等。
 1961~1965年の「調整期」にとられた農業政策としては、「三自一包政策」があります。ここで「三自」とは、自留地(自分用の土地)、自由市場、自負盈亏(自分で損益の責任を負う)の3つの「自」のことをいい、一包は「包産到戸」とは家族で生産を請け負うことを奨励する内容でした。
 これは、人民公社制度の活用を通じて農業生産を好転に向かわせようとする政策(後の「四四運動」と呼ばれる農村社会主義運動など)とは異なるものであり、同会議においてはこの二つの潮流が「くんずほぐれず」の状態で対抗しあっていたわけであり、後の文化大革命(1966~1976年)では、「三自一包政策」は徹底して批判の対象とされていきます。

(続く)

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